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落語家になる

落研生活も終わりを迎えようとしていた頃、自分の将来について毎日考えていました。大学3年の頃から漠然と「落語家」というのが脳裏にありましたが、まだぼんやりしていました。

昔から、お笑い芸人になりたい気持ちもあったので、とても揺れていました。ただ自分の「笑いの筋肉」が大学生の間に「落語をやる筋肉」になっているのは薄々気が付いていました。

落語で笑わせるのと、お笑い芸人としてコントやったり漫才やったりして笑わせるのって根本的に似ているようで違うと思うんです。

堀井憲一郎さんの著書の中で「落語はお笑いと違って、ボケとツッコミでスパッと笑わせるんじゃなくて、それがセットになっていてその一連の流れで可笑しい。」みたいなことを言っていて、これがとても納得の行く説明かなと思いました。つまり落語ってのは会話であって話術であって、その切り取った中で笑わせるんですね。しかもストーリーがあって、終わった時にまたホッとするという、瞬間芸のお笑いとは根本的に違います。

そんなわけで僕の脳は落語の方を使う脳に切り替わりつつあったので、気持ちは落語に流れていました。

あ。そもそも就活は全くしていませんね。

大学3年くらいから説明会とかが始まるんですが、一度も行ったことがないです。会社に就職して仕事をするって考えが全くなかったですね。今考えれば、そういうセミナーとかには出ていても良かったような気がします。そういう世界も少し覗いてみても良かったかと。

そんな落語とお笑いを行き来しながら過ごしていた大学生活でしたが、卒業公演でやった「らくだ」で迷いが消えました。

この噺もやっぱり柳家から入ったんですが、松鶴師匠はもちろんいろんな方を聴きました。古典落語の中でも当時は一番好きな噺ですね。当時はってのは、今は一番ではないからですが。談志師匠も凄かったですね。これをもし生で聴いたら、談志師匠に入門したいと思ったかもしれないです。

稽古しながら手応えというか、心の変化がありました。「落語の難しさ、奥深さ。」をひしひしと感じていました。もうとにかく難しいんです。そらそうですよね。落語家だって、何年もやってこの噺に手を出してそれでも難しいんですから。

それを、たかだか大学3年しかやっていない素人の学生がやるわけですから。そこで自分の天井を触って、ああもうこれ以上は出来ないからやめよう。ってこれが普通の学生ですよ。そうやってみんな就職して行くんです。

ですが僕はそうならなかったんです。「難しいけど、これは一生掛けて出来るぞ。」って思ったんです。数学者が、証明できない数式に一生懸けて挑むみたいな。そんな感じですね。

そう思ってからは迷いはなくなりました。

まずは落研のOBに相談し、その後顧問だった小団治師匠に相談。僕が電話で「相談したいことがありまして。」と言っただけで、落語家になりたいと思っていることはすぐに察しがついたようです。

数日後、小団治師匠のとこに伺うと「噺家になりたいんでしょ?」と言われた時は愕きました。でも後で聞いたら、「君はずっとそんな顔してたよ。」って言われました。落語家になりたいというのが顔に出ちゃってたんですね。

ただ僕はその時まで何にも考えていなかったのは、誰に弟子入りしたいとかってことが全く無かったんですね。ただ落語家になりたかっただけで、それ以上のことは何にも考えていなかった。

今考えればとてもやばいですね。落語家になりたいだけって一番やばいです。

ただこういう言い方はなんですけど、人生においてとても大事なことはその時一番信頼出来る人が導いてくれるとその時まで思っていたんです。大学を決めたのは親だったし、高校を決めたもの親でした。東京に出て来て一番信頼出来る方は小団治師匠でした。

なので師匠が「ウチで」と言えば小団治師匠の弟子になっていたかもしれないです。だけど、小団治師匠はそうではなかった。細かいニュアンスは忘れたんですが、「君は林家が良い。」というような事だったと思うんです。そんなことでウチの師匠正蔵を勧めて頂きました。数ある落語家の中でウチの師匠を勧めたのにはもう一つ理由があって、「修行をきちんとさせている。」というのがあったようです。内弟子(住み込み)までではないものの、自宅から毎日通わせて、寄席が終わっても師匠の家に一旦帰る。こういう修行をさせている一門は今少ないからということでした。

この小団治師匠のご判断は本当に僕にとっては奇跡みたいなもので、もしあの時なんらかの柳家の師匠のところに行ってたらまた人生は変わっていたと思います。

普通なら自分で師匠を選ぶものですが、僕にはそういうお導きがありました。相談に行ったのは卒業公演の後すぐなんで、卒業まで時間がありました。

なので小団治師匠には「入門したら自由な時間はないよ。だから今やりたいことをやっておきなさい。」と言われて、それから寄席に行ったり、今までたくさん聴いてなかったウチの師匠の落語を聴きに行ったり(聴いてなかったんかい)してました。

そうこうするうちに三月になって小団治師匠から電話があり、「3月15日に根岸に行く約束して来たから。」ということで、いよいよ僕が根岸に行く日が決まりました。

僕は当時、「大事な局面では坊主にして行く。」と決めていたので、当日は坊主で決め込んで、小団治師匠と共に根岸の師匠宅へ行きました。

普通入門というと、両親を連れだって行くんですが、ウチの師匠が「小団治師匠には世話になってるし、親代わりと思って引き受けます。」と言ってくれて、根岸のおかみさんは「顔はまずいけど、学習院だから間違いないわね。」という感じで、割とすんなり弟子にして頂きました。

あの世代には学習院は効きますね。

「明日から修行しょう。」

ということで僕は次の日から見習いとして根岸に通うことになりました。

この入門の話から判るように、僕はまず普通の入門の仕方ではありません。いわゆる寄席で出待ちみたいな。ちょっとイレギュラーなんです。なのでいつも入門エピソードを喋らなきゃいけない時は長くなるし、説明が難しくはっきりしてませんでしたが、ようやく詳細に話せました。

小団治師匠には感謝しても仕切れないほどの恩がございます。


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