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日記#23.04.02

自分より絶望している人と居ると不思議と私が頑張らなくてはと力が入り、自分より希望に満ちた人を眺めていると絶望してくるので、いつまでも人により添えないのだろうなと、ふと気付く。

ダニング=クルーガー効果には、割とどの段階にも中二くさくカッコいい名前がつけられている。絶望の谷、希望の丘、とか。

ブルーピリオドの中で繰り返し描かれる、「武器が少ないほど、却って迷いなくそれを振るうことができる」という現象。今も昔も、アンテナの感度と感性の豊かさが突き抜けているほど人生に絶望していることと根を同じくする問題。ダニング=クルーガー効果だなんてはしゃいだ名前をつけられているけれど、それはやはり人間は忘却によって中庸を愛すべくデザインされた生物で、何かを間違えて全部を掌握してしまう人間ほど中庸を見失い、寄る辺なく情報の海で彷徨い続けてしまうということではないか……とか。そしてそれらを全て見渡した上で取捨選択し、指針をたてることのできるひと握りの人間が、後世にまで残る意義ある創作を遺していく。

かなり趣味が合うのでオススメを信頼している先輩がいる。たった2つの歳の違いでは説明できないほどの「知らない」を私に横流ししてくれるその人も、元は高校の頃から奇数楽的ギターを弾き続けて、好きなバンドの情報は教室I(nternet)を駆けずり回って集めて、そのルーツにもひと通り目を通して……といったような病的な執着をきちんと見せられる人だった。対する私は、なんとなくギターを買って、なんとなく弾ける範囲の曲をあわせてみて、なんとなく音を組み立ててバンドのような何かを演出してみて、音作りと画作りとテキストの装飾でバンドというブランドだけを魅せるという浅はかな低きにどんどんと流れていって─── 結局手元に残ったのは、毒にも薬にもならない程度の知名度に、空っぽになった財布、高まった自意識、そしてどこに出しても恥ずかしい技術の数々。

少ない武器を振り回すだけの日々。それが初期衝動としてブランド化・神格化され愛されるのがロックバンドの易しいところかもしれない。裏を返せば、ほとんどの人間は老いに勝てないのだから、恥を切り売りして金に変える市場には常に一定の価値があると言える。だから私はここを選んだのか? 結論を急ぐのはやめにした。多分ギターがある程度弾けたからとか、等しい時間を長く拘束できるからとか、そんな理由だった気がするけれど。

上手に馬鹿をやる、ということが求められている。中途半端に勉強できるやつが精神病棟に入りがち、とも言う。誰が言い出したか、「野生の哲学者」みたいな概念も見たことがある。要は、本当に考えることができない人間は病まず、逆に本当に考えることができる人間はきちんと諸処の悩みにそれぞれ決着をつけることができるし、仮に自分でそれをできないのならば、きちんと先人が出した結論であるところの書籍を巡ってそれにたどり着くことができる。しかし、明らかに優秀な先人の出した結論たる書籍を解さない「野生の哲学者」共は、今も昔も普遍的な悩みに対して、凡庸な頭脳をぼんやりとめぐらせ、日々無為に神経を擦り減らし続ける。

私の場合、限りなく「野生の哲学者」に近いものの、啓蒙によってなんとかそれを脱さなければという意識を植え付けられた、比較的幸運な凡人である。或いは、そのおかげで理性的な批判を自己に向けることはできているのに、おそらく本質的な理解に辿り着いて居ないがために右脳がそれを跳ね除けようとしている白痴そのものかもしれない。

今日は1日かけてインターン応募用のgithubを急拵えで作成し、自身のスキルの無さを痛感した。面接が物を言うのだろうけど、院試すらも何故か面接が無い特殊事例を引いてしまったので、雲行きはだいぶ怪しい。地元の友人と話していたら、どうやらこの辺りにまともな職場は残っていないらしく、手当たり次第インターンに申し込み続ける無職生活が始まってしまうかもしれない。Chat GPTにメールの本文添削してもらうようにしてから、その辺りはだいぶ楽になった。アクセスが集中しない時間帯を狙うのがミソ。

only if you call me jonathanを1日10本程度のペースで読み進めていくことが、日記のクオリティを維持する最善手かもしれない。明日は学生証を手に入れるべく大学に殴りこまなくてはならない。午後からあいた時間にどこへ行こうか、何を観ようかということだけを考えることにした。

ドカーン(爆発オチなんて、サイッテー!)

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