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ひとりフリーランスがふたりチームをつくった。その理由と、起きたこと。

2009年1月に独立してから、2020年3月まで1人で仕事をしていました。※厳密には、2013年5月〜2014年4月に被雇用期間がありました。

「ひとりでいられる」ことは、わたしにとって絶対的な価値です。
誰にも邪魔されずに、今考えたいことを考えられる。
身の回りに何か不備があっても(何かと多い・笑)、誰にも咎められない。
報連相の必要もなければ抜け漏れのリスクもない。
とても自由で快適でした。

わたしは三人姉妹の長女に生まれ、二人の妹は双子でわたしが2歳半のときに生まれたため、母は多忙を極め、幼少期からひとりで祖父母の家に預けられることが多かったです。そのためか、幼いころから友達とにぎやかに遊ぶより、ひとりで黙って本に没頭し、本の世界で架空の登場人物たちと遊ぶことを好んでいました。また、中学校では学校の成績が学年一位になりました。1番は、ひとりしかなれません。ひとりしかなれないものになる気持ちよさを知りました。そして、勉強とはひとりでするものです。ひとりで対象となる知識に向き合い、頭に叩き込み、自由自在にアウトプットできるようにする訓練。これを、誰の助けも借りずにひとりでできること、その評価が他の誰でもない私に返ってくること。それが公正で潔く気持ちのいい状態だと感じるようになりました。逆に言えば、それを邪魔されることを嫌うようになったとも言えます。

会社組織というところは、人がたくさんいます。わたしは会社員としての修行時代、社員40人ほどのベンチャー、5000人(当時。今はさらに巨大に)の大企業などで働いていましたが、それはもう、仕事場にいけば見渡す限り人だらけ。当たり前といえば当たり前ですが、目の前の仕事とは直接関係のない誰かの電話の声は響いているし、上司や同僚はすぐそこにいて立ったり座ったりしているし、空間そのものが広すぎて、全然集中できませんでした。賑やかといえば聞こえはいいのですが、それは私にとって、ノイズだらけの劣悪な環境でした。

こんなところでは、何一つ考えを深めていったり、生み出したりできない。それなのに、パフォーマンスを発揮して、評価されなければ、お給料がもらえない。だから、企画を生み出したりじっくり調べ物をしたり調べた情報を魅力的に構造化するといった仕事は、人が減った20時以降か休日にしていました。また、人が多すぎるので常に比較され、自分でも自分を他の人たちと比較して、大混乱。そもそも評価軸は会社で用意されていて、自分のものさしを持つことも許されないような空気を毎日呼吸していました。

ここでは本当にやりたいことはできない。それが何かすら、突き止められない。さっさとスキルを身につけて、独立しよう。在籍中、その考えを疑ったことはありません。今思えば、そんな組織不適合者のわたしを置いてくれて、スキルを獲得する機会を与えてくれて、育ててくれた会社には感謝しかありません。本当にありがとうございました。

望んでなったひとりフリーランスの世界で、わたしはのびのびとやりたい放題させていただきました。お仕事は、途切れません。今思えば、わたしがしてきた編集者・ライターという仕事は、士業ほど専門性や報酬が高いわけでもなく、国家資格のようなお墨付きが必要な仕事でもありません。だから、目指す人はそう多くなく、だけれども、情報を人に伝わるように加工するという仕事のニーズは大小さまざまな企業に確実に存在する。だけれども、従業員として雇うほどではなく、なおかつ切り出しやすい。とても外注しやすい仕事です。

そんな背景に支えられ、さまざまな企業の経営者やプロジェクトリーダーの方と一緒にコンセプト(目的と手段の言語化)やクリエイティブ(表現物)をつくりあげたり、2度も地球一周をさせていただいたり、沖縄に移住したり離島に住んだり東京と2拠点にしたりと、場所と時間の自由を謳歌しながら10年が経ちました。

途中、仕事が暇な時期に不安定な身分が不安になり会社組織に戻ろうとしたことが2度ほどありましたが、そもそも組織不適合者ですので内定をいただくことはなく、そうこうするうちに次の大きめ案件や思いがけない面白そうな案件が舞い込んで、ワクワクしながら取り組むうちに時が過ぎていったのでした。

何度か、お仕事で知り合った複数の尊敬するかたに会社にしたほうがいいとアドバイスをいただきましたし、自分でも「何年も立場が変わっていない」ということが嫌になって法人化を検討したこともあります。

でも、どこか踏み切れない自分がいました。わたしにとって「会社」というのは、明確に役に立てる市場を見定められている上で、固有の存在意義や技術を持っているユニークなもの。そうでなければ意味がない。ただ法人格を持っているだけで、今と同じ、ひとりでできることをやっている会社や、社長が社長でいるためだけの会社なんて意味がないと思っていたのです。わたしが法人化しても、数多ある制作会社や編集プロダクションの末席にひとつ泡沫会社が現れるにすぎない。世の中にとって特段プラスでもマイナスでもない。そう思って、気乗りがしないまま時が過ぎていきました。

この状態に変化の兆しが見え始めたのは、2度目の地球一周を終えた、37歳になりたての頃でした。独立して8年。こみ上げてきたのは、「このままじゃ圧倒的につまらないし、不安」という思いでした。何かを変えたいと思った時に私が出た突飛な行動は、医師を目指すというものでした。引き続き、ひとりを続けることを前提に、専門性や報酬・社会的地位を高めようと考えたのです。

医学部専門の予備校にお金を振り込み、毎週授業に通ってノートをとり、模擬試験に向けて詰め込み勉強をし、結果に一喜一憂する日々を続けました。なぜ医学部だったかというと理由は2つ。

一つ目は、人文系(国語社会)の切り口で社会の未来を読み解こうとすることへの限界を感じていたこと。世の中に存在するセミナーや勉強会の類にはかなり積極的に参加してきていましたが、新しいと感じられるものがなくなってきました。世の中にも、世の中をそういう切り口でしか見られない自分にも飽きていたのです。

二つ目は、人間をもっと知りたかったから。わたしの仕事は、人から言葉を聞き、本質をあぶり出し、再び言葉に結晶化させ、概念化して伝わるようにする仕事です。そればかりを会社員時代も含めると12年も続けてこられていたのは、人間に底なしの興味があるから。その人間について、理解を深めたいと考えました。

受験の結果は2戦2敗の完敗でした。ですが、分子生物学や生化学を学ぶプロセスで、細胞の中で日々起きていることの緻密さに感動したり、生殖と遺伝の奇跡を仕組みとして理解したりできたことは、狙い通り視野を広げてくれましたし、財産になりました。また、生命体としての人間はどうやって生を維持しているのか、なぜ私は私なのか?を規定する存在であるDNA、60兆の細胞全てに入っているそれの二重螺旋構造すら、1950年にわかったばかりと知りました。まだまだ未知の領域があり、人間による人間認識は新しくなっていく。常識は塗り変わっていく。勉強をやめない限り、人間や社会に飽きることないは思えたことも、マインドセットを新しくしてくれました。新宿の予備校校舎と南青山のワンルームマンションに篭りながら、私は過去の科学者たちが解明してきた人体のしくみ、偉大な発見に開いていました。

その間も仕事は途切れず、年収が落ち込むことはありませんでした。やりたいことは、時間がなくなる収入が減るなどネガティブな面をあげ連ねて不安に思う間もなく行動に変えれば、できるものですね。

そうして37歳は過ぎ、38歳になった翌日の3月1日、私は、渋谷にできた「拡張家族」をコンセプトに掲げるコミュニティのコモンスペースにいました。そこでわたしは、拡張家族cift が誕生した背景にある時代認識や存在意義・あり方について説明をうけたのですが、その際に説明者から「うだつの上がらないフリーランス」と言われました。10歳近く年下の人に「うだつの上がらないフリーランス」と言われたのです。その後、拡張家族になったので、なんでしょう、家族にならどんな失礼なことも言ってしまうことがあるし、言われてしまうこともあり、それらは大体において図星であるという意味で、全然怒ってません。でも、言われたその時はものすごくショックでした。図星、というか、「自由なわたしの人生最高」と思い込んでいたけれど、心の奥深くでは、自分で自分のことを「うだつの上がらないフリーランス」と思っていたから跳ね返せなかったのでしょう。現に、今の自分に納得できずにキャリアチェンジを仕掛けていたわけですし。

ciftでは、彼以外に2人に似たようなことを言われました。「フリーランスとかいって年収300万円くらいで人が作った仕事もらってるだけの人って、俺は全然いいと思わない。」と、10代で起業して20年以上自分で立ち上げた会社を経営している社長に言われました。(心の声 : 年収300万円じゃないけどな!)

「え!あやさん、10年もフラフラしてるんですか?」と、学生起業して超一流大学を中退し、数年で数億円の会社に育てた20代前半の元社長に言われました。(心の声 : ちゃんと仕事してるよ!フラフラしてるつもりないけどな!)

(今これを書きながら、「ciftメンズ、揃いも揃ってはっきり言ってくれるじゃん」としばらく会っていないそれぞれの顔を懐かしく思い出していると、自然と頬が緩んできます。ドMなのかもしれません。)

彼らはそれぞれに大きないい仕事をしていて、そういう人に言われたら心の声は叫んでいても、何も言い返せない。何も言い返せない自分が悔しかったです。

こうしたことが重なるうちに、このままじゃいけないよな、浅倉彩ってこんなもんじゃないよな、という思いを強くしていったわたしに、チャンスが訪れます。沖縄で2019年9月から半年間にわたって実施され(る予定だった・実際はコロナの影響で中断しつつ2020年11月に終了し)たRyukyu Innovation Program 略称RIP という事業創造家発掘プログラムに参加することになったのです。

RIPは世の中のニーズではなく自らのウォンツを起点に事業を起こす人とチームを地方で発掘するというコンセプトで、 野村総研の未来創発センター2030年研究室が主催するプロジェクト。すでに全国で独自性の高い事業を創造している人を革新者と呼び、革新者の特徴を7つに定義しています。「起業」というキーワードで行われているセミナーやプログラムは数あれど、どれも「起業」自体や「一攫千金」、もしくは「自分磨き」を目的にしているような、本質的ではないように感じられて手が伸びませんでした。上述した、法人化する気にならなかった理由と近いです。ところが、このRIPは、2013年に同じ研修に参加していた沖縄銀行の方から飲み会の3次会のBarで紹介いただき、すぐに代表者の齊藤義明さんが書かれた「日本の革新者たち 100人の未来創造と地方創生への挑戦」を読んで、すんなりと「あ、おもしろい」「あ、わたしっぽい」と思えたのです。

読み終わった瞬間に、「読み終わりました。興味があります」と連絡したところ、「ちょうど明日、RIPの沖縄側の代表者と会うので、14時に那覇に来られますか?」と、奇跡的な好機が発生。二つ返事で出かけ、参加させていただくことになりました。本には、齊藤さんが膝詰めで対話した革新者たちと彼らの事業について多くの実例の他、キラー・スキルと名付けられた革新者の特徴が書かれていました。以下の7つのキラー・スキルが全部ではないけれども自分に当てはまっていると思ったのです。

1. 当たり前を疑う

2. 面白いから始めて社会課題の解決に繋げる

3. 同類とつるまない

4. マイナスをプラスにかえる

5. Needsを探すのではなく、Wantsを創造する

6. 武器としてのTED Technology Entertainment  Design

7. 打たれ強く、負けたふりをする

2019年9月から、参加者同志のラポール形成や先輩革新者によるストーリーテリング、着想からチーム編成、ブラッシュアップと事業創造のプロセスが進む中、わたしは徐々に「もう本当に1人じゃ無理」と、ひとりフリーランスからの卒業の決意を、確信を持って詰めていきました。マインドシェアが、いただいた仕事を確実に期待値を超えて仕上げお納めするフリーランス仕事から、今はまだ誰にも頼まれていない事業創造へと傾いていくにつれ、「これではお客様に申し訳ない」「わたしも辛い」という感覚が芽生えたのです。時間軸が違うというか、わたしにしか見えていない未来を構想することと、相手のいる目の前の仕事をちゃんとすることは、頭の使い方が別次元でした。

また、1人でやってこれてしまったが故に、1人でできることだけを課題設定する思考の癖がついてしまっていることにも気づきました。canの枠の中でwillを考えてきたことが、つまらなくしている。その背景には、学年1番の優等生だった成功体験を曲解してなんでも「わたしだって本気出せばできる」と思いがちな癖がある。でも実際は、どんなに優秀な人でも1人でできることには限界があることに、未来を志向すればするほど気づいていきました。

(回想 : 1番が大好きなわたしは、新卒で入った会社でも営業成績で1番になりました。リクルート出身社長が経営するマザーズに上場したての会社でネット広告のテレアポ直販営業という体育会系の会社に新卒入社して、3Q目で1番になりました。重要なのはここから。1番に酔っていたわたしに、新しく大企業から来た上品な営業部長は「自分が活躍するよりも、チームを活躍させられる方が価値があるんだよ。そこを目指しなさい」と言いました。若かったわたしの耳には全く入りませんでしたが、真理だったと思います。気づいたのは、それから15年以上経ったタイミングでしたが... 東京エレクトロンからやってきたおじさま、ありがとうございました。そして、ごめんなさい。)

誰かと一緒に仕事をすることを、わたしはコストとしか捉えていませんでした。何かを手伝って貰えば、報酬の一部を支払わなければならない。だったら、自分でやったほうが損がない、という発想です。でも、誰かと一緒に仕事をすることにはそれ以上の価値があるのではないか。コストではなく、創造性向上のための投資なのだ。そう思うことが、RIPに参加するプロセスの中で、からだで理解できたのです。

この変容が起きたのは2019年。翌年の2020年に40歳を迎えることも、「変えよう」と思えた一因でした。

そこで、これまでも、ちょこちょこ文字起こしを外注したり、誰かいい人いない?と聞かれるたびにいつも連絡して紹介していた子に連絡を取りました。ちなみにこの時、facebookに載せるつもりで募集文を書き、採用コンサルタントをしている友人に見てもらいました。「この文章だとこういう人がきそう」というアドバイスは「なるほど」と思いました。でも、彼からの「この人と組んだら?」という提案は的外れでした。なんかね、言語化の域を超えて、絶対合わない人だったんです(笑)。そう言えば、彼がそのずっと前にも「つながったらいい」と紹介してくれた人も、「うーん、違うなー」って感じでした。おそらく彼が男性だからか、女性の働き手に対するカテゴライズの解像度が低いのではないかと思います。ちょっとやる気と能力がある独立独歩系の女性を一括りにして「繋げたらいい」っていう発想になるのかもしれません。断っておくと、これは彼のノリへの評価であって、プロフェッショナルとしての仕事への評価ではありません。でも、そういう友人のノリの話を真に受けないというのは、チームをつくる上でとても大切だと思います。

募集文に関して振り返って思うのは、「人と組む前に、自分がその人に何を求めているかを全て言語化するのは難しい」ということ。結果的に、わたしのわたしによるわたしのためのチームづくりは成功したのですが、それは、自分の中でこれだけは譲れない条件だけ確認した上で、あとは自分の直感とこれまでのネットワークを信じ、その中で「この人なら!」と心から思える(別に仕事を探している訳ではなかった)人に声をかけたからです。

ちなみに、これだけは譲れない条件というのは、わたしの場合は「学歴」です。学歴のことを考えたり語る時、わたしの頭の中には「出現率」という言葉が浮かびます。学歴は、個人の能力は必ずしも保証しないけれど、ある集団における能力の高い個人の出現率は保証している。これまでの人生での様々な出会いを振り返って、そう思います。特に、わたしの仕事は言葉を使って物事を理解し、理解したことを言葉で伝える仕事です。それを手伝ってもらう上で、基礎的な学力が即戦力的にモノを言う。基礎的な学力の見極めに、社会インフラである学歴をありがたく使わせていただきました。また、高卒だった初めての上司がわたしに耳にタコができるほど言っていたことがあります。「高学歴は、締め切りまでに集中してやるべき勉強を終わらせ、本番で実力を発揮した証明。これはそのまま、仕事においての信頼に結びつく」この記憶も、今回の判断に影響したかもしれません。

逆に、編集者やライターとしての経験があるかどうかは問いませんでした。教えて育てる自信があったからです。

また、わたしから彼女に提供できることも考えました。というか、全然一緒にやってもらえる自信なんてなかったので、必死に考えました。アシスタント的な仕事はしてもらいたいけれど、アシスタントになってもらいたいわけではない。あくまでも、ライターとして一人前になってもらう。ここで言うライターとは、クラウ○ワークスとかに落ちてるコピペで記事をつくるコタツライター仕事をしてる人のことじゃなく、読み手に何を提供したいのかという意図と狙いを持って意図に沿う情報を集め文章を構成して書ききり狙いを達成できる人のことです。育てるという決意と心構えを話し、考えてもらい、Yesの返事をもらいました。

それから、お金の話をしました。シンプルに、「いくら欲しい?」と聞きました。この質問、同じ組織や何かの基準における他者との比較なしに答えられる人はそんなに多くないと思うのですが、聞きました。「将来的に独り立ちをすると、自分で自分の報酬を決めなければならない。その初めの練習」という意味もあり、そう伝えました。彼女が言った金額が払える金額だったので、「よかった」とホッと胸を撫で下ろし、チームになることが決まりました。

管理はするのもされるのも嫌いなので、働いた時間は計算しないし、出社義務もない。仕事を切り出して締切を決めて、わかりやすく依頼するのはわたしの責任。彼女が書いたものは必ずわたしが読み、ダメ出しをするのではなく育てるつもりで丁寧に赤入れをしました。クライアントとのやりとりで判断の間違いが1度だけあった時ははっきりと「間違っている。それはあなたが判断していいことじゃない」と伝えました。当然のことながら、最終的なアウトプットのクオリティは落とさない。クオリティに達するまで、何度でも赤入れをします。それができなくてどんどん直しちゃったこともたくさんあります。進みが悪そうだったら、何が辛いか、つまづきポイントを尋ねました。それが、わたしの学びにもなるからです。赤入れして、1回でドンピシャの直しが上がってきた時は、本当に嬉しかった。そんなふうにして、1年一緒に働きました。

1年経った時の振り返り投稿がこちら。

確定申告done。 面倒ではあるけれど、1年の収入と支出とともに、お仕事であったあれこれや生活を振り返るいい機会です。(事務作業恐怖症ですが、さすがに11年目ともなると慣れて、振り返る余裕が出てきました・笑...

Posted by 浅倉 彩 on Friday, March 12, 2021

結論から言って、ひとりの方が良かったことなんて、ひとつもありません。

初めて沖縄県の補助事業に応募して採択されたとき、採択の電話をとったわたしの目の前には彼女がいて、やったー!と2人で満面の笑みでハイタッチしました。

仕事の依頼をいただいた時、時間とエネルギー的に「やり切れるかな」と躊躇せずに請けられるようになりました。

文字の直しの出し戻しのやりとりなど、細かい仕事を確実にこなしてくれるので、そのぶん、今はまだ誰にも頼まれていない創造性方面に時間と脳みそを使うことができます。

広範囲にわたるノウハウを渡すプロセスで、能力の棚卸しができました。

わたしが、ある法人の社外理事に任命いただいた時も、報告したらすごく喜んでくれました。

結果的に、収入も伸びました。

収入を伸ばしながら、念願の自分の事業「LOCAL GOODs」を立ち上げられました。

ひとりフリーランスから2人チームを始める前は、2人になってもこなせる量は2倍にならないとか、コストの分役に立ってくれることを期待しちゃダメだとか、それらしいネガティブな意見もたくさん聞きました。聞くたびにヒヨッていたけど、今となっては、そんなのは無視するに限ると思います。それは、失敗した人が言ってることなんだと思うから。

そして、生産性とか効率も上がったけれど、それ以上に、たくさんの幸せを感じました。

1年間、初めての2人チームを走らせてきて2年目に突入した今、わたしはfirst penguinというコーチングコミュニティに参加しています。

そこでの学びの一つが、自分の体感覚・感情・思考をポジティブな状態に保つことが、イマジネーションを羽ばたかせ創造性を発揮する上で必要不可欠ということ。そして、体感覚・感情・思考をポジティブな状態に保つことができたらその時点で幸せだし、幸せだからこそ次の旅を始めることができる。

その観点からいって、2人チームは、ひとりフリーランスよりも幸せです。生産性やコストパフォーマンスや効率のその前に、幸せなんです。(彼女がjoinした2020年4月1日のその日に、別の起点に勃発した株式会社超企業についても別で書こうっと。)

1人で孤独に「与えられた」「しなければならない」勉強をし、1人しかなることのできない1番になることが成功のイメージだったわたしにとって、これはパラダイムシフトです。そう考えると、1番になろうとしてなれなくてイライラして、幸せになろうとしてなかった。

2年目の2人チームと、よりよき人生をつくる仲間「FirstPenguins」の始まり。これから、幸せに目盛りを合わせ直してやっていきます。そして、やっぱり1番が好きな、もう1番の気持ちよさを知ってしまっているわたしもいます。もう大人だから、なんの1番になるかは自分で決められるし、決めなくちゃいけない。それを決めること、深く腹落ちした言葉にたどり着くことが、今の目標です。





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