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「ちゃんと」のために生きている

今日は朝、コーヒーを飲んだ。

今は部屋が片付いていてホッとする。

フローリングがクッションフロアでないのが心地いい。(木のプリントがしてある安っぽいビニールのクッションフロアは、わたしがこの世でもっとも嫌いなもののひとつ)

ちゃんと地面に生えてる木だったことを感じさせてくれるフローリングの上に、白いコードが横たわっていて、そのコードがこのnoteを書いているMacBookAirに電力を供給している。

今日は金曜日で、大きな窓から見える空は真っ白に曇っている。

ガラスには水滴がたくさんついているから、外は雨が降っているのだろう。

ここは渋谷のど真ん中に建つ複合ビルの13階。

私が育ったのは、とあるベッドタウンのマンションの8階だったから、それより5階分、高いことになる。

25歳の時、友達と期間限定でルームシェアをするから、そのほうが会社に近くて楽だし楽しそうだから、と、当時の彼氏の大きな車に当面使いそうなものだけを詰め込んで、わたしは実家を出た。結局、あの時以来、実家では暮らしていない。

それから15年の月日が流れて、わたしはいまこの瞬間、ここにいる。

人のために言葉を紡いだり文章を書いて暮らしていて、すごく不幸せではないが、とりたてて幸せでもない。

今も、原稿にしなければならない取材を終えた録音データが10時間分ぐらい、ある。ずっと頭の片隅にこびりついている。はやく終わらせてしまいたい。そう思っている。

この、「はやく終わらせてしまいたい」とつい思ってしまうことが、本当はとても残念なことなのだと気づいたのは割と最近のことだ。

何かに夢中になっているとき、人はそのことを「はやく終わらせてしまいたい」などと思わないものだ。むしろ、いつまでもしていたい。この時間がずっと続けばいい。そう思うはずだ。

ところが、今の私は、自分の仕事に対してそうは思えない。

仕事に対してだけでなく、生きることそのものに対しても、だ。

「はやく終わらせてしまいたい」

終わらせた先に何があるのかといえば、安堵である。やるべきことをやれた安堵。だって子どものころからずっと、家庭や学校や社会で、「ちゃんとしなさい」と言われてきたのだから。「ちゃんとしなければならない」はもう、脳細胞のすみずみに染み付いている。やると約束したやるべき仕事をやらないと、ちゃんとできていないことになる。それは、問答無用でNGなのだ。

安堵は、NGを出さずにすむことへの安堵だ。それがはやくほしい。そのための「はやく終わらせてしまいたい」

ちゃんとお金を稼がなければならない。ちゃんと充実した日々を過ごさなければならない。ちゃんと時流に乗っていなければならない。ちゃんとしたごはんを食べなければならない。ちゃんと友達がいなければならない。年相応に、人並みに。ちゃんと家賃をはらって、ちゃんと車を買って、ちゃんと税金を払って、ちゃんとやりたいことをやって、ちゃんと夢を見て。

「ちゃんと」のために、生きている。

「ちゃんと」はすごい免罪符だ。

でも、それで本当にいいのだろうか?
わたしは、わたしたちは、ちゃんとするためだけに、
生まれて生きているのだろうか。

世の中と、世の中が刷り込まれた心が突きつけてくる「ちゃんと」を全部こなしていたら、時間がいくらあっても足りない。

「ちゃんと」に替わる何かを、発明したい。



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