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付き合う人を選ぶセンス

人生において大切なのは、付き合う人を選ぶセンスかもしれない話をします。

センスって、すごく曖昧でふわふわしたものだから、どういうことなのかを言葉にしてみたい。

すごく曖昧でふわふわしたものだけど、パワフルな名刺も、夫も、持ち家もなくいい感じに生きられてるわたしを支える暗黙知だという手応えがあります。なので、なるべくなら他人や世間が定めた幸せの定義なんてどこ吹く風で生きていきたい人に、少しは役にたつかもしれません。

直観的な結論を先に書いてから、事実と照合していこうと思います。

付き合う人を選ぶセンスで人生をよくするコツは、いい感じの人のそばに「いてみる」ことに尽きる。

まず、いきなり前提を覆すようですが、センスの有無にかかわらず、付き合う人はそんなに選べません。世界中の誰とでも出会えるわけではないし、出会えた全員と仲良くなれるわけでもない。でも、たまたま出会えた人のなかで、なんとなく興味を持ったり好きだなおもしろそうだな気になるなと思った人の「近くにいてみる」ことは、わりとできる。すぐできる。誰にでもできる。チャンスがあれば1度ぐらい、ごはんに行くことだってできるかもしれない。ひょっとしたら一緒に仕事をすることになるかもしれない。近くにいてみてもし居心地が悪ければ、ただ離れればいい。

ここで重要なのは、「そばにいてみる相手を自分で決める」ことです。

どんなにまわりから「すごい」とか言われていても、自分にとって居心地が悪い人はいる。それはもう、生命体としてのDNAレベルでしっくりこないと言うべきか、根源的に接点を持てない。相手も自分も悪くない。ただただ、相性がよくない、ということは、あります。

たとえばソーシャルグッド界隈で有名なある企業の社長様。わたしとしては、当然、興味を持ちます。それで、チャンスがあったのでせっかくだから近づいてみたのですが、なんかこう、居心地が悪かったんですね。なんか嘘くさいんです。だんだんと、どうやら「こいつは俺に打算的に近づいてきている」とわたしを不快に思って表面的なやりとりで済ませようとなさっているらしいことが伝わってきました。

このパターンは、意外とよくあります。わたしがフリーランスだからかもしれません。「仕事欲しがって近づいてきているのかな」って勘違いをなさって、敬遠しようとする。これって、謎の上から目線を直滑降で落としてきているのと同じなんです。思考が三角形の二次元的ヒエラルキー構造に固定されているというか、自分と相手の関係性を上か下で判断するタイプというか。

最近では、地方自治体の行政マンでそういうかたがいらっしゃいました。飲み屋でちょっと初めて会っただけなのですが、なぜか「上から」なんですね。ただの会話なのに「で、何して欲しいの?」みたいな感じ。

お立場がある方だと、打算で近づいてくる人が多くて辟易していたり、わたしがただ単に初対面の相手に敬意を払おうと謙虚でいる姿勢が、物欲しげな下から目線に見えてしまうのかもしれません。

また、立場がなくても、立場がある人と太いパイプがあるというだけで、直滑降してこられる方も一定数います。

そういう方に限って、わたしがもっと上の立場の方と人間関係があると知った瞬間に、ガラッと態度を変えたりします。やはり、思考が三角形の二次元的ヒエラルキー構造に固定されているんですね。

自分を下に見て敬遠しようとする、一緒にいて居心地が悪い人と付き合っているほど人生は長くないので、さっさと脳内から消去します。その方々と接触があったことは、これを書き始めるまで忘れていました。でも思い出し始めるとけっこういます(笑)。

もし、出会い頭の直滑降をかまされてもなお、有力者だから気に入られよう、有力者の知り合いいっぱいいそうだから気に入られなくちゃ、そうじゃなきゃ人生よくならないとか思ってしまうのだとしたら、それはとてもロスだし、世の中意外とそういうことで心をすり減らせている人もいるのかな?と思うのです。その努力、付き合う人を選ぶセンスを磨く上ではマイナスにしかならないと思います。

なぜなら、その人に気に入られようと一生懸命になる時間は、決して返ってきません。その時間を使って、もっと自分に合う場に出向いていたら、違う出会いがあったかもしれません。合わない人に擦り寄る努力をするということは、そのチャンスを自ら放棄しているのと同じです。

居心地がいい人といても、人と付き合うといろいろあるではないですか。嫌いになる瞬間があったり、一緒にいすぎると飽きたり、何言ってるかわからなかったり、好きなのに嫉妬したり。そういう実体験を通して、よりいっそう、自分に合う人がどんな人かわかってくる。自分にとって居心地がいいってどういう感じか、肌感覚が身についてくる。それが、センスを磨くということだと思います。

たまにfacebookとかで、「会社を辞めます。辞めるけどほんといい人ばっかりで大事にしてもらって感謝しかありません。ずっと尊敬してるし大好きです。」みたいな投稿している人がいますが、あれ、わたしが言うには、嘘、もしくは言語化不十分ですから(笑)そんなわけないじゃないですか。だったらなんで辞めるんですか(介護や子育てなど不可抗力の場合を除く)。

会社の人たちに可愛がられていたはずのジブン着ぐるみを、本当の自分にかぶせて見せたいだけなのでは?と思います。まあ、facebookでそう書いといてるだけってんなら、世渡りに必要なしたたかさだと感心してしまうのですが、本当にそうやって思い込もうと自分をごまかしていると、自分が本当に興味がある人や、居心地がいい人がわからなくなり、人付き合いのセンスを磨く入り口のドアをどんどん見失っていくんじゃないかと心配です。

ここで注記しておきたいのですが、わたし、思考が三角形の二次元的ヒエラルキー構造に固定されている人がダメ、とは言っていません。

わたしの理解を軽く超越していますが(そんなこと世の中にいっぱいありすぎるのが当たり前)、三角形の中で序列をつくってキャッキャするのが好きな人たちもたくさんいるのを知っています。そういう人は直滑降がするのもされるのも大好きなわけですから、三角形の二次元的ヒエラルキーこそが居心地がいいわけです。好きならそれ、全然、止めません。

ただ、わたしの人付き合い観は、四次元ダイナミズムです。先ほど、居心地の悪い人に気に入られようと一生懸命になる時間は、決して返ってこないと書きました。実はこれと同じことなのですが、はじめは居心地が悪くて、だから気に入られる努力もしなくて、結果的に当然その人に気に入られなくても、放っておけば、あとあと返ってくることがあります。

心をすり減らせて過ごした時間は決して返ってこないけど、縁は放っておいても返ってくることがある。どっちがおトクか、とてもシンプルだと思いませんか?

四次元ダイナミズムのイメージは、次のようなものです。いきなり抽象動画になりますがご容赦ください。

人びとは、画一的な三角形のハシゴを同じ頂点を目指して登っているのではなく、広大な三次元空間で、おのおの好きな軌道で螺旋状に上昇しています。その軌道が、たまに触れ合うんです。でも螺旋状で円軌道だから、ずっと一緒にいるわけではない。最初に会ったときはそりが合わなくても、またお互い螺旋を何周かして、再び会う時が来るかもしれず、今度はそりが合うかもしれない。それがつまり、「縁が返ってくる」と言っていることのイメージです。

さて、ここまで、そばにいてみる人を自分で決めることが大事で、それは、いても居心地の悪い人から離れることでもある、という話をしてきました。ここからは、いてみ方について書いてみたいと思います。

いてみる上で、仲良くなろうとしないことが大事。

わたしは学生時代、いわゆる仲良しグループに所属しているタイプの人間でした。一人ぼっちになることを過剰に恐れて、中学校でも高校でも、仲良しグループに入ろうと最初から気合を入れて入学初日に臨み、それはまあまあ成功しました。ハブられることもなく、いじめられることもなく、そのときどきのキャラとして、無事にうまくやりおおせていました。

でも、今その頃のことを振り返ってみると、本当はいつもいつも同じキャラでいることに情けなさとか退屈とか虚しさを感じていたように思います。いつもいつも同じメンバーでいることに、完全に飽きていました。それでもひとりでいることが怖かったから、一緒にいました。ひとりでいること、友達のいないさびしい子だと思われること、人からそう思われることで自分で自分をさびしい子だと思うことが、怖かったのでした。

おとなになったし、そういうのはもういいかな、と思います。それで今は、仲がいいとか、仲良くなるいう言葉を言う時に、すごく気をつけてしまいます。仲がいいってなに?と、わたし自身が思うからです。少し、怖がっているかもしれません。仲良しという檻の中に、自分と相手とお互いの関係性を閉じ込めることを。別にいつ離れたっていい、お互いの心の自由が一番、大事。その大前提の上で今、一緒にいる。その尊さを喜ぶ。そんな開かれた状態がいいのです。

仲良くならなくていい。と自然に思えれば、いい感じかもしれないと思った人のそばにいてみることは、とても簡単ではないかと思います。人が大勢いる場なら、近づいていって、3秒だけそばにいてみる。facebook上でなら、思い出した時にその人のタイムラインを見に行ってちょっといいね!とかコメントとかしてみる。何かちょっとした遊びだとかを一緒に企画してみる。何か相談してみる。誘われたら行ってみる。相手と仲がいいかどうかは気にしない。だって、仲がいいって、ひょっとすると自分や相手を閉じ込める檻ワードだから。

そこから始まる何かを覗きに行く。

いてみるって、そんな感じのことです。

4000字を超えて長々と書いてきました。書いたことぜんぶ、センスのかけらです。それに支えられて生きているわたしが思う「付き合う人を選ぶセンス」の。うーん、もう一言、言わせて。つまりは、自分の目の前にいる人をナメるなよってことかもしれません。




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