尾城太郎丸についての補注

 私は、こちらの記事で、尾城太郎丸について以下のように推定した。

尾城は、1959年に伊東岱吉らとの共著「日本中小企業問題史」(『日本における経済学の100年』収録)で出版デビューしていることから推定するに、敗戦後に初等教育と中等教育を受けた世代だった。そのような世代は「平和主義」を教え込まれているからこそ、ベトナム戦争への反発が強かった。ベトナム特需で日本経済が活性化していることは、平和主義国であるはずの日本がベトナム戦争に加担していることを意味するのであり、その状況と太平洋戦争とを重ね合わせて批判しているのである。

拙稿, "尾城太郎丸「社会的責任」論文を読む"

 ここで私は、尾城を1930年代末の生まれだと推定している。しかし、この推定が誤りであることが判明した。三田評論に尾城を追悼する記事が掲載されており、1925年ほどの生まれだということが確認できた。

日本中小工業史の研究で知られ、経済学部在職中「日本資本主義発達史」の講義を担当されていた尾城太郎丸名誉教授が他界された。享年七十一歳、昨年十月末のことであった。

北原 勇 〔三田評論 no.989 (1997-03), p. 80-81〕

 この記事が掲載されたのが1997年なので、尾城は1996年に71歳で亡くなっている。すると1925年ほどの生まれになるのだが、これは旧制高校を卒業したころに敗戦を迎えた世代である。見田宗介が言うところの、「一次戦後世代」に属することになる。

 これは本文でも掲載したデータだが、「第一次戦後」と「団塊」の社会意識の差異は、基本的には後の世代間の差異よりも大きい。団塊世代は、大学闘争の世代であるが(もちろん団塊世代のすべての人々が大学闘争に参加したわけでは決してない)、彼らは戦争世代や第一次戦後世代に対して異議を唱えたわけである。だからこそ、第一次戦後世代であるはずの尾城が、団塊世代のエリートである東大助手共闘と社会意識を共有していることは、なかなか奇妙な事態に見える。

結局のところ、尾城の『社会的責任』論文は、東大助手共闘会議とほとんど地平を共有している。まず、第一の「学問とは何か」という問題提起と、第二の「原罪」の意識は、完全に東大助手共闘の地平にある。第三の「社会がおかしな方向にむかっている」という感覚については、より広く、大学闘争一般に共有されていたと言えるだろう。ただし、自分たちこそが社会のむかう方向を修正しなければならないという責任意識の強さは、やはりエリート中のエリートであった東大助手共闘とよく似ているのである。

拙稿, "尾城太郎丸「社会的責任」論文を読む"

 尾城が団塊世代のエリートたちと社会意識を共有していることは、ここでは彼の個人的な資質によるものだとしておこう。最後に、三田評論の追悼記事からいくつか引用する。

一九五〇年代後半には、中小企業関係の調査でしばしば行を共にした。伊東先生の指導下で行われたこの時期のいくつかの実態調査は、貴重な成果を残したが、詳細な調査票の実際の作成者は、たいていの場合尾城さんであった。〔......〕あれも知りたい、これも調べるべきだという伊東先生の要求を苦労しながら黙って調査票に織り込み、また調査の最終的なまとめまで責任を持ってやり遂げたのは、尾城さんだった。

北原 勇 〔三田評論 no.989 (1997-03), p. 80-81〕

一九七〇年代に入ると彼は、「日本資本主義像への反省」「日本資本主義研究のあり方を問い直す」「日本的中小企業論の社会的責任」といった論文を立て続けに発表する。表題にも明らかなように、戦後諸改革・高度成長・日米関係の変化などをめぐって揺れつづけてきた我が国マルクス経済学の日本資本主義像を戦前の諸研究にまでさかのぼり、その研究の姿勢・視角を根底的に再検討し批判しようとする激しいものであったが、厳しい自己批判を含むゆえに説得力にも富む立派な論攷であった。

北原 勇 〔三田評論 no.989 (1997-03), p. 80-81〕

九〇年三月定年で退職されたが、それをねぎらう学部主催のパーティでの挨拶が印象的だった。立食パーティの常で聞こうとする者も少ない喧噪のなか、病身の中に僅かに残る最後の気力を振り絞るようにして「社会主義の理念は依然として輝いているのだ」と。場違いを承知の上での発言だった。あれが我々への彼の遺言だったのだと今は思っている。

北原 勇 〔三田評論 no.989 (1997-03), p. 80-81〕




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