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〔自身の体験から①〕不登校:もがくのをやめて学校復帰(前編)

※2002年10月に創刊し、掲載文が200本を超えたメールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』のバックナンバーから厳選した100本(予定)の掲載文を、毎週1本ずつ転載しています(字句や一文など小幅な修正をしている場合があります)。

※今月は、筆者である私自身の不登校とひきこもりの体験に関して書いた文章を転載します。今回と次回は「不登校状態=ひきこもり状態」「不登校になったら学校復帰するしか道がない」という時代(30年くらい前)に書かれたものを紹介する文章のため、今では使わない言葉を使っていますが、書き換えずにそのままにしてあることをご承知おきのうえお読みください。

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不登校体験から得たものを29年前に論述

 これから載せる記事は、私が社会人1年生だった年に、ある講座の受講中に受講者仲間が創刊し私が発行を引き継いだニューズレター「こうざつうしん」に連載したものです。
 高校卒業からそれまでの5年間、私は教師をめざして大学生活を送ってい
ました。しかしその時代は、あるきっかけから再び精神的に不安定になり、不登校体験を自己否定する暗い日々になっていました。

 4年生になり、出身高校での教育実習のあと、不登校をテーマとした卒業論文の研究を始めた私は、文献をあたっていくうち「不登校になっていなかったら、今の自分はなかった」ことに気づきます。
 教員採用試験に合格できないまま卒業した私は、偶然にも出身高校に非常
勤講師の空きを見つけ、1年間の講師生活を始めます。
 教員採用試験の受験勉強を続けながら教壇に立つかたわら、私は「こうざつうしん」に、初めて自分の不登校を肯定する記事 『登校拒否になると にんげんが見えてくる』を載せることにしたのです。

第1回 立ち直る理由

 暴れた翌日、私は1日中自分というものについて考えました。そして、何時間も考え続けたとき、ふと「退学になったからといって、それがなんだ」
と、自然に思えるようになったのでした。こんな考えは、それまでの私にはまったく思いもよらなかったことでした。そしてーこの学校を卒業できないからといって、生きていかれないわけではない。「高校を卒業する」というのは、人生全体から見れば“目先の目標”にすぎないではないか。人生にはもっともっと大切なことがあるーこの、今考えればごく当たり前のことにやっと気づいたのでした。

 これにより、私の心は、落ち着きを取り戻していました。それまでは、留年のたびごとに「進級」を至上の目標にして再スタートをしていた私でしたが、この日を境にして「精神的自立」という、学校とは何の関係もないものに変わったのです。不思議なもので、そうなりますと「何とか登校しなければ…」という焦りと気負いが頭の中から消え去り、ごく普通の心理状態を取り戻すことができたのでした。

                       「登校拒否を卒業して」
<「登校拒否児とともに歩む父母の会」会報『あゆみ』1987.7(一部修正) >

 解 説

 プロフィールに書きましたように、私は高校の卒業までに7年かかりました。前半の5年間は“登校拒否”による出席日数不足のため、4回連続留年してずっと1年生。その4年目、3学期のある日に、私は立ち直りました。

 上の文は、その立ち直った瞬間のことを書いた部分です。すなわち、この年、回復への意欲が出てきて、何とか立ち直ろうともがいて、進級まであと一歩のところまで出席日数を積み重ねたものの、結局崩れて、今度こそ退学だろうという切迫した事態に直面したとき、学校価値に囚われていた人生観が“クルッ”と転回して、人として本当に大切なものに気づいたとき、私がもがくのをやめたーということを示しています。

 もがいている限り立ち直れず、もがくのをやめたら立ち直ったーという
のは、不思議なことですが、事実なのです。思いますに“登校拒否”と呼ばれる状態のもっとも大きな要因は「立ち直らなければならない=平常に通学しなければならない」という方程式を必死になって解こうとして、もがき苦しむことにあるのではないか。だとすれば、どうすれば本人がもがくことをやめられるかーということが“登校拒否”解決のカギだと言えるのかもしれません。
                   『こうざつうしん』(1991) より転載

                           <後編に続く>

不登校・ひきこもりに関する研修費に充て、相談支援のスキルアップと充実したメルマガ掲載文執筆に還元させていただきたく、よろしくお願い申し上げます。