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〔自身の体験から②〕不登校:あとから気づいた意味(前編)

※2002年10月に創刊し、掲載文が200本を超えたメールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』のバックナンバーから厳選した100本(予定)の掲載文を、毎週1本ずつ転載しています(字句や一文など小幅な修正をしている場合があります)。

※今月は、筆者である私自の不登校とひきこもりの体験に関して書いた文章を転載します。前回と今回は「不登校状態=ひきこもり状態」「不登校になったら学校復帰するしか道がない」という時代(30年くらい前)に書かれたものを紹介する文章のため、今では使わない言葉を使っていますが、書き換えずにそのままにしてあることをご承知おきのうえお読みください。

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不登校体験から得たものを29年前に論述

 前回と同じく、私が社会人1年生だった年に、ある講座の受講中に受講者仲間が創刊し私が発行を引き継いだニューズレター「こうざつうしん」に連載した記事『登校拒否になると にんげんが見えてくる』を掲載します(経緯は前回書いたとおりです)。

第2回 “陣痛”としての登校拒否

 思えば、あの4年目の3月、自分について考える機会を持てたことが、私の人生の転機でした。高校最初の4年間は、心配してくれたクラスの仲間たちの友情と、待ち続けて下さった先生方の信頼を裏切り続けた、弁解の余地のない時代でした、しかし、この4年間があったからこそ私の心に転機が訪れた、と理解すれば、私にとって登校拒否は、自己変革と成長のための“産みの苦しみ”であったとも言えると思います。

                       「登校拒否を卒業して」
<「登校拒否児とともに歩む父母の会」会報『あゆみ』1987.7(一部修正) >


 解 説

 この文は、私にとって登校拒否がどのような意味を持っているか、という点についてまとめた部分です。すなわち、登校拒否を「新しい自己に生まれ変わるための“陣痛”」ととらえているわけです。

 言い換えれば、私には登校拒否が必要だったのです。決して、損失でも不幸でもありません。むしろ、私にとって登校拒否は、人格形成のために不可避な、そう運命づけられた出来事だったと思われるのです。

 なぜそう断言できるのか。登校拒否の前と後では、自分がまったくの別人だからです。

 登校拒否になる前の私は、消極的で自ら友人を求めることもないほど、人間関係を軽視する尊大な子どもでした。ところが、登校拒否になってから、たまに登校したとき、クラスメイトや担任の先生が、じつに温かく気遣ってくれたことにショックを受け、私は生まれて初めて、友情や人間関係の素晴らしさや大切さに気づいたのでした。

 そんな体験が積み重なってきた3年目、その年の担任の先生の示唆により、私は「自分を変える」という課題に取り組み始めました。その結果翌年には、自ら友人を求め人間関係を大切にする人間になったと、自負できるまでに変わりました。立ち直ったのは、その年の3学期です(前号で詳述)。

 そのようなわけですから、私は、あのとき登校拒否にならなかったら、と思うとゾッとします。登校拒否になったからこそ、人間の持つ優しさや温かさ、そして友人の大切さや人間関係の大切さを知ることができたからです。

 東京大学病院(当時)の石川憲彦氏は「ある小学生が、登校拒否のあと“登校拒否になって人格ができたような気がする”と言ったのを聞いて、それまで納得できなかったことが納得できた」*と述べておられますが、今の私は、まさにこの小学生と同じ心境なわけです。

 以上のように、登校拒否経験者が皆、登校拒否を人格形成の過程の一部として、後から肯定的にとらえることができるようになることを、切に願ってやみません。しかし、難しいことです。

 * 石川憲彦「人間を矯正しようとする治療」(『登校拒否』太郎次郎社)

                   『こうざつうしん』(1991) より転載

                           <後編に続く>

不登校・ひきこもりに関する研修費に充て、相談支援のスキルアップと充実したメルマガ掲載文執筆に還元させていただきたく、よろしくお願い申し上げます。