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黒沢清『Chime』(2024)名状しがたいものへの誘(いざな)い

監督:黒沢清

はじめに


映画における物語を、あらすじと同等のものだと思ってはいけない。
『Chime』にあらすじらしいあらすじはない。

ネット雑誌「シネマカフェ」2023年12月18日に掲載された「黒沢清監督オリジナル脚本の最新作『Chime』完成 配信プラットフォーム「Roadstead」で独占販売」という見出しの記事に、『Chime』の簡単なあらすじが載っているが、これが全てかもしれない。

料理教室の講師として働いている松岡卓司(吉岡睦雄)。ある日、レッスン中に生徒の1人、田代一郎が「チャイムのような音で、誰かがメッセージを送ってきている」と、不思議なことを言い出す。事務員の間でも、田代は少し変わっていると言われているが、松岡は気にすることなく接していた。
しかし別の日の教室で、田代が今度は「僕の脳の半分は入れ替えられて、機械なんです」と言い出し、それを証明するために驚くべき行動に出る。田代の一件後のある日、松岡は若い女性の生徒・菱田明美を教えていた。淡々とレッスンを続ける松岡だったが、丸鶏が気持ち悪いと文句を言う明美に、彼は――。


そこに因果は描かれない。
だから、「ある日」「別の日」「田代の一件後のある日」と書くしかない。

松岡は劇中で2回、イタリアンレストランのオーナーシェフになるための面接を受けている。料理教室の講師という現状に松岡が満足していない様子が、これら面接の場面からは伺える。松岡は、1回目の面接に手ごたえを感じている。しかし、その1回目の面接の後、彼は事件を起こす。
2回目の面接で彼は不採用を告げられる。この2回目の面接終了後、面接を行っていたカフェで男性客による暴力事件(未遂)が起こる。松岡は周囲の客や店員に取り押さえられる男性客を驚いた様子で眺めているだけで、松岡の身に起こった出来事と暴力事件に因果関係はない。

ショッキングな出来事が起こる場合、多くの物語は、その出来事を中心にして因果が語られるわけだが、『Chime』はそうではない。ショッキングな出来事は、物語の外縁に配置されている。
では『Chime』で起こる出来事は中心の無い断片で、『Chime』とはそれら断片の羅列かというとそうではない。中心はある。そして松岡はその中心に誘(いざな)われている。

マスキングされたスクリーン


映画冒頭、料理教室の天井から吊り下げられたモニターが画面上部中央を黒くマスキングしている。

フランスの映画批評家アンドレ・バザン(1918-1958)は、著書『ジャン・ルノワール』(1973)の中で、マスクとしてのスクリーンという概念について以下のように記している。

スクリーンは、視線に現実を見せることだけではなく、視線に現実を隠すことをも機能とするマスクなのだ。そしてスクリーンは、それが見せているものの価値を、それが隠しているものから引き出すのである。



『Chime』を見た人は気づいていると思うが、この映画では松岡の主観ショットがほとんど映らない。それらは度々スクリーンによってマスキングされる。
スクリーンが隠しているものを見つめる松岡の表情や佇まいが映し出される。鑑賞者は松岡を媒介し、マスキングされたものを僅かに知覚することができるだけだ。
そしてこのマスクというスクリーンの機能は、ドアとなって度々画面に登場する。


このドアについても、バザンは興味深い論考を残している。
『市民ケーン』(1941)のスーザンの自殺未遂の場面について、著書『オーソン・ウェルズ』(1950)に次のような文章がある。

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