蒔く男 摘む男

 男が種を蒔いた。ひとつぶ種を蒔いた。種は芽を出し、育ち、花開き。また新たな種を生んだ。男はそれをまた蒔くだろう。それを続ける。ただ蒔き続ける。狂気の種を。
 男は芽を摘んだ。種から芽吹いたそれを、見付け次第に摘んでった。はじめは容易い作業だった。いずれ蒔かれる種は増えていった。あちらこちらで芽を出し、育っていった。狂気が。男は芽を摘む。地道に、ひとつひとつ。兄の蒔いた狂気を。

 「にいさん。もう、いいだろう。たねをまくのはやめようよ」
弟は兄へ呼び掛けた。兄は手を止めることなく種を蒔き続けている。弟はもう一度呼び掛ける。
「これいじょう たねをまいたら、たいへんなことになってしまうよ。にいさん、ておくれになるまえに やめよう」
兄はようやく口を開いた。種を蒔いたまま。
「おれは たねをまかなきゃあ、いけないんだ。いっぱい いっぱい たねをまくんだ。せかいじゅうに、たねを」
弟は驚いた。
「せかいじゅうにだって?なんだって、そんなことをしようと するのさ」
「まかなきゃあ、いけないんだ」
兄は同じ言葉をを繰り返す。狂気を蒔く兄は、一番初めに狂気に当てられていたのだ。狂気のままに、狂気を蒔く。世界中に。
「にいさんはきづいてないかもしれないけど、にいさんがそうやっていることで、せかいがどうなっているか わかるかい。おかしなやつばかりになった。ぼくが がんばって、めをつんでもつんでも、おかしいやつが、それをそだてるんだよ」
「わからないのは、おまえのほうだ。おかしいのは、おまえのほうなんだよ。こいつをまいて、せかいじゅうが きょうきにあふれれば、それがふつうになる。あざやかなはながあふれた、いいせかいになる」
兄は言う。全てが狂気に染まれば、それが正常になるのだと。普通でないのが、普通になるのだと。
「それでみんながきずついている。きずついてることにきづかないまま、おたがいぼろぼろになってるよ。もう、みていられないよ。にいさん」
弟は見てきた。人間たちが争い出し、なんのために争い出したのかも忘れ、争い続けるのを。弟は見てきた。傷つき倒れた人間を悼んでいたはずの人間が、それを忘れまた争い、犠牲を生み出していくのを。
「おまえは、そういうところしかみえていないのだ。みろ。あんなにも、みんなはたのしそうだ」
兄は見ていた。激しく憎しみあっていたはずの人間が、次の日には手を取り合うようになるのを。金を多く持った人間が、見ず知らずの人間へそれを軽々受け渡すのを。どちらも真実だ。狂った人間たちは、苦しそうであり、楽しそうでもあった。弟にはわからなくなった。

 「ねえねえ、おにいちゃんたち。みて」
小さな女の子が、二人へ話しかけてきた。その両手いっぱいに、なにかがきらきら光るものを持っていた。弟は女の子に了承を得、それを手に取りじっと見つめた。それは歌だった。
「そっちのおにいちゃんが まいたたねからできたんだよ。わたし、それだいすき!」
にこにこと笑顔で少女は明るく言った。兄もまた、彼女の手の中のひとつをつまみ上げ、首をかしげた。それは絵画。もうひとつつまみ上げる。それは詩。それから踊り。演奏。武芸。競技。弁論。創造。
「ぜんぶ、おにいちゃんのたねからそだって、すてきなたからものに なっていったのよ。でもね」
少女はその眩しい笑顔を、弟へ向けた。今度は弟が首をかしげた。
「おにいちゃんが めをつまないと、これはできなかったよ。おなじばしょにたねがあつまっちゃったら、たいへんだもの。それから、いろんなひとがそだてたから」
兄弟は顔を見合わせた。彼らはそれまで人間ばかりを見てきた。そこから生じるものを見たことがなかった。知らなかった。
「もちろん、たねからできるものはいいものばかりじゃあないけど……きょうきとしょうき?そのどっちもがあってのせかいなんだって。おとながいってたの」
狂気が蔓延するでもなく。秩序が幅を利かすでもなく。そのどちらもが必要なのだと、少女は言った。二人は理解した。互いがある意味を。だから、気が狂った兄は種を蒔く。正気を忘れぬ弟は芽を摘む。それを、ただ世界は取り巻き、広がっていった。

おしまい。

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