萌え尽き症候群

 今、自分の趣味が危うい。崩壊、壊滅、霧散の危機にある。どういうことか。これから書こうと思う。そしてこれはおそらく私だけの問題ではないだろう。「オタク」、あるいは「オタクであったものたち」全ての問題になりうるだろう。いきなり主語がでかくなってしまった。
「そんなことねーよ」
「そうはならねーよ」
「主語がでかくて読む気失せた」
ならそれはそれで構わない。構わないのだが、誰にでも起こるかもしれないことというのは事実だ。だって私がそうなったし。なんだかやり尽くしてしまったような感覚と、なににもときめきを感じないこの感覚。これを、仮に萌え尽き症候群としよう。


萌え尽き症候群とは

 オタクは、推せるものや熱中出来るものにより成り立っている。それはオタクの趣味も同じことだ。絵を描くオタクは、熱中するジャンルのキャラクターなどを描く。文を書くオタクもそうだ。しかし、その熱が突如ふっと消えてしまったら?
「そんなことはない」
「バカを言うな」
「お前が飽きただけだ」
「一緒にするな」
そうだろう、そうだろうとも、しかし聞いてほしい。それらの「熱」は、自分の意思で湧かしたり消したり出来るようなものではないのだ。オタクとてよく言う、「沼にハマろうとしてハマったわけではない」と同じである。
 話を戻すが、そうなると趣味もろとも容易くがらがらと壊れてしまうわけだ。だって描くものが、書くものがなくなるんだもの。


趣味の危機

 まあ、そういうことである。なにがあったわけでもない、なにをしたわけでもない、前触れもなく熱が消え失せてしまった。そうなったとき趣味の危機は訪れる。私が陥っているのはそれだ。私は絵を描くのを趣味としていたのに、生き甲斐としていたのに、気づけば描くものがない期間が増え惰性でソシャゲのみをし、何をするでもなくホラゲ実況を観るだけとなってしまった。これが単に「オタク離れ」「オタク卒業」ならばそれもいいだろう。
 だがそれでも「描きたい自分」はいる。残念なことに。惰性でソシャゲをやる自分がいるなら、惰性で描きたがる書きたがる自分もまた現れるのだ。誠に残念なお知らせである。そしてもっと残念なことに、自分の問題でしかないため対処法が今のところ見つかっていない。困った。本当に困ってるんだよ筆者。


困った

 という具合だ。それでも取り敢えずパソコンに向かえばなんか描けるだろう、そう思いながらパソコンとにらめっこをすれどやはり何も描けない、ロクなもの描けないそんな日々がひたすら続いている。それでも絵柄や作風を気に入ってくれる人たちがいて、よく褒めてくれている。とてもありがたいことだが、それにも困ってしまう。今、そんな言葉に見合うものを描けているのかと。ジャンルでフォローされた人たちにはきっとがっかりされているだろう、と。きっと彼らはまたそのジャンルに熱を向けることを願っているかもしれない。し、そうじゃないかもしれない。そうじゃないならいいが、今はなにかに熱を傾けるのが難しい。
 いっそ絵すらどうでもよくなればこうは思わなくなるのでは、そんな考えにもなるが未だこの趣味に未練ある以上、とても難しいだろう。また、なにかに熱く萌えていた頃に戻りたい。本当に困った。

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