春の話(創作)

そろそろ床から出なくては、そう考えていたときだった。いつも通りの時間帯、いつもとは違う戸口から、聞きなれぬ調子で戸を叩く音と覚えのない声が聞こえてきた。それは普段通り、薬の時間を告げるものだった。

「君代?」違うのだろうなという確信を持ちつつ、わたしは縁側にいるであろう誰かに声をかけた。誰かは「開けてもらっても?」と言った。断る理由もないので、戸を開けてやった。薄暗い和室に、奔流のごとく光が差し込んだ。数十秒ほど経ち、ようやく慣れた目にはまず、桃色が映った。

そのつぎに、見知らぬ少年を捉えた。快活げなその少年は、やけに時代がかった和装をまとっている。穏やかな笑みを湛えた彼はわたしに言った。「おはようございます!」
「おはよう」まだ状況をうまく飲み込むことが出来ないが、わたしはその少年に挨拶を返した。彼はにこにこしたまま頷いた。どうしたものかと僅かに思考したのち、少年の傍らに置かれた薬を確認し、それを飲むことにした。毎日飲んでいる持病の薬である。
布団から這い出て、少年の隣に座り込んだ。どうぞ、と少年が水と薬を渡す。受け取り、それを飲んだ。そのあと、今日はとても外が暖かいことになんとなく気が付いた。

「いい天気ッスよね」隣の彼はそう言ってきた。本当に、よく晴れた気持ちのいい天気だ。「そうだね」わたしは頷いた。少年は嬉しそうに笑った。「花見日和ッスよ、見てくださいよ。これ、君代さんが育ててた花たちなんス」
少年の言葉に、わたしは顔を上げた。植木鉢、プランター、小さな花壇には色とりどりの花が咲き誇っていた。そういえば、いつだったろう。君代が……妻が植木鉢に球根を植えていたことを思い出した。それが、いつの間にやら。「見事だな」「ええ。桜も見頃ですし。いやあ、この家最高ッスね!こうしてゆっくり花見ができるんスもん」少年の無邪気な喜び様にわたしは微笑ましくなり、少しばかり笑みをこぼした。こんなことは久しぶりだと思った。

「長いこと、部屋で寝てばかりなものだったから、外がどうなっているのか気付けなかったよ。妻がわたしの世話の合間、何をしていたのかも知ることはなかったろうな」見知らぬ少年相手に、この口は勝手に動いていた。「いいや、知ろうとすら思っちゃあいなかったんだろう。どのみち長くはないから、と全部諦めていたんだ」彼は何も言わずに、聞いていてくれている。「だけど君は教えてくれたんだね。この老いぼれにも、春が来ることを。誰にでも等しく季節は訪れるとな」少年は立ち上がり、庭に生えた桜の木の下へ歩いてった。「そうッスけど、少し違いますね」言って、こちらを振り返った。
「あの戸を開けてくれたのは、おじいさん自信です」彼は明るく笑ったまま、庭を歩いていく。「忘れていた春、思い出せたのならそれで!あ、そうだ。もしまた季節を忘れたら、会いに来ますよ。そのとき来るのが僕とは、限らないッスけどね!」手を振り、春色の少年は去っていった。彼の去ったここには、ひどく穏やかで、暖かい春があった。
「あら!おじいさん。いいのですか、お布団から出ていますけど」ぱたぱたと慌ただしい靴音が近づく。君代だ。手には布団叩きを持っている。この天気だ。布団を干したらよく乾くだろう。「でも、たまにはお外の空気を吸ったほうがいいですよねぇ。だって、今日はこんなに」「いい、春だからな」わたしは呟き、空を見上げた。澄んだ青と、風に舞う桜が見えた。

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