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『碧と海』 連載小説【14】

「あ、そうだ」

 バス通りを歩いている途中、緑の君が思い出したように引き返す。何処に行くのかと思えば、ゴミ捨て場。まだ回収前らしく袋が積んである。緑の君は瓶や缶が入ったゴミ袋をひょいひょいどかしてなにか探しているようだ。

「どうしたの?」

 持ち上げたゴミ袋の下に財布があった。

「さっき捨てたんだ。いらないかなと思って」

 緑の君は二つ折りの黒い財布をパンパンと払うと、ズボンのポケットに突っ込んだ。そして何もなかったようにまた歩き出した。
 どういうことなんだろう、と当然疑問に思う。だって、財布って滅多にいらなくなったりしない。

 緑の君は、都心では滅多に見られない昔ながらの生活雑貨屋でサンダルを買って履いた。古い旅館のトイレとかに置いてあるようなサンダル。そのお金は拾った財布から払っていた。つまり彼は中身ごと捨てたことになる。なんで?
 ガラガラのバスの中で、いろんな疑問はさておき名前を聞いた。緑の君、と呼ぶわけにもいかない。

「早瀬」

「早瀬……?」

「そう、早瀬。お前は?」

 下の名前を聞きたかったのに。

「佐倉海斗」

「さくら? 名前みたいな苗字だな」

「漢字で見るとそうでもない」

「ふうん、なんて呼ばれたい?」

「へ? べ、別になんでも」

「べ、別になんでも、って呼ばれたいの?」

 早瀬はニヤニヤしながらこっちを見る。小学生かよ。

「年は、いくつ?」

「十九。お前は?」

「十七」

「お前高校生なの? 高校生が一人旅? どっから来たの?」

「横浜」

「ふうん、遠いの? 近いの?」

「電車で三時間半」

「それって、遠いの? 近いの?」

 俺は「さあ」と肩をすくめて笑った。それを見た早瀬は変な顔をして「なんだよ」とまたふてた。

 早瀬は会った時の印象と違って、人懐っこくてよく話す。なんだろう、この感じ。まるで、気位の高いネコが思いがけず懐いてくれたような、そんな特別感。

「なんで一人旅なの? しかもなんでこんなとこにいんの? 観光するとこじゃないじゃん」

 早瀬は整理券を曲げてペコペコ音を出しながら聞く。

「なんで、か。
 実は俺、ここで産まれて六歳まで住んでたんだ。ほら、君が教えてくれたアパート。カーサ鈴木。あそこが鈴木荘って名前だった頃に住んでたんだ。君もあそこに住んでるの?」

「住んでない」

 人には散々聞いておいて、自分のことになったら早瀬はほおづえをついて窓の外に視線を向けた。

「ふうん。じゃあ、あそこに住んでるのはお姉さん?」

「お姉さん?」

 早瀬が驚いたように振り返った。

「違うの? 似てたからそうかと」

「似てた?」

「うん。あ、目の色は違ったけど。早瀬くんは緑だよね、それ」

 その緑色の瞳が小さく揺れていた。

「なに観察とかしてんの。つうか、会ったの?」

「いや、少し話しただけだけど」

「まじかよ。何話した?」

 怒っているわけじゃなくて、動揺からなのか早瀬の眉がぴくぴくと動いている。

「ただ、あのアパートが前は鈴木荘って名前じゃなかったか聞いただけだよ」

「他には? あいつ何か言ったか?」

「大家に聞けばって。それだけ。あ、もしかしてカノジョだった?」

 早瀬は小さく息をついて、首を横に振った。

「……母親」

 早瀬はイライラした口調でぼそりと呟いた。

「姉さんじゃなくて、カノジョじゃなくて、母親だよ」

「ええぇ、まじで? 若いな」

「そう見えるだけだ」

「しかも綺麗だし」

「昔はもっと綺麗だった」

 そう言って早瀬はまた外を見た。今度は少し悲しそうな目をしていた。

 湾岸道路から海側に少し入ったところに、早瀬が働くペンションがあった。木造りの大きな看板には『ペンション&レストラン アリゾノ』という文字とサボテンの絵が描いてあり、その奥には外国の一軒家を思わせる大きないかした建物があった。

「アリゾノ、アリゾナじゃないんだ」

「惜しいよね」

 『アリゾノ』の壁は白く、三角の屋根や窓枠はダークブラウンで縁取られていてどこかレトロな雰囲気を感じる。入口が二つあり、一方の入口周辺にはウエットスーツやシュノーケル、フィンなどが干してある。もう一つの入口の前にはウェルカムボードが出ていて、おすすめの料理が書かれていた。伊勢海老や魚介を中心にしたメニューが並んでいる。どうやらアリゾナっぽいのは看板のサボテンの絵だけだったようだ。アリゾナに海は無かったはず。ここには椰子の木や様々な緑が茂っていて、アリゾナというよりフロリダとかハワイのほうが近いんじゃないかと思う。どちらも行った事は無いけど。ともあれ、自分が日本じゃないどこかの国にいると錯覚しそうになる。これはもう、一目見て好きになった。きっと色黒でたくましいワイルドな店主がサーフボードを磨きながら、もしくはフライパンを振りながら出迎えてくれるんだろうと勝手に推測した。

 早瀬に連れられてペンションの中に入ると、木と潮とコーヒーの香りが出迎えてくれた。エントランスは喫茶店のようにテーブルと椅子が並べてある。壁にはダイビング用品が詰まった棚が並び、ダイビングツアーのポスターがあちこちに貼られていた。そして受付カウンターには色白でひょろっとした薄毛の男性が座ってコーヒーを啜っている。黄色いアロハシャツの胸元からのぞく白い鎖骨がなんだか物悲しく見える。男性は俺たちを見ると、笑顔を浮かべて「早瀬くんおかえり」と迎えてくれた。

「隆さん、客連れてきました。こいつ」

と、早瀬は俺を指差した。俺は「こんにちは」と頭を下げる。

「あぁ、いらっしゃい。お客さんなの? 友達じゃなくて?」

「家族価格で泊められる?」

「いいよ、もちろん」

 隆さんはニコニコしながら宿帳を取り出し、俺に座るよう勧めた。

「あ、そうだ、早瀬くん」

 俺が宿帳に書き込んでいる間に、隆さんが思い出したように声をかける。

「何ですか」

「さっきね……。あれ、なんだっけ。何か言う事があったと思ったんだけど。あー、ごめん。忘れた」

 隆さんは、えへ、と肩をすくめる。またっすか、と早瀬は呆れたように言う。

「いいのいいの、たぶん、たいした事じゃないから」

 そうニコニコ笑う彼が『ペンション アリゾノ』のオーナーの有園隆さん。というのは、後で早瀬が教えてくれた。あの外見でサーフィンもダイビングも出来るんだ、とも。ただ、全く日に焼けないのが悩みだとかなんとか。とにかく良い人そうなのは間違いなかった。

「一応、規則だから」と、隆さんはすまなそうに俺の父親と電話で話した。俺が未成年だから、親の承諾が必要だったのだ。
 一人で旅をしたい、と父親に切り出したとき、反対はしないだろうと思っていたが、予想通りどこの山に登るんだとウキウキしていた。彼の中では旅=登山らしい。登山に行くのではないと説得するのが大変だった。そういう人なのだ。母さんの四十九日を終えて生活も落ち着きつつあるとはいえ、まだ思うところがあるのだろう、と息子を思いやってくれたのかもしれない。細かい理由は聞かずに、何泊になるかわからない旅に、快く送り出してくれた。こういう時子ども扱いしないでくれる父親が好きだった。とりあえず、泊まるところが決まって父も安心したようだ。

 早瀬に案内されてやってきたのは、二階のシングルの部屋。値段が値段だから狭くて古いのを覚悟してたのに、親戚の結婚式で泊まった都会のホテルよりも広くて明るい。ベッドにデスクにテレビに冷蔵庫、もちろんエアコンもちゃんとある。なにより、木造りの壁や床、天井もいい具合に使い込まれているのが、木の匂いがするのがなんかいい。ザ・ペンションって感じ。しかも、開け放たれた窓の向こうには海が広がっている。ペンションは崖の上のような高台にあって、ずっと下の方に小さな砂浜が遠慮気味に広がっている。

「へぇ、プライベートビーチみたいだな」

「風呂とトイレと洗面所は共同。机の上に案内のパンフがあるからそれ見て。ランドリーで濡れた服も洗える」

「サンキュ」

「一階の風呂場の隣が俺の部屋だから、何かあったら言って」

「わかった」

 早瀬は「じゃっ」と手をあげて出て行った。

 俺はベッドに腰を下ろしてスマホで時間を確認した。六時。夕飯どうするかな、と考えながら、靴を脱いでベッドに寝転がった。開いたままの窓から温い風が入って来て頬を撫でる。エアコンの風の方が気持ちいいだろうと思うけど、起き上がってリモコンを探すのが面倒くさい。

 目を閉じてカーサ鈴木の壁の色のことを考えた。明るい黄色と水色の壁。鈴木荘だった頃はどんな色だったのだろう。見たことがあるはずなのに覚えていない。でも、確かに住んでいたのだ。思い出そうと今日見た景色を思い浮かべる。その風景に小さい頃の自分の姿を思い描く。ヘタクソなコラージュ。それは見ることが出来ないはずのない風景。自分で自分を見ることは出来ない。それでも俺は想像する。広い空。水色の壁。雑木林のような大家の生け垣。壁に落書きされた家。ぶぶっと耳の側を横切る羽音。

 まただ。てんとう虫が目の上に止まった。

 LadyBird Ladybird……。歌声が聞こえる。早瀬の歌声……。

 俺はふうっと優しく息を吐き出す。すると、てんとう虫はぶぶぶっと羽を広げて飛んでいった。ふっと桂木の事を思い出す。握った彼女の指。柔らかな温もり。何度も思い出してきたその温もり。しっとりとした感触が俺の体を包み込む。そうして俺は、誘惑に抗うことを放棄して睡魔の手の内に身を任せた。


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