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『碧と海』 連載小説【11】

 雑木林のような庭木の前を歩いていると、車がやっと入れるくらいの入口を見つけた。ポストも表札もないけど、俺は中へ入って行った。やがて木々がなくなり、広い空間が現れた。軽トラックとぴかぴかの青いワゴン車と土埃を被った白いセダンが並ぶ大きなガレージがあり、新築みたいに綺麗な二階建ての家があった。玄関には鈴木と書いてある。しかし、奥の方にもう一軒大きな古い平屋が見える。立派な屋根瓦がついていて、ボロいけどかなり立派な造りだという事は分かる。そしてそこに掲げられた表札も鈴木だった。どちらが大家の鈴木さんなのか迷っていると、スクーターが一台入って来た。安全第一と書かれた白いヘルメットを頭に乗せたおばさん。おばさんは俺のすぐそばでスクーターを止めると、ヘルメットを脱いだ。大仏みたいなきついパーマ頭が出てきた。ニコニコ笑い顔を作りながら、おばさんは甲高い声で話しかけて来た。

「悪いなぁ。ちょっと『はなまさ』まで買い物に行っとったで。で、何だ? 家賃か?」

 自分の世界が他人のと同じだと信じて疑わないおばさん。『はなまさ』って何だよ。

「違います。『カーサ鈴木』の事で聞きたい事があって」

「あぁ、部屋探してるんか? 『カーサ』は今、空いてなぁんだわ。でも『プリマ』なら空いてるだよ。『カーサ』より駅に近くていいんだよ。今すぐ見れぇけど、見に行くか?」

「あの、物件は探してないんです」

「じゃぁ、何だ」

「ええと、あの、『カーサ鈴木』と『鈴木荘』って同じですか?」

 おばさんはあからさまに迷惑そうな顔をした。さっきまでニコニコ営業スマイルを振りまいてたのに。

「おまっち、『鈴木荘』知っとんけ。あれな、古くてボロボロだったからリフォームして、名前も『カーサ鈴木』に変えただよ。だもんで、同じっちゃ同じだわな。何、そんなこと聞いて、どおするつもりか」

「えっと、俺、実は母と『鈴木荘』に住んでいたんです。十一年前に。もしかして、その頃のこと知ってたりします?」

「十一年前じゃぁ知らなねぇな。おらっちら、じいさんが死んでからここに来て、アパート管理するようになっただよ。そうだなぁ、じいさんが死んだのは、六年くらい前だったかね。だもんで知らんなぁ」

「そうですか。すいません、ありがとうございました」

 頭を下げてその場を去ろうとする俺に、おばさんは好奇心丸出しの態度で聞いて来た。

「何? なんでそんなこと聞きに来ただか。おまっち、いくつか? どこから来た?」

 俺は頭を下げ、逃げるように鈴木家を出た。

 もし、大家さんが当時の俺と母さんを覚えていたら、とか思ったけど、まぁ仕方ない。だいたいそんなこと聞いてどうするのだ。

 俺は何の当てもなく、カーサ鈴木の周りを歩いていた。歩いていれば、何か思い出すかもしれない。懐かしいと感じるものがあるかもしれない。そんな風に、見知らぬ家々や放ったらかしになった畑や、草が飛び出している排水溝などを眺めて歩いた。そうしているうちに、突然、ものすごい違和感を放っている家に辿り着いた。なんか、黒い。黒い家だ。

 一見どこにでもある造りの家だったが、コンクリートの壁一面にスプレーで落書きされている。そのせいで壁が黒く見えるのだ。そのらくがきの中で一番大きな文字に目が行く。

 鬼畜!

 近づくと様々な文字が見えて来る。死ね、変態、バカ、包茎、誹謗中傷のオンパレードだ。家の壁にもよく分からない汚れがこびりつき、窓は割られ、玄関先にはゴミが散乱していた。今は誰も住んでいないようだった。こんなにも悪意を向けられたら住んではいられないだろう。穏やかそうな田舎町にこんな悪意があるなんて、と少し驚いた。でも、考えたら悪意なんてどこにでもある。聖職者の町にだって、天使の国にだってあるに決まってる。それにしても、どんな人が住んでいたのだろう。思いを巡らせていると、ブロブロとスクーターの音が近づいて来た。今度は警察官だった。

「君さ、さっきからウロウロしてるみたいだけど、道に迷ったか?」

 中年の浅黒い肌をした警察官だった。警察官は嫌いだ。

 前に自転車泥棒に間違われて捕まった事がある。ただ友達に借りた自転車を乗っていただけなのに、あまりにひしゃげた自転車だったからか、警察官に呼び止められてしまったんだ。借りた友達に電話してもなかなか通じなくて、警察官は生徒手帳を見せろと言い出した。見せたら見せたで、俺の学校の名前が読めない。読めないことを学校のせいにする。友達の家に連絡され、ほぼ窃盗が成立しそうになって、ようやく友達本人と連絡がついて窃盗じゃないことがわかっても貸し借りはしちゃダメだとか俺が悪いという感じで説教されて。それ以来俺は警官は嫌いだ。

 そんなわけで、俺は警官の前から逃げ出したくなったが、逃げると面倒くさい事になるのは分かっているので、一応笑顔なんか作ってみせる。

「迷ってはないです。ありがとうございます」

「なら何をしてるんだ、君は。どこから来た」

 まじかよ。誰かが通報したのか? と思いながらそんな顔を見せない。

「家は横浜です。実は六歳まであのアパートに母と二人で住んでいたんです。『カーサ鈴木』になる前の『鈴木荘』に。母が先月死んでしまって、急にここに来たくなったんです。来てみるとすごく懐かしくて。それで」

「わざわざ横浜からねぇ?」

 警官はまだ疑うような目で見ていた。
 俺は「面倒くさいな」と思いながら、母の戸籍謄本と生徒手帳を見せた。住所を調べる為に取りに行った戸籍謄本が役に立ってよかった。
 警官はやっぱり学校名を読めなかったが、謄本に書いてる住所を見て納得したようだった。

「いやぁね、今月に入って空き巣が続いていたからさ。だから住民もぴりぴりしてんのさ。君も紛らわしいからあんまりウロウロするなよ」

と言うと、ニヤニヤと笑った。この空気を誤摩化そうとしているのかもしれない。ムカついたけど、わざわざ謄本と生徒手帳を見せた手間賃は貰おうと思って、

「この家は何なんですか?」

と、聞いてみた。

 警官は眉をしかめながら塀の落書きを見た。

「あぁ、誰も住んでねえよ、今は。さっさと取り壊せばいいのによ」

「ひどい落書きですね」

「あぁ、悪ガキどもだな。ひでぇもんだ」

「犯罪者は出て行けって書いてある」

「どこに」

 これ、とポストの隅に小さく書かれた字を指差す。

「きたねぇ字だな。こっちは「萌え萌え」だと」

「犯罪者って?」

「ただのイタズラ書きだろうよ」

「こんなに集中砲火食らうって、何かあったんじゃないんですか?」

「さぁなぁ、俺も去年こっちきたばっかだから分かんねぇな」

「えぇ、知らないんですか? 引き継ぎとかなかったんですかぁ」

 わざと大きな声で言ってやった。

「知らんもんは知らんさ。そんな、昔のご近所トラブル全部引き継いどったらキリないわ。それより、用が終わったらさっさと帰れよ。知らんモンがウロウロしとると年寄りがピリピリするからよ」

 警官は浅黒い顔を真っ赤にして早口でまくし立てた。そして、まだなにかぶつぶつ言いながら、スクーターのエンジンを入れて行ってしまった。
 スクーターの排気音が遠ざかって行くのを聞きながら、ポストに書かれた『犯罪者』という小さな文字を見つめた。


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