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『碧と海』 連載小説【12】

 海が見たかった。
 電車やバスの中からチラチラと見てはいたけど、全身で海を感じたかった。
 俺はもう一度黄色と水色のアパートの前を通ってバス通りに出た。方向からして、バス通りを渡ってずっとまっすぐ行けば海に出るはずだ。でも、通りを渡った先は雑木林しか見えない。海に続いていそうな道はない。スマホのマップで調べれば簡単に分かるかもしれないけど、そうしたくなかった。自分の直感を試したかった。

 深呼吸して目を閉じ感覚を研ぎすませる。匂いを感じる。風を感じる。音を聞く。口を開けて空気を味わう。

 思い出せ、十一年前を。
 俺は確かにここに居て、寝たり食べたり遊んだりしたはずなんだ。
 十一年前、ここに立っていたはずなんだ。

「どうした」

 声に驚いて目を開けると、小さなおばあさんが俺を見上げていた。別に、ゆるキャラとか妖精とかではなく、野良仕事の帰りらしい小柄なおばあさんだ。

「どうした、眠いんか」

「あ、いや、別に」

「なるこれぷしーか」

「え? な、え?」

「びょーきか」

「いえ、いや、ただ、そのぉ、海どこかなぁって」

「泳ぐんか」

「見るだけです」

「ならそっちの道入ったら見れるさ」

 おばあさんは俺の後ろの方を指を差す。

「そっち?」

「そ、そっち」

「どうも、ご親切にありがとうございます」

 おばあさんはうんうんと頷きながら、バス通りをゆっくりと渡って行った。車が来ないか心配しながら、おばあさんが渡りきったのを見届ける。それから、教えてくれた道とは呼べないような、でも人が通行している痕跡程度の道を見つけて雑木林へ入っていった。自分の直感を試すのはまた別の機会にすることにした。

 頼りない、細い山道を十分くらい歩くと、ようやく海に出た。明るい。明るい色の空がそのまんま映った鮮やかな海。これまで見た海と全然違う。その色の鮮やかさに驚いた。エメラルドグリーンとスカイブルーの間くらいの色。そこは、浜と言うか、磯。足下はごつごつとした岩で、左右に高い崖がそびえ立つ。波が岩を削り取っていった残骸のような、荒々しい浜辺。船が難破して流れ着いた無人島を思わせる。

 十七歳、高校最後の夏休み、俺はここに流れ着いた。

 海水に足を付けてみようと靴を脱ぐが、岩は暑くてごつごつしていてひ弱な俺の足の裏では上手く歩けない。どうにか浅い砂地の場所をみつけ、海水に足を突っ込む。温くて笑ってしまった。貝を踏まないよう気をつけながら大きな岩を渡り、沖の方まで行ってみる。水の中を覗くと、ゆらゆら光を反射する白い砂底が見える。深いのか浅いのか分からない。ふいに大きな波がやってきて膝まで飲み込まれ、ビビる。焦って波が来ない場所まで引き返すと、また笑いが込み上げて来た。なるべく平らな岩場をみつけて腰を下ろすと、俺は空と海の境界線を見た。群れから取り残されたようなヒヨコみたいな小さな雲がぽかんと浮かんでいた。海の色といい、空の広さといい、これまで俺が見て来た景色のどれとも違っていた。俺は目を凝らして海を見る。確かに、こんな景色は見た事がない、と思う。しかし、俺はこの海を見た事があるはずなのだ。この海が見守るこの土地で生まれ、育ったはずなのだ。俺は六歳まで確かにこの土地に住んでいた。母親と二人で。もしかしたら、母とこうして海に来ていたかもしれないのに。それなのに、少しも懐かしいという感情が湧いてこない。吹き出した汗がこめかみを伝う。

 しばらくして俺は、海の彼方から記憶が飛んで帰ってくるのを待つことを止めた。記憶は飛んで帰ってはこない。
 以前住んでいた場所を見れば思い出すかもしれないと思ったけど、まるで思い出せない。

 俺は仰向けに寝転がった。

 太陽が眩しくて目をつむる。

 頭の中で何かが震える。

 波が起こす不規則なリズムに共鳴したのかもしれない。

 何万年かけて岩を削り取っていくように、俺を飲み込んで浚ってくれ。そうして最後まで残るのは、何なんだろう。

   ぶぶぶぶぶぶ

 ぼんやりと世界が明るくなって、あぁ、眠りから覚めるな、と思う。そして気がつく。寝てたんだなと。

 夢と現の間って無限の時間が存在する。

 そんな引き延ばされて歪んだ時の中で、俺は必死に目を開けようとする。けど開かない。そのうち甘酸っぱい香りに包まれ、口の中が爽やかな酸味で満たされる。オレンジジュースだ。冷たいオレンジジュースを飲干すと、つるんという感触を舌で感じる。甘くて濃厚で優しい卵の味とカラメルの香り。プリン。その後はふわふわのクリームとしっとりしたスポンジ生地のショートケーキ。まるでお菓子の国に迷い込んだみたい。

 いつもの夢だ。
 目を開けると居るんだ、あいつが。
 ほら、赤いジャケットを着て、頭のツノを揺らして、俺を見てる。
 表情はぼんやりして見えないけど、ニコニコして俺を見てる。
 パパなの? と聞くと、その人はメガネを持ち上げながら言うんだ。

 そうだよ。でも、ママには秘密だよ。

 ママが知らない魔法だよ……。

 覚醒は唐突にやってくる。
 あまりの眩しさに身をよじる。背中と腰が痛い。
 俺はゆっくりと起き上がって、慎重に目を開いた。海が広がっていた。磯だ。甘い香りは波が引くように消え去った。
 岩の上で直射日光を浴びながら寝てしまったのだ。当然、体は汗でぐっしょりと濡れていた。太陽を直に浴びていたせいで、体中の血液が沸騰しかかっているような気がした。朦朧としながらもどうにか起き上がり、ペットボトルを取り出し、お湯になってしまったミネラルウォーターを飲干す。顔がジリジリ痛んだ。どこかに日陰はないかと周りを見渡すと、崖の上に人影を見つけた。黒っぽい短パンにグレーのTシャツという姿。じっと海を見下ろしているようだ。もしかしてあれは……。

「緑の君?」

 カーサ鈴木の場所を教えてくれた、緑の瞳の美少年。
 断崖に佇む彼は、さながら身投げを覚悟した悲劇の主人公だった。

 あんなところで何をしているのだろう?

 すると、彼はおもむろに助走をつけ、飛んだ。
 緑の君は真っ逆さまに落ち、飛沫をあげて海の中に消えた。


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