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『碧と海』 連載小説【8】

   ぶぶぶぶ

 熱海を過ぎ、伊東を過ぎ、それからいくつもの駅を超えて終点の下田駅で列車を降りた。
 目的の駅に降り立つと、空が広くて気持ちがよかった。黒船の模型とヤシの木のようなデカい木があって、観光地に来た高揚感が涌き上がる。でも、懐かしい気分にはならなかった。たぶん、見た事があるはずなのに。だって、六才まで俺はこの町に住んでいたのだから。
 俺は目の前の観光スポットは目もくれず、スマートフォンを出して「心のクリニック」の地図を検索した。駅から三十分くらい歩いた場所にあるようだ。

 クリニックは県道から少し外れた、森の中にあった。コテージのような、こじんまりとした清潔感溢れるオシャレな感じの建物だ。中に入ると、白を基調とした明るい空間が広がっていた。若い白い制服姿の女性が二人、笑顔で出迎えてくれた。俺は、予約はしていないけど、医院長先生と話がしたい、と女性に伝えた。用件を聞かれたので、自分は夏川京子の息子で、そう言ってもらえれば分かると思う、と言った。女性は「では椅子にかけてお待ちください」と奥の部屋に入って行った。
 俺は勧められたソファに座った。その待合室に、患者らしき人は誰もいなかった。壁もソファも白くて、観葉植物の緑だけが鮮やかに映えて見えた。耳を澄ますと、マリンバの音楽が流れていた。

 夏川京子は結婚しないで一人で子供を産んだ。
 海斗という男の子。そう、俺のこと。
 少し夏川京子、つまり母さんについて話すよ。

 京子の両親は、父親の分からない子を産むことを許さなかった。京子は子の父親が誰なのか、誰にも言わなかった。だから、京子は一人で海斗を産み、親子二人だけで伊豆の小さな町に暮らし始めた。京子はこの町で生まれ育った。病院で看護師として働き始めるまでは実家で両親と、弟と、家族四人で暮らしていたのだ。でも、京子が働き始めてからすぐ祖父が死んで、家族は祖父が遺した清水の家に引っ越した。京子は勤め先を変えたくなかったので一人残った。やがて海斗を身籠り、一人で産んで一人で育てる事になった。海斗が小学生になる前に、京子はこの町を出て東京へ引っ越した。何故住み慣れた田舎町を出て、東京なんかに引っ越そうと思ったのかは分からない。事情があったのだろう。
 それから少しして、京子はアウトドア用品を扱う会社に勤めていた佐倉友彦と結婚した。友彦の会社が主催するアウトドアのイベントで、京子と海斗は彼と出会った。彼はバツイチだったけど、気さくで嘘がつけなくて優しいだけが取り柄で、山をこよなく愛する人で、京子も海斗もすぐに彼を大好きになった。その結婚を機に京子は両親と和解した。横浜に家を買い、看護師の仕事を辞め専業主婦になり、苦労の多いシングルマザーから一転、中流層の平凡だけど不自由の無い幸せな奥さんになった。

 というのが、俺の母さんの歴史の中の一幕。俺はそのあらすじしか知らない。母の気持ちとか色々な事情、まして心情までは知らない。
 ともあれ、母の結婚を機に、俺の生活は随分変化した。その時の俺の背中にはきっと『平凡と言う幸せ』と書いた札が貼ってあったと思うね。縫い付けたのは母さんだ。そんなもの、突然くっつけられても恥ずかしい。でも、それがあるのとないのでは全然違う。専業主婦になった母さんは、俺が学校から帰ると必ず「おかえり」と出迎えてくれた。最初はすごく嬉しかったけど、慣れると普通になり、中学生くらいにもなると「ただいま」の声は元気いっぱいの大きな声ではなくなっていた。だって、明日も明後日も明々後日も「おかえり」と言ってくれると思っていたから。その声がなくなるなんて思ってもいなかったから。

 ガンだと分かった時、同時に余命を宣告された。発見が難しく進行が早いスキルス性胃ガンだと説明された。告げられた余命は三ヶ月。その残された時間を俺たち家族がどう過ごしたか、その辺の事は、まぁ、勘弁してほしい。かあさんは頑張って宣告された期間より長く生きられた。俺たちはなるべく後悔のないよう過ごしたつもりだ。だから母さんが死んだ時、深い悲しみはあっても、取り乱すような衝撃はなかった。だって、もう死が目に見えるような状態だったから。最後の何日かはクスリで眠っているだけだったんだよ。

 よく頑張ったね。

 俺は骨張った母の手を握ってそう言ったんだ。

 ありがとう。

 遺品整理、と言ってもほとんどを母さんが自分で済ませていた。でも、服とか本とかは俺と父さんがやることになっていた。母さんが言うには、遺された人の心の整理の為にも儀式的な事は必要なのだそうだ。で、古い鞄やら靴やらを整理している時に、見た事がないスポーツバッグから、見た事のないポーチが出て来て、その中から財布と定期入れと何かの鍵などが出て来た。財布を開くと、夏川京子時代の免許証や銀行のカード、現金がまるまる入っていた。もちろん母さんのだ。あぁ、なるほど。母さんはちょっと抜けた所があって、しょっちゅう財布やら何やらを失くしていた。本当に見つからなかったことはないんだけど。多分これも、母さんが失くしたと思っただけで、見つけられなかった物なのだろう。免許証の若い母さんを見てクスリと笑ってしまった。住所は静岡県になっていた。こっちに越す前のものだ。銀行のカードとかはシュレッダーにかけた方がいいんだろうな、と思っていると、ポイントカードに混ざって一枚の名刺が出て来た。

『心のクリニック 心療内科医 芝辰朗』

 あ、辰朗……。

 その名前はすでに知っていた。

 母が亡くなる直前のことだった。
 眠っていると思った母が、突然目を開け、俺を見てわなないた。

「か、海斗は? 海斗は大丈夫なの?」

 一日の中で目を閉じている時間の方が長かったから、だから俺も父も出来るだけ病室にいるようにしていた。その日も俺は、窓の外の雨音を聞きながら、病室で問題集を広げていた。一応受験生だし。部活はとっくに辞めていて、学校が終わると病室に直行し、母の隣で勉強をした。そんな時に突然母が起き上がって、海斗は、海斗は、と叫び出した。

「どうしたの? 母さん」

 いつものぼんやりした表情とは全く違って、母の目はギラギラしていた。なにかに怯えるように震えながら、俺を凝視していた。

「海斗は、大丈夫なの?」

 ただならぬ様子に、俺は母を落ち着かせなきゃならないと思った。

「大丈夫だよ。心配ないよ」

 母は俺の方に手を伸ばす。その手をそっと包み込む。

「本当に? 大丈夫なのね。辰朗さん」

 辰朗さん、と母は俺の目を見て言った。

「たつろう?」

 誰?

「海斗は、辰朗さん。本当に……」

 母が俺の腕を掴んだ。すうっと、体から血の気が引いて行った。

「ねぇ、なんの事?」

 母は泣き出しそうになりながら、俺の腕を強く掴んだ。

「辰朗さん……お願い、海斗を助けて。見捨てないで、あなたの子なのよ。助けて、お願い……」

「ちょっと、ねぇ、それって」

 母はひとしきり俺に懇願すると、突然糸が切れたように、ふうっとベッドに倒れ込んだ。そして、目を閉じたまま、緩やかな息を立てて眠ってしまった。

 俺は思いもよらぬ形で本当の父親の名前を知った。

 母は辰朗さんに助けを求めた。見捨てないでとすがった。

 何があった? 俺に、何かあった?

 俺は芝辰朗の名刺をこっそり自分の財布にしまった。そして、夜な夜なそれを出しては、眺めた。まるで好きな人の写真を眺めるように、穴が開くかと思うほど見つめた。

 こいつが、俺の父親なのか。

 こいつに母の死を伝えた方がいいのかな。

 こいつが、俺の父親なのか。

 母はこいつに、何を助けてと頼んだ? 海斗は大丈夫かって、大丈夫じゃない感じだったんだな。もしかして、こいつが、俺の父親なのか。

 こいつが、俺の父親なのか。

 だとしたら、夢に出てくる赤ジャケットの男、「パパだよ」と言う男はこいつなのか。

 あれは、夢じゃなくて記憶なのか。

 こいつにはツノがあるのか。ツノを揺らしてニコニコ笑ってるのか。

 会った事があるのか。俺は、助けてもらったのか。

 こいつが父親なのか。


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