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『碧と海』 連載小説【13】

「うそだろ」

 俺は慌てて緑の君が落ちた場所へ近づいた。
 波が断崖を叩き付けている。人影は見えない。
 海は深そうだが、あの高さから落ちたらそこらじゅうにある岩のどれかにぶつかる気がする。どうしたら良いか分からなくて、その場を動けないでいると、思ったより岩場に近い場所にぷかりと彼の背中が海面に現れた。体は波に揺られているだけで動かない。
 俺は慌てて海に入り、緑の君を目指して泳いだ。
 助けなければ。
 その思いで必死に泳いだ。もう少しで手が届く、そう手を伸ばした時、緑の君の体がくるりとひっくり返った。

「!」

 伸ばした俺の手が彼の腕を掴んだ。

 彼は驚いて顔を起こした。

「え?」

 お互い状況が飲み込めず、ふたりでしばらく立ち泳ぎをしながら見つめ合った。


「なんだよ、絶対死んだと思った」

 俺たちは服からぼたぼたと水を滴らせながら海から上がった。

「バカじゃないの。飛び込んだだけじゃん」

 緑の君は頭を振って水しぶきを飛ばす。濡れた髪がくりんとカールしてますます日本人離れして見える。

「だって、この高さじゃ……」

「……」

 緑の君はおもむろにTシャツを脱ぎ、短パンも脱ぎだした。 

「別にいいんだ。死んだって」

 彼は平らな岩を見つけ、パンツ一丁でその上に寝転んで大の字になった。投げやりな言い方は冗談なのか本気なのか、分からなかった。でも冗談ではない気がした。だって、死にたいって思う時、誰でもある。俺だってある。でも……。

「死んでなくてよかったよ」

 緑の君はうっすら目を開けてこっちを見たが、すぐに目を閉じてふてくされた顔になった。
 俺は彼の姿を横目で見ながら、濡れたTシャツを脱いで絞った。Tシャツは着ていれば乾きそうだったが、ジーパンはどうだか。スニーカーは脱いでいてよかった。バッグを見つけると、タオルを取り出し、頭にかぶった。緑の君は岩の上で寝転んだままで、てっきり乾かすために脱いだと思ったのに、服はぐちゃっと丸まって放ってある。

「あれじゃ服、乾かないんじゃないの」

「別に」

「なんで脱いだんだか」

「汚ないから。もう、着ない」

 駄々っ子のような口調。潔癖なのか、他に理由があるのか。ただ、ふてくされてるのか。

「あのさ、よかったら服、貸そうか」

 緑の君はガバッと体を起こした。

「え?」

 俺はリュックからTシャツと短パンを出した。

「洗濯してあるから。よければだけど」

「まじ、いいの?」

「パンツもあるけど」

 黒いボクサーブリーフを出すや否や、着替えをひったくられた。

「お前、いい奴だな」

 俺の目も気にせず濡れた下着を脱ぎ、俺のブリーフを履き、あっという間に短パンツも履いてしまった。よくわからないやつだな。

「へぇ」

 緑の君は、Tシャツを広げて眺めていた。そのTシャツの背中には『Ladybird! Ladybird!』という文字とてんとう虫が小さく描かれている。イギリスではてんとう虫のことを「Ladybug」ではなく「Ladybird」って言うというらしい。というのは後で知ったんだけど、店でこれを見つけた時には宿命のように買ってしまった。たぶん、本当にてんとう虫の霊に取り憑かれているんだ。

「Ladybird, ladybird, Fly away home. Your house is on fire……」

 突然、緑の君が歌いだした。
 そのメロディーはゆったりとしてまるで子守唄のようだ。

「え、何それ」

「Ladybirdの歌だよ。このTシャツ見て思い出した」

「歌があるの?」

「むかし、園の先生がよく歌ってた。あれだよ、マザーグースってやつ。体にてんとう虫がくっついた時にこの歌を歌って、フウって吹き飛ばすんだ。殺しちゃいけないって。お前、知らないでこのシャツ着てたのかよ?」

「知らなかった。そうなんだ……」

 緑の君は「ふうん」とふてくされた顔をして、ささっとTシャツに頭と手を通した。そして濡れて丸まっている服を蹴っ飛ばした。その足は裸足だった。

「靴は?」

 緑の君は肩をすくめた。

「海の中で脱げた」

「さすがに靴の替えは持ってないな」

「お前さ、着替えなんて持って、随分用意がいいんだな。誰かが海に落ちたときのために持ち歩いてんの?」

と言って、緑の君は笑った。なんだ、笑えるんだ。

「まさか。旅行だよ。一人旅」

「へぇ。どこ泊まってんの?」

「あー、まだ決めてないけど」

「なら付いて来なよ。服貸してくれたお礼に割引してやる」

 そう言って歩き出す。

「ちょっと待って、何処へ行くの?」

「俺が働いてるペンション」

「高くない?」

「素泊まり四千円だけど、二千円になる」

「え、安っ」

「決まり」 

 もしかしたらとんでもないところに連れて行かれるんじゃないかとか、後ですごいぼったくられるんじゃないかとか考えなかったわけじゃない。でも、そうなったらそうなっただ。
 今回の旅は観光ではない。だからあまり計画せずに、流れに任せる気で宿も決めずに来たのだ。
 今の俺はちょっとぐらい大胆な事も出来る。
 海へ飛び込んだバカな奴を助けることだって出来る。

「なぁ、あの服はどうすんの?」

 裸足のまま林道に入っていく緑の君に訊ねる。服は脱ぎ捨てられたままの状態で岩にへばりついている。

「いらない。海の肥やしにでもなればいいんだ」

 海にゴミになるような物を放置していいのかと戸惑ったが、軽い足取りで歩く緑の君を見たら何も言えなかった。なんか楽しそうだから。

「肥やしじゃなくて藻屑じゃね。海の藻屑。肥やしは畑」

 俺の言葉は無視して、緑の君は歌いだす。

「LadyBird Ladybird

 Fly away home

 Your house is on fire

 And your children all gone

 All except one

 And little Ann

 For she has crept under the flying pan」

 

 てんとう虫 てんとう虫

 おうちへ飛んでいけ

 おまえのおうちが火事だよ

 こどもたちはみんな死んじゃった

 ひとりだけのぞいてね

 それは小さなアン

 アンはフライパンの下にかくれてるよ


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