【作業所に行くのを辞めた理由】

  私は脳性小児麻痺で手足言葉に障害があり、細かい作業はできません。極端な内股歩きで頭を揺らしながら歩きます。言葉は酔った人のように呂律が回らない喋り方です。
 障害の程度は二級です。障害の程度は一級が最も重く、二級は一級に次いで重い分類になります。一、二級は重度の分類です。
 私は小学四年生まで養護学校に在籍し、それ以降は地域の小中学校に通学しました。高校はミッション系の高校に進学し、大学は香川県の大学に行きました。
 これまで多くの方の援助で育って来ましたので、社会に出たらその方々への恩返しをしたく、大学は香川県の大学で社会福祉を学びました。
高校まで一度も一人暮らしの経験はありませんでしたが、大学に入り初めて一人暮らしを始めました。
 下宿先は大学から歩いて五分と言う立地条件で、しかも、当時としても珍しくなった賄い付きでした。しかし、賄い付きも大家さんの都合により、賄いは一年でなくなりました。元々賄い付きの下宿として設計された造りであったため、各部屋には流しが付いていません。共同の流しが一ヶ所あるだけでした。
私はそう言う環境であっても、子供の頃から料理を作るのが好きで、二年生から自炊を始めました。
 当時はネットのない時代です。自宅で取っていた食材宅配業者が配布されているレシピのうち、気に入ったレシピをスクラップノートに貼り、それを見ながら料理を作ってました。同じ下宿で自炊をしていたのは、私だけでした。
 自炊だけですが、他の人にはできないことをしてたという自負もあります。
そうした経験から、社会に出ても自立してやって行けるように思ってました。
 しかし、現実は、そんなに甘くはありません。
 社会福祉の道を選択しようとしても、介助や身体介助は、手脚に障害がある私には無理。では、ケースワーカーはと言うと、言語障害があるため無理と現場で働いている方から言われます。
 友人たちが社会福祉の道を進む中、私は一般就労さえもできません。
大学を卒業後、一年間身体障害者のコンピュータ専門学校に進み、プログラマーの勉強をしましたが、成績は思うように上がらず、プログラマーの道は途絶えてしまいました。
 コンピュータ専門学校を出て半年、母のコネで自動車部品組み立て会社に就職することができました。事務職で就職しましたが、零細企業であったため、事務は一日のうちの三十分で終わり、残りの時間は現場仕事。それでも、就職当初は、小物類が主でしたが、だんだんと大きい重い品物を扱うようになりました。
 私は脳性小児麻痺で腰椎が曲がっており、重いものを持つと、腰に負担が及び腰痛になってしまいました。私は腰痛になり、現場での仕事は無理になったと思い、この会社を辞めざるを得なくなりました。
 退職後は、腰痛の治療をしながら、新たな仕事を探しましたが、見つかりません。職安(現ハローワーク)に行っても、障害者雇用月間である九月に行われる障害者と企業の集団面接会に参加したら良いと言われるだけ。
 そして、参加してみると、脊髄損傷で脚に障害があって、車イスの方や松葉杖をついている方で、上半身や言語も障害がない方々ばかりでした。私のような手脚ついでに言葉にも障害がある人間は、私だけでした。
 私にできることはなんだろうと考えると、腰を痛めているため重労働は無理。事務職は文字は書けますが、健常者よりも遅く、字も汚く読みづらい字です。コンピュータの入力も健常者よりもはるかに遅いので、事務職は無理。では、接客業はと言えば、言語障害があるため、こちらもダメ。
 私には、適した仕事がないことが分かりました。一方、父からは「職安(現ハローワーク)に日参しなければいけないぞ」と散々言われ、私はそのプレッシャーからうつ病になってしまいました。
 1994年に都内の総合病院の精神科に通院し、翌年精神的に鍛える目的で、リハビリ施設に入所。その翌年から2019年11月まで、リハビリ施設に隣接するリハビリ病院の神経科に掛かってました。
 少し前後しますが、2015年、父が階段からあと三段と言うところで踏み外し、大腿骨骨折になってしまいました。手術そのものは、成功しました。父は先天性に心臓疾患があり、身体を少し動かすだけで、徐脈になってしまいます。リハビリの段階に入り、リハビリを始まりましたが、すぐに徐脈になってしまうため、思うようにリハビリは進まず、結局父は、車イス生活になり、家で看ることができず、施設に入所することになりました。
 お恥ずかしい話ですが、我が家には、父の施設の入居費や月額の費用を払うだけの余裕はありません。そのため、2016年にわが家を売却し、アパートに引っ越しました。
 アパートの家賃をはじめ、光熱費も母の通帳から引き落とされました。
2018年、私は急に腰から脚にかけ激痛が走り、どうしようもなくなり、自分で救急車を呼び、病院に行き、即入院し、その三ヶ月後退院になり、三十分程の歩行は可能となりました。
 私が退院してから、母は物忘れ外来に通院し始め、母の主治医から、訪問看護を受けるようにとの指示が出ました。訪問看護が週に一度訪れ、私も脚を痛めたこともあり、訪問リハビリが週に一度、入浴介助を週に二度受けることになりました。
 母は八十四歳ながら運転をし、アパートの駐車場には、我が家の車が停まっており、訪問看護師さんたちのために、もう一ヶ所月極駐車場を契約しました。そこの支払いも、母の口座からネットバンキングで引き落とされるようにしました。このネットバンキングが後々私を苦しめる結果になるとは、契約をするときには予想もしませんでした。
 2019年12月。私は、認知症の症状が出始めた母に苛立ちを覚え、薬を大量に服用し、市民病院に搬送され、一ヶ月後に精神病院に転院しました。同時に、母は母のケアマネジャーの勧めもあり、施設に入所。
 その三ヶ月後、私は退院し、母のいないアパートに戻り、一人暮らしを始めました。大学時代の一人暮らしは、なんら心配事はありませんでしたが、この時の一人暮らしは、心配事だらけでした。まず、三十分程度歩けていたものが、室内だけしか歩くことができません。「このような状態で一人暮らしかよ」と思われる方もいるでしょう。
 私の入院中、市のケースワーカーと私の相談員、その他の方々が話し合って、月曜日から日曜日までヘルパーさんが家事援助で、加えて週に二回入浴介助をしてくださることになりました。外出は、移動支援の事業所の方が入られ、月に通院と移動支援にそれぞれ十時間ずつ組み込まれました。これらは、身体障害者ですので、自己負担はありません。
 このように様々なサービスを受けているので、歩けなくても日常生活に支障をきたすことはありません。
 では、何が心配事かと言うと、母と同居しているときは、母がアパートの家賃や光熱費を支払っていたものが一人暮らしになり、それらの費用を全部自分で払わなくては行けなくなりました。
 私の収入は、障害者年金だけです。二月(ふたつき)に一度で二十万円弱。家賃は月に七万八千五百円。二ヶ月だと十五万七千円です。家賃を差し引いた四万円弱で他の光熱費を支払うのは無理。どうしても貯蓄を切り崩さなければならず、計算上二年程度で貯蓄も底をついてしまいます。そうなったら、生活保護を受ければ良いではないかと、言う意見もあるかとも思いますが、私は出来るのであれば、生活保護は受けたくありません。
 私は、家賃が安い県営住宅に応募することにしました。補欠当選でしたが、上位の方々が辞退したのか、繰り上げ当選になりました。しかし、2020年の十月、今度は空きがないと言う通知が届きました。
 その同じ月に、訪問看護師たちの駐車場の駐車料金について、銀行から「振り込まれてません」と言うメールが届きました。私は、母に電話をし、このようなメールが来たけど、なにかあったか訊きました。すると、「通帳をなくしたので、警察に紛失届けを出したけど」と。
 銀行に問い合わすと、「本人(母)が銀行にいらして手続きをしなければ、ネットバンキングを再開させることはできません」と。
 私は、それを聞き慌てました。月極駐車場の大家さんは、以前「まだ振り込まれていないけど、どうなっているんだ」とすごい剣幕で電話が掛かって来たことがあり、今回の件をどのように説明したら良いか、また、母が銀行に行かなければいけなくなり、どのように母に銀行に行ってもらうか等、私の頭の中はそれらで一杯になり、パニック状態になってしまい、十月なのに汗が沢山出、過呼吸も頻繁に起き、週に二度も緊急で訪問看護師さんを呼んでしまいました。
 私もそうですが、訪問看護師さんからも、「入院した方が良いのでは」と言うことで、2020年の十月、私は再び精神病院に入院しました。
 入院しても、月極駐車場の駐車料金のことが、気になって仕方がありません。私は私が大家さんに電話をしても、言葉が通じないと思い、病棟の看護師さんに事情を説明し、私の代わりに電話を掛けてもらいました。そして、大家さんも事情が分かって頂け、振り込みを少し延ばして頂けました。
 また、母の方ですが、母の身元引受人の方が、銀行の手続きをして頂けることになりました。
 私は、最も不安材料であった月極駐車場の件が一段落し安心し、「早く退院したい」と主治医に詰め寄りましたが、聞き入れられず、退院は年が明けた2021年の一月七日になりました。
 退院して十日が経った頃だと思います。県営住宅の事務所から書面と一つの鍵が送られてきました。四階の部屋の鍵で「四階など車イスでは無理ではないか」と思いながら、ネットでその棟のことを調べると、エレベーター付きになっており、どうして四階の部屋の鍵が届いたかが飲み込めました。
 そして、昨年の二月、私は、晴れて県営住宅に引っ越すことができました。家賃も、七万八千五百円から八千二百円になり、今まで不安材料であった経済的不安から、解放されました。
 ヘルパーさんも、月曜日から日曜日まで家事援助で入って頂け、また、火曜日と木曜日、日曜日入浴介助でも入って頂いています。
 唯一の不安は、歩けないことと、最近握力が落ち、箸やスプーンで食事をする際に食べにくくなってきたことです。
 ここで、改めて私の一週間の予定を書いてみたいと思います。月曜日家事援助でヘルパーさんと訪問看護師さん。火曜日は家事援助と入浴介助でヘルパーさん。水曜日ゴミの個別収集と家事援助でヘルパーさん。木曜日訪問リハビリ師さんと家事援助と入浴介助でヘルパーさん。金曜日はパルシステムが一週間分の食材を届けてくれます。そして、家事援助でヘルパーと夕方一時間鍼灸師さんがいらして鍼灸を行って頂いています。土曜日は家事援助でヘルパーさん。日曜日は家事援助と入浴介助でヘルパーさんです。
 毎日、誰かしら家に入って頂いています。私は、現状に満足しています。
 実は、今年の二月に相談員さんから、「ずっと、家にいるのも良くないし、何かしら相談できる人も多い方が良いので、作業所に行ってみませんか?」と言う提案がありました。
 私は、一体作業所に行って自分にできることがあるだろうか。あるとしても、ごく単純な作業になってしまうのではと思いながら、その作業所に見学に行きました。見学をし、分かったことは、私ができる作業はないと言うことでした。
 私は、即答で行くのを辞めようかとも思いましたが、文章を書く上で、また書く材料も見つかるかもしれないと思い直し、行くことにしました。
 四月二十一日。そこの所長さんと相談員さんが契約するので、いらっしゃりました。
 工賃の話が出て、「四ヶ月で千円です」と。また、「昼食に頼む仕出し弁当は、一食四百円です」と。それを聞き、工賃だけでは、昼食の弁当代も出ないのかと思ったり。お金を払ってまで、通所するだけの意義はあるのかなぁと思うようになり、通所するのに、抵抗感を抱き始めました。
 また、大学時代の友人たちは、独立して自分で精神障害者の相談員をやっている友人や、長年福祉事業の推進貢献したと言うことで表彰された友人もいます。
 学生時代、同じ釜の飯を食べていた者としてやるせない気持ちが沸いてきます。過去の思い出やプライドを捨てなければいけないんでしょうけど、そこまで我が身を捨ててまで行くべきところなのかとも思ったりしてます。そして、作業所に行かないと、決断し、作業所の所長さんと相談員さんにその旨の電話を入れました。
 この決断はわがままでしょうか。

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