記憶のない1年目

今から5年前の3月。私は絶望の淵にいた。

条件付き採用教員として採用された前年の10月。
その日から、正規採用ではなく条件付き採用教員となった私は、嬉しいような悲しいような感情で過ごしていた。

そんな毎日を過ごしていた3月下旬。とある自治体からの連絡を受けた。
ちょうどピストに乗ってサイクリングを楽しんでいた夕方ごろ、私の携帯が鳴った。
突然の自治体からの連絡を受けた私。しかも、私はメモ帳など持っていない。iPhoneをスピーカーにしてメモのアプリを出す方法などもあったが、この電話を逃したら私には採用がないと思い、そんなリスクは取れなかった。

結果的に私は、そばに落ちていた石で地面に書いた。
汚い字だけど、自分に分かる字で。
電話が終わった後、急いで写真を撮り、今覚えている全てのことをメモに書いた。
「やっと先生になれる」と思った瞬間だった。

当時私以外の家族が全員ヨーロッパに住んでいて、家族は私だけ。
早く家族を安心させたかった私は、ヨーロッパへメールを送った。
「採用された。面接があるけど、たぶん大丈夫だと思う」

数日後、私は気合を入れてとある自治体の教育委員会へと向かった。
座ると、横には教採を通じて友人となった仲間が。この人も同じ教科だ。
「なるほど、俺は彼と一つの席を争うのだな」と思った。

結果的に、私は敗れた。採用されなかった。

もう受かると思っていた、受かるよと家族にも報告してしまった。
でも本当は不合格。どうやって言えばいいんだろう俺は…と絶望の淵にいた。
それに、もう面接の電話は来ないだろう。たった一回のチャンスを逃した自分、もう将来はないだろうなと思っていた。

仕方なく、異国に住む家族にも
「ごめん、不採用と言われた」と伝えた。

私は、その時点で教員を諦めようと思っていた。
もう電話は来ない。奨学金という多額の借金を抱えた私は、すぐにでも働かなければならない。

様々な選択肢を考えた。
他の自治体での講師登録、今の自治体の産休育休代替教員の登録。児童館での勤務。
全てに手を出せるよう、全ての準備を行った。

それに加えて、もし次の面接のチャンスが来たときに絶対合格ができるよう、面接項目をもう一度考えた。なんで自分が不合格だったのか、徹底的に考えた。

そんな毎日を過ごしながら、ついに4月を迎えた。
連絡は来なかった。

4月のはじめも、私はアルバイトをしていた。
正規教員として働くことをイメージしていた私は、どん底だった。
「なんで俺バイトしてるんだろ」と。悲しくて仕方なかった。

そして4月9日、この日は友人とサイクリングを楽しんでいた。
すると信号を渡ったぐらいで、私の携帯電話が鳴った。

違う教育委員会からだ。

2回目のチャンスを私に知らせてくれた。

そして、結果的に私はそこの教育委員会に初任から4年間お世話になることになった。
面接も合格。その後一緒に苦労をしていくことになる同期と一緒に、学校へと向かった。

面接から2日後、私は着任式を迎えていた。
採用は4月13日。アルバイトをすぐにやめ、私は教員となった。



晴れて教員となった私、最初の学年は3年副担任であった。
教科は英語。
「教員になれた!」という達成感に溢れていたのを今でも覚えている。

しかし、職員室で与えられた椅子に座っても、一体何をしたらいいかが分からない。何もない机、パソコンを開いてもやることがない。
それでも周りの教員はいろんなことを始めている。なんか忙しそうにしている。
あまりの緊張感に、身体が硬直した。
「何かできることありますか?」の一言も私には出なかった。
他の先生が慌ただしくしているのを、ただ見ているだけだった。
私の壮絶な1年間は、ここから始まった。

私の当時の学年は、私以外の5人全員が主任以上の先生だった。
全員が上司だということ、全員頭の回転がすさまじく早い。
教えてもらおうと勇気を出して言葉をかけても、
「教える時間はないから、見て学べ」と言われた。

数日たってから、「君、この書類を120部印刷してきて」と横の先生から言われた。
嬉しかった私は、二つ返事で印刷室へと向かった。
しかし、私は印刷の方法が分からない。何をどうしたらいいか分からないまま突っ立っていると、頼んできた先生が来て、「君、何してんの?」と。

「印刷の方法が分からないんです」と答えると、
「聞けばいいじゃん。君、聞くこともできないんだね」と言われた。

その件から、私はさらに緊張するようになった。
身体が硬直して何もできない。
時間割の見方が分からず、自分の授業を忘れてしまうこともあった。

その度に叱られる。そして余計に身体が硬直する。
誰も私には教えてくれなかった。
そしてそのたびに怒られる。生徒の前とか関係なく、むちゃくちゃな指導をされた。

これがパワハラだと気づいたのは、数か月も後のことだった。

こんな使えない初任者の私を、学年団は優しく教えてくれるはずもない。
学年団は、私のことを「君」と呼んだ。職員室でも、生徒のいる教室でも。

加えて、当時の学年は荒れに荒れていた。
授業中にいきなり生卵を出して人に当てたり、廊下でケンカを始めて窓ガラスを割れ散らかしたり、窓から逃げて脱走する生徒がいたり。

昼休みが終わっても生徒達は延々と遊び続ける。その生徒達を教室まで戻すのは、私の役目だった。「君の仕事だよ」と、周りの教員から言われた。
走って行っても、生徒からはボールをぶつけられ、砂を投げられ、とても会話にならない。
生徒が戻ったころには私の授業はとっくに始まっていて、管理職や他学年の先生から「〇〇先生、授業には遅れちゃだめだよ」と言われた。理由も告げることができず、「はい。すいませんでした。」と毎日のように頭を下げ続けた。


こんな毎日が、一年間続いた。



だから私は、一年目にどんな授業をしたのか、どんな仕事をしたのか全く覚えていない。ただ毎日のパワハラを受け続けることしかできなかった。
ここには書ききれないほどのハラスメントがある。部活動のこと… 飲み会でのこと… でも、別にハラスメントを皆さんに紹介するためにこの記事を書いたわけではないので、ここでは割愛。



しかし、そんな私も「これではいけない」と思い、さまざまな手段を試した。いくつも失敗したけど、一つだけ成功した方法があった。これをきっかけに、私の生徒との関係は変わっていく。
ただ、これはここでは割愛する。もしご希望等あれば、ご連絡ください。



私は

「私の初任時代こんなに辛かったでしょ?だからあなたなんて軽い方だよ」

なんて言うつもりは一ミリもない。辛さなんて人それぞれだ、大小なんてない。みんな辛いんだ、初任なんて。辛くない人がいたら、それはおかしいか、よっぽど優秀かのどちらかだ。


ただ分かってほしいのは、あなただけじゃないってこと。

そして、子供に対して仕事をしてほしいってこと。

周りには多くの大人がいるけど、大人に対してする仕事ではない。

目の前の児童生徒のための仕事。大人のためじゃない。

我々が悩んでいる問題の答えは、全て子供が知っている。


目の前の子供たちと一緒に仕事をして、子供と一緒に成長してほしいと思います。

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