『 諦め 』と『 悟り 』
人生40数年も生きてると、自分がどんな人間かってことがわかりきっていて、いまさら何者にも変えられないし、もはや変わろうとする気力もないという『 諦め 』があります。(私だけ?)
でも、あるときこの『 諦め 』こそ、『 悟り 』なのでは?と思いました。
『 諦める 』を調べてみると、日本語では放棄、断念、などマイナスイメージで使われることが多いですが、漢和辞典で『 諦 』を調べると『つまびらかにする。いろいろ観察をまとめて、真相をはっきりさせる。』とありました。さらに仏教語ではsatya(サティア)の訳語として、真実、真理、悟りを意味する言葉らしいんです!
私の感じてたことと一致した〜!!
ということで『 諦める 』は『 明らか 』や『 真実 』に近い意味もあり、実際に日本語の『 諦める 』と『 明らか 』は言葉として同源ということらしいのです。物事の真実の姿やありさまを明らかにすることで、やっと諦められるというニュアンスです。
つまり
人は40年も生きていると、自分自身のことがある意味、『 明らか 』になってくる。そのため、いろいろなことが『 諦められる 』ようになり、そしてそのことが『 悟り 』になる。
もしかして孔子も『 諦め 』から四十不惑(人生に迷いがなくなった)と言ったのかも?
結論 =今日から『 諦めること 』はある意味『 悟り 』でもある!とポジティブに捉えてみることにする。
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