もんてすきゅっと㉒

 時刻は午後四時を回っていた。秋の四時は薄赤い。空を見上げれば、東の山の端は既に夕焼けを迎えている。爽やかな潮風を肌に感じながら、私たちは海沿いの歩道を歩いていた。相模湾の海岸線は歩道が広く確保されていて、散歩にはうってつけである。しかし――私たちは一体どこへ向かって歩いているのだろう。ただひたすらバカみたいに西に――鎌倉駅からは遠ざかって――歩いているが、一向に自分のしたいことが何なのか分からない。客観的に今の状況を分析すると、私たちは学校を無為にサボっているだけなのではないか。
「――ミレイ、次はどこへ行く?」ピカソの絵みたいな顔をしてサリが聞いてきた。「ここまっすぐ行くと確か――江ノ島だよね?」
「サリの目、鼻の下についているわよ……」
「は?」サリは頭の上についた鼻をかいていた。
「変な顔」
「なんだって! 君を七里ガ浜の海藻にしてやろうか!」
 と突如、パブロ・ディエゴ・サリ・サリ・ピカソが襲い掛かってきた。私は華麗な身のこなしでサリ・サリ・パブロの手から逃れた――はずだった。彼女の幻影魔手が実体の手よりも20センチメートルほど伸びて、私の腕を思い切り掴んだ。完全にキュビズムの悪魔である。彼女は髪の毛と足と腕を振り、周囲の遠近法を見事に狂わせ、水平線のかなたの消失点を消失させた。消失点の消失――まさにポストモダニズムよろしく、全てが内在平面に書きこまれていく事態を、ディエゴ・サリ・ホセ・サリ・パブロは呼び寄せたのだった。海の向こうに陸地があり、山が天井から伸びてきている。青い空はいつしか紫色に変色し、黄色と緑のグラデーションが私の腕を侵食する! 彼女はギョヘギョヘギョヘギョヘ――と笑った。高笑いはそのまま大きなサングラスへと変化して、人魚の髪の毛で出来た銀色の砂浜にそのまま着地した。――瞬間、髪の毛が宙を舞った。呼吸するたびに鼻の穴に人魚の髪が詰まる。セイレーンの歌声が、耳から聞こえてきた。私は――地球ともども難破した。サリ・パブロ・サリ・ギュウニク・ホセ・エロ魔人は再びギョヘギョヘと笑いながら私を持ち上げ、フライパンの上に乗せて焼いた。体の水分が次々と蒸発していく。――なるほど、今夜のおかずは岩のりのりらしい。特製タレに和えられた私はご飯粒にしっとりと絡み合い、白米の光沢を更に際立たせた。湯気が立ちのぼり、平和な家庭の食卓を優しく包み込む。
「いただきまーす!」少年は言った。箸を、イエス・キリストの横腹を突き刺すように茶碗にぶっ刺した。そのまま私は四散した。いったい私の物語はどうなってしまうのか。この不条理さは――打ち切りの兆候なのではないか。作者のやる気はどこへ――
「私に、私にハイオクガソリンを給油してくれエエエ!」
「いや、なにこれ、田中さん」サリは田中さんの背中から印刷されて出てきた原稿を読みながら言った。「私の名前どうなってんの? 牛肉エロ魔人?」
「思えば、少年を出したときから方向性を間違えてた気がする……」田中さんはタイプライターの手を止めて思案した。おでこに拳を当てて――いわゆる文豪ポーズ。イメージは志賀直哉か。口にはマンホールのふたが挟まっている。
「もっと前から間違えてるでしょ……」サリはスケジュール帳に原稿を挟んだ。
「ねえ」私は二人に呼びかけた。
「ん?」二人は私を見る。
「私たち、何のために旅をしているのかしら……」
 ……

 ザパーン。ブゥゥゥゥゥゥゥゥゥン。ピヨピヨ。ホー、ホー、ホー、ホー。キャハッ、デサ、エンドウガサア――。チリン、チリン。

 ――チリン。

「君が言う!?」素が出た。
「圭子だよ」田中さんはタイプライターを靴下の中にしまいながら言った。「圭子を探す旅だよ!」
「圭子――その名前、なんか二か月ぶりくらいに聞いた気がするわ……」
「二か月って。圭子に出会ったの昨日だよ」サリが至極まっとうなことを言った。どうやら私たちの間には違う時間が流れているらしい。
「でさ――」彼女は続けた。「提案があるんだけど。このままいくと江ノ島じゃん。でも多分着くころには夜になっちゃうんじゃないかと思うんだよね」
「ふむ」
「だから、今夜はここで一泊しない? ほらあれ」
 サリは海岸線を指さした。気づけば、先ほどよりも辺りは暗くなっていて、砂浜に柔らかい光がぼうっと浮き上がっていた。なんだろうあれは――テント? 砂浜にテント張ってんの? 日よけってわけでもなさそうだし――なによあれは。
「あれは――グランピングっていうんだよ! 今ね、インスタで流行ってるんだ! グラマラスなキャンピングでグランピング。私も夢だったんだよね――お金あるし、やろうよ!」
「……なるほど」
「よし! そうと決まれば、今手続きしてくるね!」そう言うと、サリは早足でどこかへ駆け出していった。私は田中さんと二人、取り残された。
「グランピングっておいしいのかなあ――」田中さんはぼそりと呟いた。

 ――なるほど。調べてみるとグランピングは最近できたというわけではないらしい。起源は19世紀にまで遡る。要約するとこうだ。世は産業革命後、工業の発展を目指して列強各国――主に欧州諸国――が世界中に植民地を広げていた。そんななか、入植者は「植民地でも贅沢な暮らしがしたい!」と思い始めたのだ。
「じゃあ、植民地にもグラマラスな宮殿を立てればいいじゃないか!」――かくして入植者は各々インテリアや洋服、家具などを植民地に持ち込んで贅沢に暮らしたというわけである。なんだこれは。素晴らしいじゃないか! なるほど、己を侵略者として百二十パーセント楽しむというわけか! ひひひひひ。――そして現代では、その名残か、「自然の中に都会の快適空間をいかに持ち込むか?」というコンセプトの下、海岸や山の中や様々な大自然の中に大きなテントを立てて、迫りくる自然の脅威を肴にしながら――化学調味料バリッバリのオーガニックな天然食材のバーベキューを、最高のシェフ(彼は月に三万円モンスターストライクに課金していた)と共に享受する営みだっていうわけ! いいわね、これは楽しみだわ。サリよ、早く帰ってきたまえ。そして――私に提督気分を味わわせろ!
「お待たせ――!」きたか、下僕め。
「ふっ――サリよ。私に言うことがあるんじゃないの?」
「えっ? いや、予約取ってきたけど……」
「おかえりなさいませご主人様?」田中さんが言った。「サリちゃん、ミレイちゃんはメイドカフェがしたいみたいだよ」
「え……ミレイ、そうだったの……」サリはドン引きしていた。
「違うわよ! 私を提督気分にしろっての!」
「そっか、艦隊これくしょんが趣味なんだね。なんだっけ、金剛?」
「金剛ちゃんかわいいよね~!」田中さんが食いついてきた。ちなみに田中さんは美少女である。「金剛のコスプレグッズ、確かここら辺に……」
 そう言って、田中さんはワンピースに手を突っ込んで、脇の下を探り始めた。その下から出てきたのはなんと巫女服のような――どうやらあれが「金剛ちゃん」の普段着らしい。
「あっ、でも金剛ちゃんの下着がなかった……」ガチコスか。
「――って田中さん! そんなところで着替えようとしないで! ほら、グランピングの会場に行くよ!」
「会場か――ふふふふ、ようやく私の提督人生が始まるのね。数多の先住民たちを慣らして、うふふ、どうしてくれようかしら……」
 すっかり夜も深まって、水平線のそばに一番星が輝いていた。上を見上げると、月が煌々と燃えている。あと数日で満月と言ったところか。その周りには薄い雲が光を浴びて、輪郭を際立たせている。素朴な立体感に私は見惚れた。あの雲を掴んで口に入れたい――きっとすごく甘ったるいに違いない。歩道から伸びる階段を下りて、私たちは砂浜に降り立った。一歩踏むたびに、靴の中に砂が溜まっていく感触を覚えた。なるほどここに、真っ赤な絨毯を敷くのがグランピングなのだ――と独りごちた。

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