もんてすキュッと!⑳

 ――私はドアをノックした。
「ごめんなさい! うちのサリが迷惑なことを言ったみたいで」
「え!?」サリが突然驚いたような声を上げた。「待って? 今これ場面どこから始まってる?」
 ――ウヴォエ! ゲロベチャァ愚ジョォ?
「は?」
 三十羽の鶏の首が一気に絞められたような音を背後に感じて急いで振り向くと、田中さんが何かを口から吐き出しているところだった。無数のボタンの飛び出た――恐らくタイプライターだろう。彼女は大きく口を開けて、ゆっくりとタイプライターを取りだそうとしていた。ミチチ――と音を立てながら、ゆっくりと全体像が顕わになる。私は目を背けてスマートフォンを見た。午後一時。太陽は西の方角に少しだけ傾き始めていた。
 しばらくして、田中さんはタイプライターを吐き終えていた。店主はまだでてこない。もしかして、今日はやっていないのか? いや、ノックがダメだったのかもしれない。サリに頭突きでもさせようか。学者の頭は固いって有名だしね。――と、田中さんはタイプライターに紙を差し込み、指を鳴らし始めた。なんだろう――と聞く前に、サリが田中さんに話しかけた。
「ね、ねえ、何やってるの?」
「待ってね、サリちゃん。今、集中してるから」
 田中さんはそう言って、キーボードを押し始める。彼女のタイプははっきり言って速かった。そういえば以前、彼女がタイプライター検定三級をとったと自慢していたのを思い出した。私は悔しかった。三.一二五級だったからだ。試験で先生に「ミレイさんタイプは上手だけど、性格が気に入らない」と言われて、余計に〇.一二五級加算されたのだった。性格が気に入らないですって? 大天使ミレイちゃんの性格が? 今まで、人に優しいことしかしてこなかったのに!
「ふざけんなあ!」私は田中さんの頭を殴ろうとした。しかし、田中さんの頭の表面は納豆でねばねばだった。私は手を滑らせた。そのまま、階段の下へと転げ落ち、思いっきり背中を打った。
「ミレイ、大丈夫?」
 上からサリの声が聞こえた。私は大丈夫よと返事して立ち上がる。と、門の裏にレモンの木が生えていた。見上げると、私の頭のすぐ上にレモンの実がなっている。私はそれを捥いだ。
「へっへっへ、これを腕にたくさん絞ったら納豆頭にも滑ることはあるまい」
 私は皮を向き、中から大きな果肉を取り出すと、それを思いっきり手で握りつぶした。しかし、勢いよく潰し過ぎたのか、果汁が四方八方に炸裂する。そのしぶきの一つが、私の右目にクリーンヒットした。瞬間、目の粘膜の隙間に針が刺さるような痛みを感じてその場に転んだ。
「痛い、痛すぎる、なにこれええええ!」
 しかしどんなに叫んでも、今度は誰も声をかけてこない。私はひたすら目を押さえ、涙を流して呻いた。痛い、痛すぎる。酸性が強い。何たる殺人兵器! こんなのを人間相手に使おうなんて間違っている。私は涙を流しながら、スマートフォンの中のマニフェストに「レモン爆弾禁止」という条文を加えた。
 私はしばらく泣いていた。こんなに泣いたのは久々だった。前に泣いたのは確か、選挙演説で野々村議員の真似をしたときだったか。あんときも目が痛かった。刺激の強すぎる目薬を差して、涙が止まらなくなっていたのだ。痛みが引いてくると、私は再び階段を上った。田中さんは相変わらずタイプライターを打ちこんでいる。サリは――いない。まあ、いつものことだ。私はその場に座って、田中さんの原稿を読み始めた。
 ――時は西暦五四九六三二年。人類はカラスに喰われて滅びた。ついでにカラスも食中毒で滅びた。人類とカラスの死体の山は日に日に腐り、生ごみへと変化した。ある日、成層圏で生活していた核爆プランクトンが財布を忘れて駅まで出かけたとき、彼は突如悟った。「俺は過去に人類を二度滅ぼしたのだ」。すると彼はいてもたってもいられなくなり、地上に降りたって、人間やカラスの死屍累々を眼差した。途端に、自分の及ぼした災禍がまざまざと思い出された。彼は罪悪感に苛まれ、謝ろうとした。しかし――生者はもはやいなかった。代わりにあったのは、腕や尻などの生ごみだけ。彼は仕方なく、生ごみ尻を丘の上に並べて土下座した。彼の言葉はそのまま核爆プランクトン代表の言葉になった。空に青緑色の花火が上がり、天から無数の放射性物質が降り注いだ。その一つが、生ごみ尻の肛門に刺さる。生ごみ尻は受肉した。尻の二つの頂点がゆっくりと割れ、中から目玉が生えてきた。白と黒の――人間のような眼。もちろん、肛門は口になった。受肉した生ごみ尻は歩けるようになると、並べられていた他の生ごみ尻にも次々と接吻した。接吻を受けた生ごみ尻は受肉した。太陽が昇ると、みながその方向を向いた。遠くに海がザザーンと波音を立てているのが聞こえる。生ごみ尻は一斉に羽ばたいた。当然、尻は翼だ。流体力学の観点から、尻が翼になるのは必定なのだ。尻が翼なのだ。やがて、海は生ごみ尻で埋め尽くされ、第二の人類が地球を支配するようになった。そこの国の長の娘が、ミレイだったのだ。――って、え? 待って?
「田中さん、ミレイって、私?」私は聞いた。彼女は黙々と原稿を書き続けている。「ちょっと聞いてるの!?」
 田中さんの肩を掴もうとしたが、しかしやはり彼女の肩は納豆のねばねばに覆い尽くされていた。私は手が滑った。その拍子に、地面に勢いよく頭を打った。瞬間、私は悟った。「私、もしかしてみんなに酷いことをしている?」。すると、いてもたってもいられなくなって、私はもう一回ドアを叩いた。「ごめんなさい、私が何か失礼を言ったみたいで!」
「そうだよ」ドアが開くと同時に、サリが中から出てきて言った。「ようやく正しいことを言ったね」
「どういうこと?」
「あらあら、サリちゃんのお友達かしら?」と、お店の奥から声が聞こえた。おばさんの声だ。
「違います!」私は叫んだ。
「うふふ、噂通りの子ね。さ、入って入って!」おばさんは玄関にやってきて、私を店の中へと促した。サリはニコニコしている。どうしたんだ、マジで。
「サリ、ここの人と知り合い?」気持ち悪いので、なんか話題をぶつけてみた。
「違うよ」サリはニコニコしたまま首を振った。「ミレイたちが何かうだうだやってる間に仲良くなったんだよ。おばさんが、さっきから玄関にブタと百倍スケールの植物プランクトンがいるって心配してたから説明してただけ」
「えっ待ちなさいよ、植物プランクトンってどっち?」
「秘密だよ!」サリはなおもニコニコしていた。クッソ、マニフェストになかったら今頃顔中レモンだらけにしてやるのに。
「どうぞ、こちらに座って」おばさんは、縁側の席をさして言った。
 店内は、一言でいえば〈アット・ホーム〉って感じだった。和室で、畳の匂いが充満した部屋で、居心地がよさそうだ。レイアウトも、木製だったり折り畳み式だったりと、統一感のないテーブルがバラバラに点在していて、窮屈さを一切感じさせない作りになっている。なんといっても、テーブルのそばに置いてある座布団。多分これ、手作りだ。縫い目が若干見える感じの。それが何ともたまらないフカフカ感で、端的に言えば祖母の家に一生帰りたくなくなった。
「なんか、おばあちゃん家みたいだなあ」幸せ家族出身のサリが差別発言をした。私はサリの尻を蹴り飛ばす。彼女は「確かに――」と言っただけだった。
「てか、今時こういう場所なんかあるのね……」私は言いながら、縁側に腰を掛けた。座った瞬間、お尻がふわりと包まれたような感覚があった。
「そうだよね、横浜にはないかなあ」
「あらあら、あなたたち横浜から来たの?」おばさんが水を持ってきた。「大変でしょう。あそこ、いちいち表記をローマ字にしなきゃいけないから」
 そういうと、おばさんは青い座布団をひとつひっくり返した。そこには、赤字で大きくYOKOHAMAと刺繍されていた。カタカタカタカタ――外では田中さんが、原稿を書いていた。

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