『誰かいて、誰もいない』 #2000字のホラー

 叫び声で目が覚めた。
 時計を見ると深夜の四時。冬のこの時間は、まだ暗い。僕の家は、築半世紀ほどの狭小住宅が密集する一画にある。住人らの高齢化も進み、徐々に空き家も増えている。その血管のように細く入り組んだ通りに、甲高い叫びがまた響く。
「助けてえ! 助けてよお!」
 訛りを含んだ叫び声の主は、道を挟んだ向かいに住むSさんだ。彼女は、たしかもう八十歳をこしていたはず。息子さんは二十年ほど前に家を出て音信不通だという。その後すぐ旦那さんに先立たれ、以来ずっとひとり暮らしだ。数年前に足を骨折したのがきっかけで認知症を発症し、それも今はだいぶ進行している。
 僕は寝巻にコートを羽織ると外へ出た。すぐにサンダル履きだったことを後悔する。足の指があっという間にかじかむ。近隣の家にいくつか明かりが灯るものの、誰も出てくる様子はない。
 Sさんは家の前の冷たい路地にうずくまっていた。分厚いどてらを着ているが、裸足だった。
「どうしたの? 大丈夫?」 
 白い息を吐きながら話しかける。
「助けて、Aちゃん助けてよ」
 Sさんは僕のことをAちゃんと呼ぶ。僕は両親と幼くして死別し、今の家で母方の祖父母に育てられた。そんな幼い僕の子守を、Sさんはよくしてくれたのだ。祖父母も今はもういない。僕もSさんと同じ、ひとりである。
「ここは寒いからさ、家に入ろう」
「だめだめ、家にいるんだよ」
 見ると玄関の戸は開けっぱなしになっていた。そこから明かりが漏れ出ている。
「誰かが二階にいてよ、おれもう怖くってよお」
 震えながら言う。
 おそらく、就寝中に誰かの気配を感じ、恐怖で外に飛び出したのだろう。靴もはかずに。しかしいつまでもこうしてはいられない。放っておいたらまた警察に通報されるかも知れない。
「わかった、僕が確かめるから、いったん中に戻ろう」
 僕は怯える彼女をおんぶした。汗とおしっこのすえた匂いが背中ごしに漂ってくる。
 家に上がってすぐの居間に、布団が敷きっぱなしになっている。彼女をそこに座らせる。足の裏が汚れているが、今さらだ。暖房は床のホットカーペットだけ。エアコンはあるが、リモコンをなくしてしまうから使えない。
 隣室につながる襖が開いており、暗がりの中に仏壇が見えた。そこに亡くなった旦那さんの遺影が飾られていた。
「じゃ、見てくるよ」
 そう言って、僕は二階に向かった。
 手すりを頼りに、角度の急な階段を上る。何度も家には来ているが、二階に上がるのは、久しぶりだった。子どもの頃は彼女の息子さんに、よく遊んでもらったものだ。それ以来だろうか。そういえば息子さんは、勘当され出て行ったのだと聞いている。Sさんのこんな状態を知ったら、どう思うだろう。
 ところどころ沈む床板に気をつけながら、廊下を手探りで進み、部屋の電灯を点ける。以前は寝室にしていたのか、ベッドが部屋の真ん中に置かれ、その周囲に脱いだ衣服がそのままになっている。もちろん誰もいない。
 次はその隣の部屋だ。磨りガラスの戸を開けると、物置のようだった。カバーのかかった姿見や時代物のミシンなどが雑然と置かれ、その隙間を埋めるように家電の空き箱やクッキーの缶が積まれている。部屋の奥の壁をふさぐように、大きな衣装ダンスがあった。それらをしばらく眺めていたが、特になんの気配もない。僕は電気を消して階下に戻った。
「誰もいなかったよ」
「ほんとに? でもさ、いたんだよ」
 Sさんは、やはり納得のいかないようだった。
 実を言うと、こんなことは、はじめてではない。警察沙汰になったこともある。今では近所の人も、僕に世話を任せて無視を決めこんでいる。だけど、親族でもない僕にはこれ以上なにもできない。

 その数日後、向かいの家の明かりが消えた。Sさんの遠い親戚が聞きつけたらしく、彼女を介護施設に入所させたのだ。僕は胸をなで下ろした。
 だが空き家になった隣家を見ていて思い出したことがある。昔の記憶で曖昧なのだが、二階には、たしかもうひとつ、子ども部屋があったはずなのだ。息子さんと遊んだ部屋が。

 ほどなくして、Sさんの家は取り壊された。
 やはり僕の記憶は正しかったようだ。
 物置の間の奥には、もうひとつ部屋があったのだ。
 それだけではない。
 その部屋で、死後十年以上経過したと思しき白骨化した遺体が見つかった。それは家を出たはずの息子さんのものだった。
 つまり彼はどこにも行っていなかったのだ。ずっとあそこに引きこもっていたのか、それとも閉じこめられていたのかはわからない。近所の誰も、僕でさえ、彼の存在にはまるで気づかなかった。当のSさんも、その抱えた秘密を、すっかり忘れてしまっている。たとえ階上に誰かの気配を感じることはあっても、それがなにかは思い出せないのだ。
 今後、警察の聴取があったとして、彼女の記憶が戻ることはないだろう。
 だからあの家で、なにがあったのかは、もう誰にもわからない。
 これからも、ずっと。

 了

#2000字のホラー

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