布ナプキンを使ったら、ありのままの自分を受け入れられるようになった話
「自分には絶対無理」
これは、私が布ナプキンについてはじめて知った時の反応。
使い捨てできる便利なものがあるのに、わざわざ洗う手間のかかる布製を選ぼうと思わなかったし、なにより、経血を手で洗い落すなんてやりたくない。
布ナプキンに対してこんな第一印象を持っていた私だけど、今では愛用して5年が経つ。
生理とか性とか、デリケートな話、どこまで正直に書いていいか分からないけれど、布ナプキンを使うことで、自分に対して否定ばかりしていた私が、ありのままの自分を受け入れられるようになった話を書いてみようと思う。
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布ナプキンを使い始めたのは30代半ば、航空会社を退職して、自宅で過ごすことが増えてからだった。
仕事を辞めてしがらみは消え去り、いよいよ自分らしく生きることを始めようと意気込んでいたのだけれど、しばらくして謎の焦燥感にかられ始めた。
当時、就職、結婚、海外移住など学生の頃から夢見ていたことを一つずつ叶えていたにもかかわらず、「大人になった頃にはこうなっているであろう」という理想の姿と今の自分が大きくかけ離れている気がして、『やりたいことを見つけたい!』とか、『自分の使命って何だろう?』といったことばかりを考えていた。
「ありのままの自分」「自分を大事にしよう」「自分らしく生きよう」
耳心地の良かったこうしたワードにもプレッシャーを感じながら、お茶を淹れてリビングとトイレを往復してまたお茶を淹れる、そんな日々。
心はこんな感じの中、1ヶ月のうち1週間は生理による体調不良もあり、心も身体も元気がなかった。
そんな時、10年以上布ナプキンを使っている妹からおすすめされて、布ナプキンを使ってみることにした。
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ふんわりとした弾力がある、厚手のタオルハンカチに似た感触。
はじめて使う布製のナプキンは、肌当たりがすごく優しかった。少し厚みがあるので支えられている感じもあって安心した。
「気持ちいいかも」
しばらくして、トイレに戻ると経血がちょこんと布に染みていた。
「なーんだ、なんてことない」
その日は布ナプキンを持って風呂場に入った。
血液はお湯で洗うと固まって落ちにくくなるらしいので、冷たい水にナプキンをさらしてみる。
薄い赤色の水がさらさらと排水溝へと流れていく。
実験をしているみたいでおもしろくなってくる。
まだ時間が経っていなくて経血が固まっていないから、布に染みた赤色はみるみる消えていった。石鹸を軽くつけて、そのまま手洗いして、固く絞った。
最初は紙ナプキンと布ナプキンを併用していたけれど、使い始めて半年後には布ナプキンだけ使うようになった。それとともに、経血量が少なくなったことに気づいた。1日で使用する枚数がぐんと減ったのだ。
これまで自分の経血の量なんて気にしたことがなかったので、みんなはどのくらいの量なんだろう?という好奇心が湧く。
『 経血量 どのくらい? 』そうスマホで検索してみると、20ml~140mlと書かれてある。
想像よりかなり少なかったので、1日の量が20ml~140mlかと勘違いした。よく読むと月経1回の総量を示した数字のようだ。
量に個人差があるということもこの時初めて知った。
アラフォーの私、年齢によっても経血量は変わるのかもしれないと思い、再び検索してみる。
『 経血量 年齢で変化 』とスマホに打ち込むと、思った通り、年齢と経血量を示すグラフは波打っていた。
女性の身体には常に変化が起こっている。
月単位で言えば月経だけど、妊娠・出産、更年期にも大きな変化があると聞く。あまりに一定ではないので、全ての変化に一つ一つ原因を突き止めようとしたらきりがない。
私自身も『ホルモンバランスの乱れ』その一言ですべてを片づけ、自分の身体に向き合うことをしてこなかった。
布ナプキンを使うようになってからは、自分の生理に目を向けるようになり、経血量の変化の他に、デリケートゾーンのかぶれがなくなったことに気づいた。
実を言うと、かぶれなくなって初めてこれまでかぶれていたことを知った。そのくらい自分の身体に関心を持てていなかった。
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布ナプキンを使い始めて1年が過ぎた頃、洗面所の整理をしていたら奥の方からサンドイッチの茶色い紙袋が出てきた。
私はサンドイッチを買った時にもらえる紙袋をゴミ袋にしていた。布ナプキンを使い始めてからは使うことがなくなっていたので、すっかり忘れていた。
この先使うことはないかなと思い、ゴミ袋を集めようと手を伸ばしたその時、私は無意識に息を止めている自分に気づいた。
生理が終わった後、袋の口をしっかり閉じ直す時にいつも息を止めていたから、習慣で息を止めてしまったのだ。
「これはただの紙袋なのに」と自分にツッコミを入れた瞬間、生理が終わった後、毎回顔をゆがめてゴミ袋を片づけていた自分を思い出し、思いがけない言葉が頭をよぎった。
『私は、女であることを嫌悪している?』
嫌悪…、否定したい気持ち?それ以上自分の気持ちを言葉にすることができない。ごちゃごちゃになった思考をほどくため、少し巻き戻って考えてみた。
私は、毎月生理が終わるたびに、息を止め、『汚いなぁ』と思いながらゴミ袋を片づけていた。もし、「ゴミが汚い=ゴミを出す私が汚い」と思い込んでいたとしたら?
さすがにそれはないよなぁと思いつつも、すぐに2つのエピソードを思い出した。どちらも子どもの頃の記憶だった。
一つ目は、私が小学生の時、『 生まれた時の話を親にインタビューしてみよう』という宿題が出た時のことだった。
宿題の紙を広げ、ペンを片手に私は「赤ちゃん産むとき痛かった?」 と母に質問した。
母は、「痛かったよ。夜中に産まれそうになって、お母さんは宮島にいたからおじいちゃんに船を出してもらって、病院にいったんよ」と答えた。
母の故郷、宮島は本島からフェリーで10分のところにある。島全体がひとつの大きな花崗岩で形成されていて、山の峰を平行に結ぶ神秘的な姿は、昔から自然崇拝の信仰となっている。
「へー、夜中に船で? どうして宮島で産まんかったん? 」
「宮島では赤ちゃんを産めんのよ。神様の島だから出産しちゃダメなんよ。島にはお墓もないけぇね」
母の話を聞いて、私は不思議に思った。
神様の島であることが、出産ができないことやお墓がないこととどう関係するんだろう?
その理由を知ることになったのは、中学生になってからだった。
宮島に住む祖母から、女人禁制という昔の風習を教えてもらった。月経・出産に伴う出血は穢れとみなされるという理由で、女性が立ち入れない場所があるという話だった。
『女の人ってそういう位置づけなんだ』と私は思った。
昔の話であることは十分理解していたけれど、神様から差別された気がしてがっかりしたことを覚えている。
二つ目は、父方の祖母の価値観を知った時のこと。
父が長男のため、跡継ぎが欲しかった祖母は、男の子の孫を強く望んでいた。私は三姉妹の長女だ。
親戚で集まった時や、近所のおばさんとの井戸端会議。「あそこは男が生まれた」とか、「誰誰さん家は長男が戻ってきたらしい」などと大人たちが話しているのを聞いて、色々理解した。
だから、「婿をとるんよ」と、祖母に言われた時は毎回、心の中では『ごめん、おばあちゃん、約束はできない』と思いながら、「うん、そうするね」と答えていた。そう答えないと祖母が悲しい思いをすると分かっていた。
こうした昔の風習や価値観を見聞きし、私は、「女の人って血を出すから神様に失礼なんだ」とか、「跡継ぎに男が選ばれるのは、男の方が偉いから?」など、勘違いを積み重ねていたのかもしれない。
女であることに劣等感を持っているなんて思いもよらなかったけれど、子どもの頃の記憶をたどると、思い当たる節が他にもたくさんあった。
スーパーでナプキンを買おうとしたら、同級生の男の子がいてレジに持って行けずに買うのを諦めたこと
水泳の時間に休むと、自分は今生理中ですと宣言しているようで気が気でなかったこと
学校帰りに駅で急激な生理痛に襲われ、大勢のギャラリーが見守る中、救急車で運ばれ恥ずかしかったこと
こうしたことを振り返りながら、私は女という性を否定したい気持ちがあったり、時に嫌悪感を感じていたことをはっきりと自覚した。
10代の頃の生理の思い出と、年齢を重ねても自分の身体を大事することに関心が持てないことは関係していると思う。
女の人は汚くて弱い存在というラベルをつけたまま大人になり、自らを弱いもの扱いしていたら、自分という存在を大事にできないと想像できるからだ。
このことに気づいてから、私は自分に対してもう少し優しくなろうと決意した。具体的には、子ども時代に感じたことの一つ一つに対して優しい眼差しを向け、良い悪いとジャッジせず、ただただ「あの時本当は悲しかったんだね」とか、「嫌な気持ちになったんだね」と共感を示すようにしてみた。
そうすると徐々に、自分のことをありのまま受け入れることができるようになった。
それは、自分自身の根っこを見直し、本来の私のままで生きていいと自分に許可を出すことになっていった。
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布ナプキンと言えば、繰り返し使えることや、肌にやさしい点が注目されるけれど、私自身は、変化球の体感を得た。
布ナプキンを手洗いし、繰り返し使っていると、生理をゴミと認識することがなくなり、そのことがアイデンティティの根本ともなる性を見つめるきっかけになった。
時代はどんどん進んでいく一方、昔の風習や価値観も根強く残って交錯している。だから、子どもの頃に感じたことが大人になった時、自分らしく生きるための邪魔になってしまうことは少なくない。
過去を振り返って、悲しかったこと、苦しかったことをわざわざ思い出すことはないのかもしれない。
けれど、大人になった今、小さな頃に感じた気持ちに寄り添い、良い悪いとジャッジせずにただただ優しい眼差しを向ける。そして、一つ一つ手放していく。それが、自分を大事にすることなのだと布ナプキンは教えてくれた。
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