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捨てるための日記_25「本人確認の本人とは」

ここ最近の行政のデジタル化推進の流れは、基本的に止められないと思っている。ただ、みんなが想像していた「デジタル化したらもっと便利になるんだろうなあ」というのとは違う方向で「前より不便なんですけど!」というのは実際出ていると思う。

私の記憶では、東日本大震災で紙ベースの色々な行政文書やら医療カルテやらが失われて、ご遺体の歯の照合するのにも難儀していた経験などから、バックアップも容易にとれるデジタルアーカイブ化を進めるという流れがあったように記憶している。

それらが今ようやく、マイナンバーという紐づけも含めてシステムとして運用できるところまできました! と満を持してやってみたら、思ったほどよくないね、前のほうがよかったねとなるのは、やってみないとわからない典型のような気がする。
なんせ技術の進歩は速いし、あまりかっちり作りこみすぎると後で拡張したいときに困るだろうし、100年単位でそのまま保つ紙と違ってデジタルデータは今後何度も移行を余儀なくされるだろうし……まあお役所仕事というのは動き始めたら進むしかないので、このまま突っ切るんだろうけど。

それはさておき、住民データの紐づけであるマイナンバーに合わせて、健康保険証も運転免許証もデジタルで紐付けしたら便利じゃね? と行政のトップである内閣が思いつくのはいいんだけど、引越しを繰り返している身とすれば「本人確認」で簡単に詰みそうな未来しか見えない。
今だって市町村役場で住所変更をするときは本人確認に運転免許証を使う。運転免許証がない場合は健康保険証を使う。
逆に、運転免許証の住所を変更するときには市町村が発行した住民票を使う。

個人を「その人そのもの」として保証してくれる機関が2つ存在するということは、1つがダメになってももう1つの機関が何とか保証してくれるということでもある。

例えば、運転免許証がなくて(自動車を運転できなくて)、国民健康保険をマイナンバーカードと一体化させていたとして、マイナンバーカードを紛失あるいは盗難された場合、本人確認はどうやるんだろう?
(今のところ事前にパスポートを作っておくという手段しか思いつかない)
さらにいうならその状態で事故にあって記憶を失っていたら? 身内も誰一人いなかったら?

現代社会は記号の紐づけによってしか「個人がその人そのもの」である客観性を保証するシステムがない。死んだときだけ他人(主に肉親)がその人がその人であることを確認・保証する。*(1)

生きているあいだは、リアルな人間同士の付き合いですら「その人がその人である」ことを証明する手立てにならない。なんせ凝った詐欺なんかは小芝居を打って騙ってくる。

進学にも就職にも、ライフイベントと言われる様々な場面で本人確認はされるけれど、こうやって考えると現代の身分証明は意外と脆いんじゃないかとふと感じる。現代の便利な生活も、自分の過去も全部捨てて、島とか山でひとりで生活できる人間がもしいたら、きっと本人確認なんか必要ない。
他者との関係のなかでしか本人確認する必要がなく、わたしがわたしという実在であることは本人にとって自明だけど、それを保証するのは私自身ではなく主に行政だ。
こういう状態のことを哲学用語で「疎外」という。人間が疎外の状態になるこれらのシステムは今に始まったことではないけれど、たぶん今では疎外を克服しようなんていうひとはいなくて、これからもただシステムだけが動いていくんだろうと思う。記号同士が紐づいているだけで、人間はずっと記号に支配されていて、実体は取り残されている。

*(1) ちなみに行旅死亡人は年間600~700人くらいらしい

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