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4社目 mixi

ロイヤリティービジネスを世界的に広めていく手法として、SNSにとても興味を持っていた頃だ。SNSの壮大な可能性に惹かれて、流通をつくりたいと思って語っていたら、mixiから一緒にやろう!と誘ってもらった。mixiイベントをプロマネしてたり、元々同僚だった人もいたので、ゆるゆるな働き方に慣れてしまった僕には辛そうと正直思ったが、良い機会かなと参画した。

社会人リハビリが必要だと感じてた中、入った矢先に、やりたいことと違うミッションが待っていた。その頃のmixiは広告収益がほとんどで、PCTeamとモバイルTeamに分かれてしのぎを削っていたんだけだ、超絶仲が悪いという状況で、そこをうまくコントロールして立て直して欲しいというオファーだった。
当時、最先端インターネット広告を突き詰めていたmixiに、かなりアナログな広告を触っていた自分が知識レベルを合わせるだけでもしんどかった上に、組織の上に横から入り雰囲気を出しながら調和をさせていくことはハードシングスだった。mixiは広告在庫を100%極限まで販売することが目標になっていて、上場していることもあり目標必達が命題でもあった。
かなり緻密な仕事を強いられて、怠けた環境からのギャップが半端なかった。

大手D、大手Hグループ、大手CAなどを商流を拡大させつつ、それぞれがエクスクルーシブで売れる新メニューをつくり、コミットさせるというのは簡単ではなかった。
世の中的には、Facebookが猛威を振るっていて、日本人が日本サービスのmixiをアンチ化する逆風が吹いていた。またスマホシフトも重なりPVが極端に下がってきていた。(特にPC)
それを打開する施策で考えたのが、すべてのPCメニューを一社に買い切ってもらうという壮大なミッションが降り注ぐ。年間50億円以上の枠を買い切ってもらうは前途多難な超絶ハードシングスだったのだ。

それをやれる可能性があるのは、DかHしか考えられないとなると禁断のコンペ風にやるしかなかった。。業界的にはタブーであろうやり方は各所で火種が飛びまくる。Dかな?と決まりかけた頃、3.11東日本大震災が起きたのだ。

東日本大地震直後の風景


そこからは、世の中が広告どころの騒ぎでなく、すべてがキャンセル対応。恐ろしい光景だった。。そこから、なんとか日本全体が立ち直りつつある中で、PC枠の買い切りプランはHにネゴシエーションできて決定。短いながら、僕の最大のミッションはなんとか終焉したのだった。
そんな壮絶な時期は気づくとたったの1年間だったが、印象深く残っている。メンバーもやはりかなり優秀だったし、日本の一文化を気付けたことも納得だ。

実は並行して、転職して2ヶ月後くらいから、NIKKO創業者の加藤さんから、お前にピッタリの仕事があるから誘いたいと言われていた。
この大変な時期に流されてしまいそうだったが、当初やりたいと思ってたことと違うミッションだったので、その言葉に悩んでいたのだ。
その話を聞いて具体化してきた頃に次の道の決断をしたのだった。

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