一番平凡な私が考える幸せになる方法

「一番平凡な子になるように」という願いを込めて父親に名付けられました、一平です。そんな平凡な私が、しあわせになるために考えてきたことをただ時系列で書き連ねてみました。


幸せな人生を送りたい。じゃあ幸せな人生とはなんだろう。

「生まれた時、自分は泣いて周りは笑っていただろう。自分が死ぬ時、自分は笑って周りに泣いてもらえる。」どっかでこんな綺麗な文言を見て、確かにそんな人生が送れたら幸せだなーとか考えてました。


でもいつしか気付いたんです。それは漠然としすぎているし、他人に依存しているな、と。アドラーが言うには他人の感情や行動は制御できない、思い通りになるはずがない。つまり自分がどれだけいい行いをしたとしても、感謝されたとしても、最後の最後に他人に泣いてもらえるかどうかは自分では制御できないわけなんです。

そこで考え直してみました。もっとシンプルに私はいつ幸せだなーと感じるか。もう少し簡単に、楽しいとかポジティブな感情を持っているか。それは、旅行をしている時やサッカーをしている時、好きな人たちといる時などいろいろあがった。どんな人でも好きなことがありそれらをしている時は満たされているだろう。

ただそれは特別なことをしている時。と言うのが大半でそれが時間的にできなくなる、歳を重ねて体力的にできなくなる、などあり得るなと思いました。もしその自分で楽しい、幸せだと感じる瞬間だけに、自分の幸せを依存させていたら、それらができなくなった時、幸せになれなくなってしまう。いくら多趣味になろうが、いくら友達を作ろうが、満たされるものではないな、と。

コレも違う。自分が”何かすること(do)”で得られるものに幸せを感じていては、それができなくなった時にどうしていいかわからなくなってしまう。


他人を制御できないのなら、他人と比べるでもなく自己満で幸せだと考えられればいい。そういうように生きているなーと感じる人はしばしばいます。羨ましい(笑)。

ただ、私の自己肯定感はかなり低い。そのくせ他人に認めてもらいたい承認欲求の塊のような人間です。しかし自分が何かをして誰かに承認を求めても、”自分が思ういいこと”をしたところで、それが”誰かが思ういいこと”と一致しているとも限らない。やっぱり他人をコントロールしようなんてのは無理なことですね。どれだけ充実した旅行、綺麗な写真、多くの友人との交流をSNSにあげたところで、他人が共感してくれる保証はないのだから、共感が得られて必ず自分が満たされるとは限らない。

ましてや、こんなにいい投稿をしているのに、なんで他人は自分の承認欲求を満たしてくれないのかなどと考えるようになってしまったら末期である。SNSなんてとっととやめたほうがいい。


そこでまた考えました。

”自分がすること (do)”で承認欲求を満たすのは難しい。なら”自分がいること (be)”で承認欲求を満たそうと。コレがまた難しい。もともと自己肯定感が乏しい私にとって「いてくれるだけで有り難い」などと言われたところで気を遣われているようにしか捉えられない。私もかなりひねくれているのは自覚しています。

ただ、自分がそう思えないのだから仕方ない。そこで自分を責めても仕方ない。”自分がいること (be)”で幸せに繋がるなんてことも考えられなかった。それも諦めました。


さて、じゃあどうしたらいいか。そこで自己満から気付いた。

めっちゃ当たり前なんですけど、毎日とくに何もないけれど、今日も幸せだなぁと感じられたら最強だなと思った。他人なんてどうでもよく、比べるでもなく、幸せは自分だけの大切な感情なので、自分で毎日幸せだなと感じられたらいいなと。

自分が何をするでもしないでも、自分が何者でも何者でもなかろうと。代わり映えしないこの毎日が幸せだなと感じられる人間最強だなと。

ただ言うのは簡単で。ここで止まらず、さらに考えました。じゃあどうしたらとくに何もない毎日に幸せを感じられるか。その答えがコレでした。

"自分自身のしあわせの閾値をひたすらに下げること"

どれだけ些細なことでしあわせだなぁと感じられるか。

朝目覚めが良かったこと、天気がいいこと、朝食が美味しかったこと、空が青いこと、通勤電車に待ち時間なく乗れたこと、ラジオで好きな曲が聴けたこと ....いっぱいいっぱいあると思う。考え出したらキリがないくらいたくさんあると思います。ただそれらは自分の意識下には上らなくなってきてしまう。

なぜか?

それは当たり前という認識になってしまうから。脳はいまこの一瞬も膨大な刺激を受けて情報処理を行なっている。そのため新しい刺激に注意を向けるため、毎日あること、毎日出会うことに関しては注意を向けにくくなってしまう。人間としては当然の反応。でもコレが自分の中に当たり前を作ってしまい、しあわせだと感じていたことを当たり前のこととして幸せを感じられなくしてしまう。

じゃあ具体的にどうしたらいいか?

私の場合は、自分の当たり前をぶっ壊すことにしました。

毎日家族に会え、気の置けない同僚と仕事をこなし、 24時間空いているコンビニに行けばなんでも手に入る、Web上で頼めば次の日には欲しいものが手に入る、仕事上では問題なくコミュニケーションが取れる。そんな当たり前を。

また「日本は恵まれている国だ」と言われていますが、それは本当なのか?

もし本当に日本が恵まれていると感じることができたとしたら、日本にいるだけで幸せだと感じられるようになるかもしれない。それを自分自身で経験して感じたことで考える。



そんなこんなで、いま異国の地に1人で住んでいます。

現地語は喋れませんし、英語も不十分ですし通じない人がほとんどです。

毎日家族、友人には会えない。ましてや日本人にも会えず日本語でコミュニケーションできないので満足に意思疎通も図れない。 買いたいものがあれば市場まで行き値段交渉する。外国人だとわかるとすぐボラれる。商店まで行って買い物をする。毎日水を買う。すぐパンクする自転車で毎日仕事に赴く。定期的になる腹痛と闘う。蒸し暑い中停電に耐える。

そんないままで”当たり前でなかったことを当たり前のように”経験しています。

利便性で言えば日本に勝る国はないんじゃないでしょうか。ただ、日本にいた時より人間を近くに感じます。仲のいい人だけでなく初めて会った人にも。現時点ですでに自分の幸せの閾値は確実に下がっているように感じます。

定住し始めて2ヶ月がたちました。今後どうなるのか。


自分のように海外に住むということができない人も多いと思いますが、そんな人はまずこんなことから始めてみたらいいんじゃないかと思います。

いつもの出勤時間よりも5分早く出発する。そしてゆっくりただ歩いてみる。

ただゆっくり歩いてください。それだけでもいろんなことに気づけるかもしれません。当たり前の毎日にも、当たり前の通勤経路にも。

そんな小さなものを拾い集めてしあわせになっていきたいと思っています。



似たこと言う人いるなーと思いました。しあわせな人は「自分がいかなる状況でも「幸福である」と信じる力を持っている人」コレができる人ってすごい人ですよね。

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