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みつばち学園

1990年9月、「みつばち学園」というゲームが発売されました。
これは恐らく史上初のアイドルオーディションソフトです。

全国から選ばれた20人の女の子を実写ゲームに登場させ
ユーザーが投票した1位の女の子を、ミスCD-ROM2として
アイドルデビューさせるという企画です。

1989年3月に、青山スパイラルホールで制作発表と
女の子の水着審査が行われました。

写真家の野村誠一さんや、作詞家の秋元康さん
ビクター音楽産業や、バーニングプロダクション
明星編集部の方などが審査員をされていました。

ちなみに「みつばち学園」というネーミングも秋元康さんです。

ハドソン工藤社長の肝入りで、当時としては大々的に立ち上げた
プロジェクトだったのですが、外注さんに開発を丸投げしたところ
暗礁に乗り上げてしまいました。
当時は、データベース的なソフトとして作っていたのですが
だいぶ微妙な出来のまま、完成形が見えない状態になってしまったのです。

「これ……どうする?」

偉い人たちが悩んでいたのが、オーディションから半年が経った
1989年9月のことでした。

ちょうどその頃、ファミコンソフト「アイドル八犬伝」というADVを遊んでいた私が「こんなゲーム作りたいです! みつばち学園を実写ADVにしていいなら私やります!」
と直訴して、プロジェクトが再スタートしました。
……今思うと、入社1年ちょっとの私によく任せたなと言う感じです。
恐らく、よっぽど困っていたのだと思います。

ただ、リスタートしていた半年ちょっとの間に
20人アイドル候補者の中に、ひとりだけ急激に太ってしまった女の子がいて
写真なども全部撮り直しになってしまったため、その子の姿を見る度に
「申し訳ない!」と心の中で謝っていました。


「みつばち学園」のシナリオは、SOFIX酒井さんと分担して書きました。
SOFIXは、渋谷にあった広告代理店です。

前にも書きましたが、昔はプログラマがゲームを作っていたため
ハドソン内部にも、企画者はほとんどいませんでした。

ゲームが複雑化してゆくにつれ、企画の仕事が出来る人材が必要になってきたため、これまでゲームの広告を作っていた人たちが、だんだんゲームの中身も作るようになっていったのだと思います。「天外2」や「俺の屍を越えてゆけ」などで有名な桝田省治さんも、I&Sという広告代理店出身です。

SOFIX酒井さんも「亀の恩返し」、「定吉七番」、「NORIKO」、「コブラ」など多くのゲームを手がけました。

プログラムは、吉祥寺にあったミュウテックという会社で
「ダライアス」を作った長谷川健さんが社長をしていました。

SOFIXとミュウテックは、酒井法子のアイドルゲーム「鏡の国のレジェンド」も手がけています。ビクターから発売されていますが、実は「コブラ」と同じシステムを使って、ハドソンが作っています。


「みつばち学園」は、自分にとって初めての“自由に書いていいシナリオ”でした。
その前にやった「コブラ」も原作の漫画がありましたし
「イース1・Ⅱ」も移植+αだったため、シナリオを書くという意味では
正直、物足りなかったのです。

20人の女の子を春夏秋冬4つの組に分けて、春組と夏組はSOFIX酒井さんが
シナリオを書き、私は秋組と冬組を担当しました。

秋組のシナリオは、自分でもビックリするくらいすらすらと書けました。
学園祭に向けてバンドを組んで練習する女の子たちが
謎の新興宗教がらみのトラブルに巻き込まれるという話で
自分では結構気に入っていました。

「冬組のシナリオで、これ以上のものを書くのは大変だな」と感じ
それが恐らくプレッシャーになってしまったのだと思うのですが
その後、1週間ぐらいなにも書けなくなりました。初めてのスランプです。

ボイス収録の日程が迫っていたため、これはまずいと焦っていた時
急に「映画を見たら書けるようになる」と、直感しました。
ちょうど週末だったため、すぐに有楽町のマリオンに行き
たしか「インディージョーンズ3」を見終わった後……

ダムが決壊したみたいに、頭の中に言葉が溢れ出してきました。
慌てて喫茶店に入り、ものすごい勢いでメモを取りました。
手が追いつかないくらい言葉が次々と湧いて出てきて……
気が付くと、かなり詳細なプロットを最初から最後まで書き終えてました。

それ以来シナリオに詰まった時は、「○○したら書ける!」と自分に暗示をかけ、ネガティブなことを一切考えずに“書ける自分”を信じて疑わないことにしています。
このおかげで、それから30年ぐらい、ずっとスランプになってないです。


「みつばち学園」のスケジュールは、かなりタイトでした。
作り直した分の遅れを、あまり考慮して貰えなかったのが原因です。

シナリオを書き終えた後も、スクリプトと撮影用資料の作成
ボイス収録用台本の作成や音関係の発注など、やるべきことが満載で
しかもフルタイムで働けるのが、デザイナを除くと
メインプログラマの松本さんと私だけでした。

当時、CD-Rがまだ普及していなかったため、開発用サンプルCDは
工場にデータを提出する必要がありました。

とあるサンプル出しの時、スケジュールが相当ヤバかったので
試しにユンケルを飲んでみました。
確か、1000円ぐらいのグレードだったと思います。

それを飲んだところ、夜になっても眠らずに働くことができ
結局、二晩徹夜して働き続けることができました。
その間、仮眠などは一切無しです。

さすがに三日目、定時まで働いている時はちょっと眠かったですが
おかげで無事、サンプルを提出することができたため
「ユンケルってすげーー!」と、当時は感動したのですが
でも今考えると、すごかったのはユンケルではなく
25歳の私の体力だったのかもしれません。

「みつばち学園」は結局、冬組の井上麻美さんがグランプリを獲得し
無事、アイドルとしてデビューしました。

準グランプリだった本山美香子さんも、後に大賀埜々という名前で
小室哲哉プロデュースによるCDデビューを果たしました。

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