【DAY 30】終わり方が気に入っている映画 「ダークナイト・ライジング」
DAY 30
a film with your favourite ending.
終わり方が気に入っている映画
「ダークナイト・ライジング」(2012)
クリストファー・ノーラン監督
クリスチャン・ベイル、アン・ハサウェイ、トム・ハーディ、ゲイリー・オールドマン、マイケル・ケイン、マリオン・コティヤール、ジョセル・ゴードン=レヴィット、モーガン・フリーマン
輸送機の乗っ取り事件が発生。CIAが逮捕した傭兵と核融合研究の博士がさらわれた。
ブルース・ウェイン(クリスチャン・ベイル)は屋敷に引きこもっていた。8年前に恋人のレイチェルとハービー・デントを死なせてしまったことで、バットマンを引退したのだ。そんな彼の部屋にメイドに扮して潜入したセリーナ・カイル(アン・ハサウェイ)は、ブルース・ウェインの指紋を盗み出す。彼女には金持ち専門の泥棒という裏の顔があった。
指紋はウェイン産業を乗っ取ろうと画策している役員、ジョン・ダゲット(ベン・メンデルソーン)に依頼されたものであった。しかし、その受け渡しの場にダゲットが雇った傭兵が現れ、騒ぎになる。セリーナは器用に逃げ出すが、通報に駆けつけた警察本部長のジム・ゴードン(ゲイリー・オールドマン)が捕まってしまい、ゴッサムシティの地下に広がったアジトに連れて行かれてしまう。その傭兵集団を指揮をしていたのが、ベイン(トム・ハーディ)であった。隙を見て下水に飛び込み逃げ出したゴードンは、若い制服警官、ジョン・ブレイク(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)に助けられる。ブレイクからその一部始終を聞いたウェインは、再度バットマンとして立ち上がることを決意。しかし、彼を危険な目に合わせたくない執事のアルフレッド(マイケル・ケイン)は猛反対する。
ベインらは証券取引所を急襲する。ウェインの指紋を使ってシステムに不正にアクセスし、株式を操作して彼を破産に追い込もうとする。その真の目的は、ウェイン社がクリーン・エネルギー事業のために開発していた核融合炉を手に入れて中性子爆弾として利用することであった。アクセス時間を稼ぐために人質を後部席にくくりつけてバイクで逃走するベインたち。ゴッサムシティ中の警官がそれを追うが、そこに8年ぶりにバットマンが現れた。警察たちは一転して彼を追い回すが、ウェイン産業の現社長のルーシャス・フォックス(モーガン・フリーマン)が秘密裏に開発していた飛行艇に乗って姿を消す。
破産したウェインは、融合炉を守るため、スポンサーであるミランダ・テイト(マリオン・コティヤール)に会長の座を譲る。そして、バットマンとしてセリーナに接触、ベインの拠点へと案内させるが、これは罠だった。ベインと1対1で戦って敗れ、ゴッサムシティが壊滅するところを手出しができない状態で見せて、絶望の淵に落とし込むために、「奈落」と呼ばれる幽閉施設に監禁される。そこは、過去に脱出できたのは、「影の同盟」の指導者、ラーズ・アル・グール(リーアム・ニーソン)の子供だけだったと伝えられている監獄だった。
融合炉を手に入れたベインはそれを中性子爆弾に改造させ、警官隊を地下アジトに閉じ込め、ゴッサムシティの橋やトンネルをプラスティック爆弾で破壊して外部から孤立させると、ゴッサム市民へ高らかと街の掌握を宣言するのだった。
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「バットマン」に対する基本的な思いについては、以前、こんな風に書いているため、一応引用しておく。
ご存知「バットマン」は、もともと1939年に誕生したDCコミックスのキャラクターだ。アメコミってもともと、例えば「スラムダンク」は井上雄彦しか書かない日本とは違い、多数のクリエイターたちがひとつのキャラクターを描き継いでいくような仕組みになっている。だから、その実写作品も同じ思想を持っていて、その時代時代で、違う監督や役者を使い、何度も作り直しをするわけだ。DCコミックスは、親会社が映画配給会社のワーナーブラザーズなので、毎回違った配給会社になってしまうマーベル・コミックとは違って(その後マーベルはディズニーに買収)、以前から安定して実写映画が作られてきたのだ。バットマンでいうと、1960年代のオリジナル以後、ティム・バートン監督で「バットマン」(1989)「バットマン リターンズ」(1992)の2作、ジョエル・シュマッカー監督で「バットマン フォーエバー」(1995)「バットマン&ロビン/Mr.フリーズの逆襲」(1997)が作られた。人と馴染めない異形の悲しみを描いたバートン版も、不健全にいやらしくけばけばしいシュマッカー版も、僕は好きだった。
そして、ノーランの話に戻すが、2000年代にリアリティを持たせたコミックの実写化がムーブメントとなった中、例に漏れずに「大人向け」の作品に仕上げることを要求された彼は、いったいどうしたかというと、これまでのバットマンの漫画的表現をあっさりと捨て、「スーパーヒーローの責任とは何か」を悩み抜くバットマンを定義した。その後の、ザック・スナイダーの「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」(2016)でも、同じようなアプローチをとったものの、こっちは何故だかつまらなくなったんだよな。じゃ、何が決定的な違いだったのかというと、「リアリティ」に尽きるのでは、と思う。スナイダー版は、シリアスすぎる一方で、どこか浮き世ばなれした世界に感じられてしまい、そこには没入できなかった。
映画ファンなら誰でも大好きノーラン版は、全部で3部作だ。僕は、その中でも本作が一番気に入っている。これまでは、アルフレッドやルーシャス、本部長など、いろんな大人が助けてくれてはいたものの、結局は孤独な戦いをしなければいけなかったバットマンだった。しかし、今回はキャットウーマンとロビンが加わり、それにより何が起きたかというと、一気に「アメコミ感」が強くなった。
そもそもは、子供向けにすぎないしょうもないコミックを、大真面目にシリアスに、大作映画にしちゃおう、というのが面白かったはずだった。でも、「バットマン・ビギンズ」(2005)はシリアスに寄りすぎて少々バランスが悪かった。「ダークナイト」(2008)は、良くも悪くもヒース・レジャーが頑張りすぎたのかな、ちょっと高尚な芝居体験みたいなものに近づいていってしまった。オスカー獲っちゃった。
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この30日間でなんども語ってきたと思ってるんだけど、映画とは、所詮は映画だ。ただの画を楽しむ娯楽である。その物語に魂が救われたり、芸術性に僥倖を得たりするのは副次的なもので、もちろん僕だっていっぱい頂いていて感謝しかないのだけれど、でもそれは本質ではない。と思っている。
だから、映画を作る人たちは、そこまで明示された意図を持たなくたっていいんじゃないかなあ、と思う。「なんかわかんないけど、こんな映像作りたいじゃん」くらいな感じでいて欲しい。とにかく遊びまくっていて欲しい。
そして、本作は、その心意気が一番ピュアに感じられた作品だった。ノーラン、バットマンを担当することになって、いろいろ小難しいことを考えてきたのかもしれないけれど、結局は彼が大ファンであるという「007」に戻ってきたな、と。真珠のネックレスのGPS、5秒で投げる小型爆弾、空飛ぶバットモービル、メイドの衣装は襟だけ取ればシックなドレス、善悪の判断がつかない魔性の女たち。こうでなくっちゃ。
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そして、本当の最後の最後。バットマンが死んで失意の面々。しかし、「遺品の真珠のネックレスがないなんて書類に書けないぞ!」のあたりから、あれあれ?と思わせ始め、「自動操縦の機能直ってますよ」の後のルーシャスを仰ぎ見る画角で写し、そして前フリがたっぷり効いた、オープンカフェのシーンへ。ウェインはアルフレッドだけに無事でいることを伝えたかったのだ。特に声をかけずに、目だけで会話をする2人。
興行収入を稼ぎまくったエンタメ超大作の終わり方は、非常に困難を極めると思うのだ。そんな中、うやむやにすることもなく、これできちんと納めた。潔い。
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