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「1917 命をかけた伝令」(2019・英/米)


「1917 命をかけた伝令」のあらすじ

第一次世界大戦。ある日、イギリス陸軍上等兵のブレイク(ディーン=チャールズ・チャップマン)とスコフィールド(ジョージ・マッケイ)は、寝ているところを叩き起こされ、急きょ塹壕の中にある司令室に連れて行かれた。そこには指揮官のエリンモア将軍(コリン・ファース)がいた。

西部戦線では、イギリス軍とドイツ軍の膠着した塹壕戦が続いていた。しかし1917年4月、独軍が前線から撤退した。これを受けた英軍は、一気に追撃して独軍の陣地に総攻撃を仕掛けようとしていた。しかしそれは独軍が仕組んだ戦略的撤退であって、攻め込むと返り討ちされることが判明。追撃中の第二大隊に攻撃中止を伝えるため、危険な無人地帯を徒歩で進み、彼らが野営するクロワジルの森へと伝令を飛ばす必要があった。彼ら2人は、まさにその伝令の任務を、将軍から直々に命じられたのだった。

彼らは塹壕を出発すると、そこらじゅうに死体が転がる無人地帯を横断し、独軍の塹壕に乗り込んだ。撤退したというのは本当だったようで、そこはもぬけの殻だった。さらに地下へと降りると、機能的で広大な空間が広がっていた。ほっと一息つく2人。しかし、地面を這っていたネズミがトラップに引っかかったことで仕掛け爆弾が作動した。瓦礫の下敷きになったスコフィールドだったが、ブレイクが必死で掘り出して助け、2人でなんとか地上へと脱出することができた。

先へ進むと、戦闘機が空中戦をしている様子が見えた。ドイツ機が撃たれたと思いきや、彼らがいる方へと落ちてきて、すぐ近くに墜落した。コックピットからまだ息のあるパイロットを引き摺り出すが、スコフィールドが目を離したすきに、そのパイロットが突然ナイフを振り出し、ブレイクが腹を刺されてしまった。パイロットを撃ち殺したスコフィールドは、ブレイクを介抱するが、傷は深く、ほどなく絶命してしまった。

スコフィールドは、彼の思いも背負って、任務遂行のためにまた歩き出す。

監督・キャスト

監督:サム・メンデス
出演:ジョージ・マッケイ、ディーン=チャールズ・チャップマン、マーク・ストロング、コリン・ファース、ベネディクト・カンバーバッチ、アンドリュー・スコット

全編ワンカット

宣伝の謳い文句が「全編ワンカット」の戦争映画。

厳密に言えば、「よーい、スタート」から120分の間、ずっとカメラを回し続けてはいない。ヒッチコックの「ロープ」(1948)とか「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」(2014)と同じように、カットとカットの間に暗いシーンを挟みながら「つながってるんだよ〜」という「ふり」をした、いわば「ワンカットもどき」と言える。

それでも、ひとつひとつのカットは驚異的な長回しであり、その緻密な計画や、撮影の苦労には、はかりしれないものがある。
でも、なんでわざわざそんなに大変な、その手法を選択したんだろう。

舞台演劇は、(演舞、演奏、演説は)、当然のことながら、「完全なるワンカット」だ。決して後戻りはできないし、つぎはぎすることもできない。このとき、制作側の「失敗したらどうしよう」という緊張感は、観客にも共鳴する。そしてこのときに感じた「どきどき感」が「興奮」に錯覚され、題材の物語自体が持つ感動と混ざり合うことで、僕たちは、ライブに対して「トクベツ」なものを見出す。

一方、映像作品は(絵画、音楽、小説は)、失敗したらやり直せばいい。「作るの大変だったんだろうな」という感心はもちろんあれど、いくらワンカットであろうが、「失敗したらどうしよう」と思うことはない。失敗したものを発表するはずがないからだ。その分、僕たちは物語にとことん没中して、危険極まりない戦場を走り回るスコフィールドの姿にどきどきするんだけれど、「ここでスタッフが映り込んじゃうんじゃないか」とはらはらすることはなくて、先述したような「トクベツ」を感じることがない。

極み

「危険極まりない」とは不思議な言葉だ。「とっても危険」という意味だけれど、なぜだか、「危険極まる」でも同じ意味になる。

調べてみると、「極まる」は五段活用をする動詞だから、否定形にするなら「極まりない」じゃなくて「極まらない」になる。なるほど。ということは、「極まりない」は、何かの否定形じゃなくて、そういうひとつの形容詞なのだ。「極まり(=極限、上限)」がない、というイメージの言葉なので、「極まる」よりも、さらに上を行った感じ。

じゃあ、「極まりない」を否定する言葉はなんだろう。「極まりなくない」だろうか。「上限がある」、「まあまあ多いけれどすごく多いわけじゃない」というレベルの極みのように聞こえる。

つまり、危険の度合いは、

「危険極まりない」>「危険極まる」>「危険極まりなくない」>「危険極まらない」

乙女のゲスの度合いで言うと、

「ゲス極まりない乙女。」>「ゲス極まる乙女。」>「ゲス極まりなくない乙女。」>「ゲス極まらない乙女。」

だろうか。

そんなことを言いたいわけではない

そんなことを言いたいわけではない。そのバンドを特に好きなわけでもない。

ふと気づくと、僕が座るデスクの目の前の壁を、小さな蜘蛛が歩いている。蚊やダニを退治してくれる益虫なので、手出しはせずにそのままじっと見つめていた。すると、ひとつ気づいた。たぶん蜘蛛は3次元を理解している。

平面を這い続ける、蟻やてんとう虫やゴキブリは、しょせんは2次元しか認識できないはずだ。とりあえず前へ前へ進むだけにも見えるから、ひょっとしたら1次元なのかもしれない。

いや、てんとう虫やゴキブリは、空を飛ぶじゃないか、と言われそうだ。でも、あの空間移動には、別に彼らの意思はないと思う。「どうしても困ったときにだけ別の宇宙へワープできるボタン」というのを持っていて、「危ない!」と思った時に押下し、びょーんと飛んで、違う二次元空間へ行き着くだけだ。そのとき、彼らには、「ここへ行きたい」という選択の余地はないように見える。

その点蜘蛛は、右に行くか、左に行くか、もしくは糸を繰り出して水平方向へ飛び出すか、その都度、確固とした意志を持って、行動を選択しているように見えた。少なくとも、そんな賢そうな顔をしていた。3次元の動物だと言い張っている僕たち人間の方が、地球からしょせん数十センチしか飛び上がることはできないわけで、てんとう虫に近い。残念極まりない。

臨場感

「1917 命をかけた伝令」の感想に戻ります。

「ワンカット」を選択したのは、「臨場感」を出したかったからなんだろうか。

でも、平和ボケした僕にとっては、これだけくっきりとした映像の戦場は、なんだか「ロード・オブ・ザ・リング」に見えてしまった。そうなってしまうと、もちろん点で見れば危機一髪のはらはらシーンはいっぱいあるんだけれど、「所詮ファンタジーなんだよな」と、どこか「自分ごと」には考えられなかった。

そして、この映画にとってとくに不運だったのが、僕は先週、「ダンケルク」(2017)のIMAX再上映を観たばかりだったということだ。

「1917」は、「美しい映像」のイデアがあって、それを再現しようとしていたように見えた。天才撮影監督のロジャー・ディーキンスのやり口かもしれない。
しかし、「ダンケルク」は、結果として出来上がった映像、のように見えたのだ。

そしてもう一つ、「ダンケルク」は、「密閉」が生理的な恐怖を産むシーンが多かった。でも「1917」ワンカットなのでカメラを密閉空間に入れられないわけだ。だから、どれだけ凄惨な状況を描いていても、どこか自由で風通しがよかった。

インタビュー

そんなふうに、僕が延々と想像しているだけじゃ、結局らちが明かないので、サム・メンデス監督のインタビュー記事を探した。

「なぜこの映画をワンカットにしたんですか?」

こう言うと偉そうに聞こえるかもしれないが、人生はワンカットで体験するものだ。映画の方が偽物。映画の言語・文法としてカットや編集することが普通になったわけだが、なぜそうなったのか?それは単にカメラの性能による理由だ。
シネマトゥデイより)

そう言われちゃうとそうだ・・、確かに編集する方がウソだ。

まあでも、映画って、ウソなんだよな。3次元空間を2次元映像に切り取るのもウソだし、光の粒を「映像です」って言うのもウソだし、つまりは「どこまで許すか」っていう境界線の話になるような。

余談だけど、このインタビューの中では、奇抜なカメラワークや、細切れのカットを多用する映画にぴりっと苦言を呈していて、ダニー・ボイルやガイ・リッチーなんかは「びくっ」としたのでは。

まとめ

残念ながら、今回もまとまらなかった。

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