映画監督を語る(HOUSE 1)

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これは、cinema.magicというInstagramのアカウントに投稿されていたものです。
HOUSEが1から6まであって、それぞれに5人ずつ、合計で30人の映画監督の名前がが書いてある。
コメントには、「In which house would you like to be quarantined?(どの家に隔離されたいですか?)」。
一緒に自宅待機するなら、どの監督たちがいる家がいいのか、つまりは、どの監督の映画たちが好きなんですか、ということだ。
よし、それなら選ぼうじゃないか。

マーティン・スコセッシ

マーティン・スコセッシは、なんでこのメンバーに入れられたのかもはやわからない大御所。なんせ80近いおじいさんである。同年代の映画監督は、スティーヴン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラなど。錚々たるメンバーだ。彼らはみんな、1970年代に若くして傑作を作り、そこから映画界をのし上がってきた。例えば、スピルバーグは1977年に「未知との遭遇」を。ルーカスは1977年に「スター・ウォーズ」を。コッポラは1972年に「ゴッドファーザー」を、それぞれ発表。

その後、スピルバーグはご存知の通り、キャッチーなエンタメ映画の監督として活躍。ルーカスは自分の制作会社でプロデュース業に専念、「スター・ウォーズ」「インディ・ジョーンズ」の新作を次々と作る。一方コッポラは、娘の映画の制作を手伝ったりしながら、悠々と暮らしている。
そんな中、スコセッシは、こんな時代でもいまだにギャング映画を撮り、ロックバンドのドキュメンタリーを撮り、MCU=マーベル・シネマティック・ユニバースの映画群を「こんなの映画じゃない」と酷評をしたり、なんとなくやんちゃで尖ったままである。ハリウッドを日本のお笑い界に置き換えると、前者の3人が、明石家さんま、タモリ、笑福亭鶴瓶であり、スコセッシはビートたけし、であると言えよう。

スコセッシは、イタリア移民の両親を持ち、ニューヨークに生まれた。若いころから映画オタクで、ハリウッド作品だけでなくヨーロッパやアジアの映画にも興味を持ち、溝口賢司今村昌平黒澤明などの日本映画にも精通した。大学生のときに「ドアをノックするのは誰?」(1967)を作って評価され、そのまま映画界へ。ロバート・デ・ニーロが静かに狂っていく「タクシー・ドライバー」(1976)カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞したことで、世界的に有名となった。

彼の映画の特徴は3つ。まず、出てくる登場人物の多くは、だいたいがギャングやマフィアなどの反社会的勢力だ。ときどき堅気な実業家みたいな人を描くけど、みんななんとなくグレーなんだよな。2つ目は、作品内で経過する時間が長い、ということ。だいたい30年くらいは平気で時間が経つ。チンピラのころに始まり、天下を取ったのちに、死ぬ。3つ目は、ポップだということ。明度の高い映像で、テンポよく軽快に物語が進行する。ふつう、マフィアの一生を正攻法で描くと「ゴッドファーザー」になるはずなんだけど、彼の映画はそれを飛び越えて、エンディングにシド・ヴィシャス「マイ・ウェイ」が使われたりする。
テンポが良い要因は、台詞回しの妙にもあると思う。とにかく暴言だらけで心地よいのだ。「最も多くFUCKという言葉が使われた映画一覧」によると、「グッド・フェローズ」(1990)が300回、「カジノ」(1995)が398回、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」(2013)に至っては、なんと569回である。これは、1分あたりに換算すると3.16回のペースということだ。(WIKIpedia

彼の映画で、僕がいちばん好きなのは「アビエイター」(2004)だ。アメリカの実在する大富豪ハワード・ヒューズの半生を描いた話である。この、非日常的な世界で、ぎらぎらと破綻していく主人公が、格好良くて、格好悪い。主演のレオナルド・ディカプリオは、それまでは「可愛い顔をした野心的な青年」の役が多かったけれど、この映画を期に、凄みのある存在感を出せるようになった気がする。公開当時大学生だった僕は、スクリーンから発せられる、そのやばめなエネルギーにすっかり感化されてしまって、映画館を出たあと、歌舞伎町の街を風を切って闊歩した。

最新作の「アイリッシュマン」(2019)でも、Netflixに場所を移したけれど、結局はデ・ニーロと一緒に、相も変わらずマフィアの一生を描いた。でも、ラストシーンは、自らがおじいさんになってきたことに、ようやく気づいたんじゃないかな、と思わせられ、そしてちょっと寂しくなった。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ

ドゥニ・ヴィルヌーブは、カナダ出身の映画監督。画角や照明にこだわった淡くフィルターのかかった映像が静謐で美しいんだけれど、一方で物語はある種の迫力を持って坂道を転がり続け、はらはらしてしまう力がある。
ジェイク・ギレンホール出演映画にはハズレはない、を更新する作品となった「プリズナーズ」(2013)「複製された男」(2013)で注目され、「ボーダーライン」(2015)では、よくありそうな設定なのに、緊張感が持続する個性的な仕上げ方をした。

彼がその名をとどろかしたのは、なんと言っても「メッセージ」(2016)である。ある日突然現れた、そこまで攻撃的ではなさそうな地球外生命体と、なんとか意思疎通をしようとする話。エイリアンを単なる敵として使わずに、「コミュニケーション」に着目するのは、前述のスピルバーグ「未知との遭遇」や、ロバート・ゼメキス「コンタクト」(1997)など、これまでも名作が多い。本作では、未確認の生物と会話をするための調査と研究、実践の様子が丁寧に描かれていて、知的好奇心がくすぐられる。また、彼らの宇宙船に乗り込むときの、重力が反転する感じは、新しい映像表現のひとつだった。

言っていいのかな、この映画にはある叙述トリックが仕掛けられている。原作の小説を読んだら、このトリックは別に、そこまで大事ではなかったんだけど、それをあえて映画では主軸に据えてきたあたり、エンタメを心掛けている、と言える。そう、この監督は芸術家を気取って「すかす」ことがなくて、あくまでもエンターティメントとして映画を作っているふしがあって、そこに好感を持てる。

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは、「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」(2014)「レヴェナント:蘇りし者」(2015)で、2年連続、アカデミー賞監督賞を受賞したという実力者である。

とは言っても、さいきん突然現れた新星でもなくて、もともと2000年代から、世界各国の映画賞にノミネートされやすそうな深淵な映画を作ってきた。「アモーレス・ペロス」(2000)「21グラム」(2003)「バベル」(2006)など。これらの映画の特徴は、複数の時間軸が交差する群像劇になっていることだ。複数というか、毎回3つ、にこだわっている。

また、「映像」よりも「人」に焦点を当てるところがあるから、出演した役者が、世間に評価されがちでもある。「アモーレス・ペロス」では、ガエル・ガルシア・ベルナルを紹介。それまで何でも屋の俳優だったナオミ・ワッツは、「21グラム」で本格演技派として認められる。「バベル」では無名だった菊池凛子を世界に羽ばたかせた。
また、レオナルド・ディカプリオは、11部門がアカデミー賞を獲った「タイタニック」(1997)ではノミネートすらせず、前述の「アビエイター」(2004)でようやくノミネートするも、結局受賞は逃す。その実力にもかかわらず、世間からの評価が得られない不遇な期間が長かったが、ついにイニャリトゥ監督作の「レヴェナント:蘇りし者」主演男優賞をとることができた。

彼の映画の中で、僕が一番おすすめなのは「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)だ。過去にヒーロー映画「バードマン」のバードマン役を演じていた、いまではすっかり落ち目の映画俳優が主人公。プライベートでも、家族とぜんぜんうまくいかない。そんな閉塞的な日常の中、いつからか空想上の「バードマン」がはっきりと彼に語りかけてくるようになり・・、という話。
一方、この映画の主演のマイケル・キートンは、かつてティム・バートン版の「バットマン」(1989)でバットマンを演じていた。そして確かに、最近くすぶっている。この構造、面白くない?

もう一つ特徴なのは「擬似長回し」だ。神の視点が一度も途切れることなく進行するから、どうしたって映画に没入することができる。「擬似」と言っているのは、「カメラを止めるな!」(2018)のように、ほんとうにずっと回したわけじゃなくて、VFXを使ってシーンとシーンの切れ目をなくしている、ということ。最近の「1917 命をかけた伝令」(2019)も同じ手法。映画全部をワンカットにしてしまおう、というのは、別にそこまで目新しい手法ではなくて、アルフレッド・ヒッチコック「ロープ」(1948)で、もうやってる。けれど、「どう考えてもこんなふうに動けるわけないよな」というカメラワークを見せられると、単純に楽しい。

その、役者と役の相似関係と、長回しの手法のおかげで、観客は普通の映画よりも、「ほんとうのもの」を観てしまうんだけれど、そこにマジックリアリズム的な表現がちょこちょこ出てくるから、こんがらがってくる。なかなか得られない不思議な感情を与えてくれる映画。

ソフィア・コッポラ

ソフィア・コッポラは、前述したフランシス・フォード・コッポラの娘で、「ヴァージン・スーサイズ」(1999)で監督デビュー。その素性から、もともとが注目されていたクリエイターでもあったけれど、映画を撮ってみたら「ガーリーでメランコリック」というなぞのキャッチコピーがついた結果、「オシャレ映画」の引き出しに入れられ、彼女の映画を観ることが、ファッションのひとつになった。
べつに、ファッションとして映画を観ることに、とやかく言う権利は誰にもない。映画なんてそんなに高尚なものじゃない。だけど、ソフィアの映画って、ストーリーは遅々としていて、とくに展開もないわけなので、「映画って退屈だな」と思われてしまうんじゃないかなあ、というのが心配だ。
エル・ファニングが可愛い、「SOMEWHERE」(2010)がおすすめである。

ジョーダン・ピール

ジョーダン・ピールは、もともと黒人俳優の物真似が持ちネタのコメディアンだったが、自分で脚本を書いた「ゲット・アウト」(2017)がヒットし、批評家からも評価され、今まさに注目真っ最中の若手映画監督となった。
「ゲット・アウト」は、主人公の青年が彼女の実家に挨拶に行くという話。思いのほか家族たちに歓迎されてほっとするものの、次第に垣間見える違和感に首をひねり、その日の夜には異常な光景を目撃することになる。この夜の異常な光景には声出して笑った。ホラーなのかコメディなのか、分類が難しい。
この映画が、思いもよらず「社会的」と言われるようになったのは、主人公が黒人で、彼女とその家族が白人、という構造による。化け物が怖いのではなくて、黒人が白人の集団の中にいる居心地の悪さ、別に明確に差別をされるわけではないけれど、その逆に気を使った異様な空気、が怖いのだ。こういうことって、人種の区別に限定されず、普段の僕たちの生活でもよくあることだ。
とりあえず、まだ1本しか撮ってないから、監督の作家性をどうこう言える段階ではないと思う。

HOUSE 1の結果

ということで、1軒目の家は、以下のような結果。

マーティン・スコセッシ 4点
ドゥニ・ヴィルヌーヴ 3点
アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ 3点
ソフィア・コッポラ 2点
ジョーダン・ピール 2点

合計14点。

HOUSE 2に続く。

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