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shape of プロローグ

 一昨年三月、横浜サッカースタジアムで行われたJリーグ第三試合。FC横浜対ソレイユ長崎戦は、前半三十分2対2と膠着状態が続いていた。横浜が先制点を奪うも、すぐさま一点を返され、点を取ってはまた返されといっこうに点差を広げられずにいた。そんな緊迫した状況の中、均衡を破ったのは途中出場でピッチに上がった一人の新人選手だった。

 パスを呼び込んでからの華麗なドリブル、極めつけに豪快なシュートを放って、前半終了間際に脅威の二得点。最終的にはその試合で2ゴール2アシストと全てのプレーを得点に結びつけ、6対2で横浜を勝利へ導いた。

 彼は「止めて蹴る」というサッカーの基本技術をやっていたに過ぎないが、決定的に他の選手と大きく違うところがあった。それは、プレーの音の静かさだ。彼の足にボールが触れた瞬間、ほとんど音がしないのだ。トラップにしてもドリブルにしても、その音はピッチに静寂を呼び込むほど小さく、もはや無音に近い。人は視覚に依存しがちだと言われているが、疲労すれば目も霞む。接戦を強いられている試合ならなおさらだ。そんな状況で次に頼れるのは聴覚。そのため、彼がボールを持ったことに誰も瞬時には気づかなかった。悟った時にはもう遅い。最小限の動きで相手に軌道を読ませず、捉えられても急加速して逆方向から素早く抜き去る。あっという間にゴール前に来たと思えば、息もつかせぬ勢いでゴールネットに強烈な一撃を食らわせた。ピッチに上がって数分しか経っていないにも関わらず、そのワンプレーで彼は圧倒的な存在感を周囲に見せつけた。

 その試合で解説を務めていた元日本代表・勝沼慎吾さんは感慨深げに彼の事をこう語った。

「彼のプレーはまるで透明な水のようだね。水はどんなものをもいなすし、嵩が増せば破壊力もあるだろう? 満たされた水の中に一雫を落とし込むように静かなトラップ、水面を駆ける光のような速さで流麗にすり抜けていくドリブル、激流のごとく轟音を響かせるほどの破壊力を持ったシュート。一つ一つの動作が自然に溶け込むような透明さがあって、まるで清流を体現しているようだ。一見軽やかで簡単そうにやっているようだけど、実はかなり慎重で繊細な技術が必要だよ。それをあんな自然にやってのけるとは、圧倒的な攻撃センスだね。まだまだ飛躍する気がするなぁ、彼は」

 この言葉通り、彼はそれ以降の試合に連続出場し、場数を踏んだことで『透明なプレー』の技術の完成度を高めつつあった。さらにその年、年間30試合中13得点とシュートの成功率を上げ、「あいつの足元にボールを呼び込めば終わる」とまで言わしめるほどのプレイヤーへと成長した。

 彼の名は、芹沢象(せりざわ しょう)。
 高校時代の故障から復帰後、今まで務めていた右サイドバックからセンターフォワードにポジションチェンジしたことで、その頭角を現した。三年連続選手権大会優勝、二、三年時にはインターハイベスト4という成績を上げ、卒業後はFC横浜にプロ入り。前述したとおりデビュー戦からそのプレースタイルを遺憾なく発揮し、チームに貢献した。それ以降も大事な場面での出場を重ね、今や立派な中心選手として活躍している。そんな彼が今年ニュージーランドで開催されるFIFAワールドカップ日本代表チームに選出された。日本サッカー界のトッププレイヤーへと昇りつめた芹沢象という選手のさらなる飛躍の深部に迫る。

    *

 指先でページの端を弄びながら、彼は雑誌の記事に目を通していた。色素の薄い瞳が虫眼鏡のように文字の一つ一つをなぞって、浮かび上かっては萎ませるのを繰り返す。すると、流れるように動いていた視線がふと、一点に止まった。瞳孔の中に『象』という文字が綺麗に納まる。途端、それはゆらりと揺れて瞼に覆い隠された。

ーーありがとう

 ふいに、やわらかな声が彼の中で再生された。すると呼応するように穏やかに、彼は微笑んだ。瞼の裏に白く眩い空を描きながら、懐かしいあの日に想いを馳せる。

 十六歳の秋、かけがえのない約束を交わしたあの日に。

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