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他者の気持ちが痛いほど分かるけど、自分にはどうしようもできない時。

最近は、自分の身に凹むことが起こっても、その時の状況を整理して、解消していくことはできるようになったのだけど、

他者が悲しそうにしていると、自分も心が痛むことが多いな~(比喩ではなく、リアルに心臓が痛くなるタイプ。。。)

テレビのワイドショーや、ニュースを見るのも結構エネルギーが要るので、実はあまり見れなくなってしまった、、、こういう人は意外と多いよね。

テレビは、自分の状況に合わせて、今は見ないという選択ができるのでそこまで問題ではないのだけど、

実際に生活の場で、誰かが誰かにキツく叱られていたりする状況ってたまにあると思うのですが、その状況が凄く苦手。。。その場だけでは終わらず、ひとりになっても引きづってしまう。

なんか、自分が叱られた時とは違う種類の痛みなんだよな~。自分でもあまり、知覚することが難しいので、自分の気持ちを分析するのが困難。

モヤモヤが出てくるたびに、思うのは、
その物事の起こった結果自体に問題があるというより、その結果に対して、自分の中で何かがひっかかったから、問題として感じているはずだということ。

なので、どんなことも、自分が不快に感じていることや、モヤモヤしたことには、自分が自分と向き合うワークをする時だなと考えるようにしています。

さて、今日はどういうことだったかというと、授業でそれぞれプレゼンテーションをしたのだけれど、その発表者の一人が教授に、キツめにみんなの前で指摘されてしまったということ。指摘されていた方は仲が良い方だったので、なおさら心苦しくなりました。

指摘された側はしばらく凹むかなと予想しています。何となく、自分が凹む時の気持ちを思い出して、その時の悲しさを相手が背負うのかと思うと、ちょっと気の毒。。。自分と相手が同じ度合いで凹むのか分からないのにちょっと不思議ですが、想像力とはこういうものですよね。

そして、相手が必要以上に自分を責めなければいいなと思うことしかできないことも、私にとってはもどかしいことのよう。

下手に励ましにいくより、自分だったら、そっとしておいてほしい気がするから、気持ちだけはぐるぐるしている状況が続きます。

自分に対する指摘や、お叱りは、自分がコントロールできる範囲のことが多く、気持ちの整理が比較的容易で、それに対して自分がすべき行動は何か。と解決することは得意なのですが、

自分がコントロールできない他者の領域は、何もできないという大きな壁の前でひたすら、相手の悲しみが早く癒えますように。。。と思うだけ。もどかしいな。。。

でも、そんな風に私が感じているということを相手には悟られないように、いつも通り、日常会話、他愛もない会話をする。

ダイレクトに励ましにいけない代わりに、必要以上に相手の気分が落ち込まないように、安心感を提供したいな。。。



他者が叱られた時や、他者が悲しんでいる時、

自分は関係ないようで、実は一緒に気持ちが動いていて、

気持ちは連動しているけれど、自分ではコントロールできない。

自分がコントロールできるところ、出来ないところの見極めが上手くなれば、

もっと強く、居られるのかもしれない。

気持ちが他者の連動してしまうこと自体は問題視したくないな。それも含めて自分の良いところなのかもしれないから。

相手を想うくらい、自分の連動した気持ちも思いやろうっと。

その代わり、コントロールできる範囲で相手に寄り添う!!!


おしまい。

2020/05/21

HINAKO










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