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向井秀徳、「らんど」を語る(3)

 向井秀徳は、ずっと都市を見続けている。都市を歌い続けている。ただし、そこで歌われる都市の光景は、現実の都市が変貌し続けているのと同じように、変わり続けている。ZAZEN BOYS約12年ぶりのアルバム『らんど』で描かれる都市の姿も、これまでのそれとはどこか違っている。

 向井秀徳にとって、都市とは何であるのか。都市とどのように対峙してきたのか。そんな話を聞かせてもらいたいと、3月20日、名古屋ダイアモンドホールでライブを終えたあと、東京まで戻る新幹線の中でインタビューを収録することになった。終電に近い時間帯ということもあり、車内には疲れて眠っている人の姿も散見された。周りの乗客の迷惑にならないように、なるべく小さな声でと、収録を始めることになった。

 「世の中」「社会」「都市」――こういった言葉をインタビューで投げかけるというのは、ややもすれば概念的で抽象的になりがちではある。しかし、そんな問いかけにも、向井さんはアサヒスーパードライを飲みながら、静かに答えてくれた。ここに書き綴るのは、そんな旅の記録であり、対話の記録である。(聞き手・構成 橋本倫史)


――名古屋でライブの日って、今日みたいに日帰りってことも多いんですか?

向井 あのね、うん、俺ひとりだけ帰るってことはよくありますね。今日は祝日だったから、開演時刻が早かったけど、これが普通の平日で、19時にライブが始まって、21時15分に終わったとしても、まだ新幹線があるからね。

――ZAZEN BOYSは一時期、年末になると名古屋のクアトロでライブをやるってことが続いてましたよね。

向井 しかも、クリスマスの時期にね。あった、あった。あれ、何だったんだろうな。別に「クリスマスに名古屋に行きたい」って言ってたわけじゃないんだよ。でも、一時期は毎年そうやったね。

――2月28日のTOKYO DOME CITY HALLのときも、それから3月10日のなんばHatchのときも、開演前に向井さんがしれっと舞台袖に姿を現してましたよね。今日の名古屋ダイアモンドホールでもそうでしたけど。

向井 ステージの袖にいて、とにかくずっと客席を見つめてるということですよね。灯りがついてバーッと出ていくんじゃなくて、その時間をステージの袖で待ってるというね。

――あれはすごく些細な時間というか、開演前のちょっとした面白い時間というふうにだけ受け取ることもできるんですけど、ライブというのは一発勝負の世界で、今日その場に集まっている観客の前にどう入っていくかって観点からすると、結構大事な時間なんじゃないかと思ったんですよね。

向井 非常にシンプルなことを言えば、「今日はどんな人来てるかな?」というね。

――それを確認しておきたい、と。

向井 ライブが始まったら、「里帆」にしか見えなくなってくるわけよ。そうなる前に、待ってる人たちの表情に、一瞬でもタッチしたいっつうかね。なぜそういう気持ちになったかと言えば、やっぱりこう、音源をリリースしてからのライブっていうのは、お互いちょっと気構えてるわけですよ。もちろんいつも来てくれるファンの人たちもいらっしゃると思うけど、心持ちは若干違うと思うんだよね。実際、今こうやってツアーをやってますけど、違うんだなこれが。それは伝わってくる。これからそういう人たちと向き合うんだっていうのを、まずはちょっと謁見させてくださいよ、と。ああ、皆さんですか、じゃあおっぱじめますか、と。そういう気持ちですかね。


「焼きついた夏の日の感触が、『チャイコフスキーでよろしく』という曲に至った」


――初回のインタビューで、東京オリンピックが何年だったかもおぼえてないという話がありましたけど、東京オリンピックはご覧になってたんですか?

向井 観てましたね。「TOKYO2020」と言いながら、2021年開催であるという、この混乱。自分自身、今が2020年なのか2021年なのか、あんまりわかってなかったんですよ。最初のインタビューで話したように、時が止まってるから。風が止まってるから。それで、ギターはホコリをかぶってるわけです。

――ライブも中止になって、スタジオでひとりギターを弾くこともなく過ごしていた、と。

向井 その時期に、何をしていたかと言ったら、東映ジャンクフィルムチャンネルを見漁りながら、オリンピックを観てたんですね。これまでのオリンピック競技というのは、テレビで中継やってたり、スポーツニュースでその日の結果を知ったりすることはありましたけど、柔道とかさ、陸上競技とか、そういうのばっかり放送されてましたよね。でも、東京オリンピックのときはですね、全競技オンラインで観れたんですよ。ああ、こんな競技もあるんだと興味を持ちまして、あの真夏の日にですよ、MATSURI STUDIOの地下室で――あの夏はエアコンの調子が悪かったんです。ゴーッと音はするんだけど、生ぬるい風しか出てこないわけだ。熱気が溜まって大変なんだけど、「この競技観てみようかな」って、毎日昼間から観てたんですね。そうしたら、女子射撃競技ってのがありまして。射撃の競技。そういう競技があるのは知ってたんだけど、詳しくは知らなかった。これ、ピストルってのとライフルがあるんだな。その射撃競技が、そこらへんの体育館みたいなところで、室内競技として行われていたんです。あの、ポーンと飛んでくる輪っかみたいなのを当てる――。

――クレー射撃ですね。

向井 そういうアグレッシブなやつもあるんだけど、ピストルとライフルはとまった的を撃ち抜くんですよ。他の陸上競技なんかだと、オンライン放送でも実況がバリバリついているわけですけども、射撃競技はそういう実況もまったくないんです。競技が行われている室内の風景を、いちおう3カメくらいあるんですけども、同じ画角の繰り返しでね、厳かに淡々と行われていくわけです。生ぬるい風もあいまって、そのタイム感が心地よかったんですね。そこで出来たのが、4曲目の「チャイコフスキーでよろしく」。

――歌詞の中に、「射撃のチャンピオン」というフレーズも出てきます。

向井 ワタシは女子射撃競技をずっと観てたんですけど、高得点をはじき出すのはもう、ロシア選手と中国選手ばっかりなんですよ。皆、もちろん真剣に、緊迫した表情で競技を行なっていく。もう、集中力の戦いだから。ただ、射撃と言っても、決して派手じゃないんですね。それで、金メダルを獲ったロシアの選手が表彰台に立って――まだそんなに年端もいかない選手ですよ。普通なら国歌が流れるわけだけども、ロシアは国として参加してないから、ロシア国歌が使えないんですね。そこで鳴り響くのは何かって言ったら、チャイコフスキーの曲なんだな。さっきまでは殺気立った集中力で、真剣な表情で競技をやっていた選手が、表彰台に立って、チャイコフスキーをバックに、あどけない笑顔を見せて嬉しそうにしとるわけだ。そこに感動したんです。そこで流れるのはチャイコフスキーなんだ。それはこう、心から選手を称える気持ちにさせるような、晴れ晴れとした風景だったんです。そこで少なからず感動しましてですね、焼きついた夏の日の感触がずうっと残って、「チャイコフスキーでよろしく」という曲に至ったということですね。


「歌の言葉には、ある種の圧力が必要なんです」


――東京オリンピックのときはドーピングの問題があって、ロシアは国として参加できないという話になったわけですけど、今年のパリオリンピックに関しても、国としては参加できないということになってますよね。東京オリンピックが終わったあとに、ロシアがウクライナに侵攻して、戦争が始まって――今から20年前にも戦争が起こっていて、その当時、向井さんは日記を書かれていましたよね。その中で、偶然一緒に飲むことになった若者たちから、「どうして政治的な発言をしないのか」と問われた、という話があったと思うんです。そこで向井さんは、「自分が表現することは、直接的に政治的な意見を表明することではないと思っている」といった趣旨のことを答えた、と。それがすごく印象に残っているんですね。それは別に、世の中で巻き起こっていることを無視するとかってことではなくて、年を重ねれば重ねるほどにいろんなことが見えるようになってくるなかで、何をどう言葉にするのかってことだと思うんです。向井さんは今、世の中で巻き起こっていることと、自分が歌詞として言葉にすることについて、どんなことを考えてますか?

向井 これはZAZEN BOYSを始めたときから意識していたことですけども、歌の言葉ってのはある種の圧力が必要だ、と。言葉にプレッシャーをのっけて、強い力で吐き出さなきゃいけないって意識はありますね。ただし、それが「バラクーダ」という言葉でもいいんだ。うん。「戦争はいけないことだ」――それは当然のことなんです。それは世界中の全員がわかっていることで、俺がわざわざ言うことでもない。「戦争は悲惨なものだ」って、それは当然のことですからね。それを歌にして言い続けるっていうことに、圧力を感じられないというか、ワタシとしてはちょっと弱いんですね。自分がそういうことを言うと、どこかこう、薄っぺらいというか、ちょっと嘘くさいというかね。

――「戦争はいけないことだ」というのは当然のことではあるんだけど、自分自身が歌詞として歌うとなると、薄っぺらさを感じる、と。

向井 もしくは、「政治的」って言いますけど、政治的なことって一体何だいってことですよね。いっぱいありますよね、政治って。そりゃ言いたいこととか考えることはいっぱいありますよ。でも、たとえば仮に、Aという政党があった、Bという政党があった、Cという政党があったとしよう。A政党は間違っとる、と。それに比べて、C政党は正しい、と。そう感じていたとしても、それを歌にするというのは、私の方法論としてはないんですね。もっと言えば、A政党の中にも共感できる部分があるだろうし、C政党にも違和感を感じる部分はあるだろうし、細かく言い出したらキリがないわけですよ。それをこう、おしなべてわかりやすい、そしてありきたりなメッセージとして言葉にしてしまうと、自分自身の薄っぺらさに打ちひしがれることになる。そういうことは、やりたくないんです。そうじゃなくて、言葉の圧を高めてですね、それをバンドサウンドで放つ、と。そこで鳴らしたときに、どんな風景が見えるか。どんな気持ちになるのか。これを目指していく。その曲がどう伝わってほしいかっていうのは、ほんとに自由でいいと思う。これはキャリアを重ねるうちに、そう感じるようになってきましたね。感じ方の多様性っつうのがあるんだろうなと思うようになってきたんです。だからこそ、ありきたりじゃ嘘くさいというかね。


「『俺ごときが』と思いながら、世界にコミットしようする――この混乱」


――ちょっと食い下がるようで恐縮ですけど、世の中、あるいは社会というものと、向井さんの歌との関係について、もう少し伺いたいと思うんです。表現というものの中には、現実世界がどのようになろうとも、自分が思い描く理想の世界を描いていく、という形もありうると思うんですね。それが現実への抵抗になりうる、という。でも、向井さんの表現は、どこまでも今の世の中と地続きだという感じがするんです。さきほど東京オリンピックの射撃競技の話もありましたけど、当時の映像を見返して印象深かったことのひとつのは、選手たちがマスクをつけていたことなんです。競技の直前までマスクをつけていて、それを外して競技をして、終わったらまたつける――その姿を目にしたときに、コロナ禍が始まったばかりの頃に、向井さんの弾き語りのライブを観に行ったときのことを思い出したんですよね。その時向井さんはマスクをつけてステージに現れて、それを外してライブをやって、またつけて去っていく――。マスクの是非とかは措くとして、その姿を見たときに、ああ、この人は今同じ時代に生きている人だなということを強く感じたんです。「ライブハウスの外ではいろんな状況が巻き起こっているけど、それを忘れさせるように、ファンタジーを見せる」というステージもありうると思うんですけど、どこまでも世の中と地続きにいるな、と。

向井 うん。まず、完全にロックアウトの時期があって、ライブがやれない時期があった。それが限定的に解除されて、ライブをやるって状況があった。その時期というのは、若干解除されてはいるけれども、(お客さんは)声を出せない、飲酒はできない、そういう決まり事があったわけだ。そういうガイドラインに則っただけの話ですよ。まあ、マスクしながら歌えないから、歌う直前に外すわけやけども、ただそれだけの話です。

――ライブが再開されたばかりの時期は、会場に独特の緊張感がありました。最初の頃だと、床に白い線が引かれていて、「この枠からはみ出さないように」という規制があった記憶もあります。

向井 ワタシは協調圧力みたいなものが苦手で、すごく嫌なんですね。そこから逃げるような生き方をしているわけです。「こうしなさい」ということが、多数決として決まる圧力というのは、すごく苦手なんです。ただし、この世界に生きている上で、決まったルールは守ってますよ。その社会性は持ち合わせていると自負してますね。

――向井さんの歌にはいつも、社会の空気というものが刻印されているように感じるんです。これはZAZEN BOYSに限らず、たとえばナンバーガールの「日常に生きる少女」を聴いても、「TRAMPOLINE GIRL」を聴いても、あの時代の世の中の空気が凝縮されてるように感じるんですよね。

向井 世の中とは言っても、ワタクシ向井が――ただの一個のメガネであるディスイズが――ただ見たというだけのものだからね。そのメガネは、どこの世界を見ているのか。世界のすべてを見渡しているのかといったら、そうではないと、俺は今ハッキリ思えるわけだ。これは年齢を重ねることで、自分自身が知っていくわけですよ。自分の恥を、自分自身が知っていく。だから「恥を知れば知るほど、恥を知る」と思っているわけだ。俺はずっとそう思ってる。「世界とはなんたるか」とかさ、「社会とはこういうものだ」とか、「もっと良い社会にしなければならない」とか――そういうふうな気持ちには、やっぱりならないんですよね。つまり、世界を変えようって気持ちがまったくないんです。そうじゃなくて、世界があって、社会があって、自分がそこにいる。自分はそれをどう見ているのか、その感情を、その情緒を、嘘偽りなく、ドキュメントとして音にしたいっていう気持ちなんですね。そこにはこう、「俺ごときが」っていう、屈折した気持ちが常につきまとっているわけです。「俺ごときが社会を描いていいのか」と。その一方で、「いや、この風景は俺しか見てないだろう」という気持ちもある。俺が感じた情緒は、自分自身のリアリティだから、それしかないんですよ。ただ、それを人に聞かせるという段階で、混乱があるわけだ。「俺ごときが」と思いながら、世界にコミットしようとしている。この混乱というのは、それはそれで生々しいものだと、自分では思ってるんですね。そういう生々しさでもってして、社会と対話するというか、世の中とコミュニケーションができる。ライブの現場にはそういうことがあるんだと、いまだに思ってますね。


「どうにか世の中と繋がりたいと思いながら、脳内風景に逃げているのかもしれないね」


――「チャイコフスキーでよろしく」で歌われている、東京オリンピックの射撃競技で優勝したロシアの選手の姿にも、その向こう側には世界の状況というものが顔を覗かせていると思うんですね。向井さんが胸を打たれたのは、あくまで彼女が浮かべたあどけない顔だと思うんですけど、その向こうには彼女が置かれている状況というのもある、というか。

向井 それはもちろん絡むんでしょうけど――国を背負ってどうのっていう、その重みを含めた人間の姿に感動したわけじゃなくて、ただひとりの人間として、その人の姿に私は感動したんです。それは、言ってみれば、自分の脳内風景に逃げていると言えるのかもしれないね。もっと清々しい、純粋な人間の姿っていうのを脳内で描いて、現実から逃げている。それで何が悪いんだと思うし、そうせざるを得ないというかね。

――そうせざるを得ない。

向井 俺はずっとそうやってきたということですわ。ほんとの現実というのがあって、それとは別に脳内世界がある。どうにか世の中と繋がりたいと思っているんだけど、脳内世界への逃げ道っつうのはいっぱいあるわけですね。こうやってギターを弾いて歌えるということは、脳内世界への逃げ道を確保できてるんだな。それはありがたいことなんです。幸せなことなんだ。俺はジャーナリストでもないし、学者でもない、教師でもないわけだ。俺は一個のメガネなんです。ただのメガネなんですよ。ただし、これ、タチが悪いことに、ただのメガネのわりには、メガネの言い分みたいなやつを持っているわけよね。このメガネが見た世界っていうのを、少しだけ知ってもらいたい。その欲求があるんですね。それはもう、俺が見たまんまの世界ですよ。「チャイコフスキーでよろしく」も、俺がこう見たっていうだけでね。射撃でメダルを獲った選手というのは、ロシアと中国とアメリカばっかりで、それはもちろん、考えさせらえることはありますよ。でも、そういうことじゃなくて――そういうことじゃないんだよね。

――この10数年に限ってみても、表現する人たちが世の中とどういう関わりを持つのか、今この状況下に何ができるのかってことを問われるタイミングはたくさんあったと思うんです。たとえば、震災の直後に、向井さんは「ふるさと」を弾き語りした映像をYouTubeにアップされて、ライブでは「東京節」を演奏されることが多かったですよね。それはやっぱり、今この時期に何かを表現するとしたら、何がありうるのかってことを考え抜いた先に出てきたものだった、ということですよね。

向井 居ても立っても居られないという気持ちは、もちろんありましたね。ただし、「人を救いたい」とかさ、そういう気持ちは、やっぱりおこがましい気がしてしまうんですね。いろんな惨禍があって、災害でも戦争でも、自分は何ができるかって、打ちひしがれるわけです。そこで自分にできることは、誰かを救うとか、そういうことじゃないんですね。それはもう、自己満足と言ってもいいわけだ。非日常のような状況において、歌を歌うような余裕がある時点で、自分としては嘘くさいんですよ。嘘くせえなと。でも、そうせざるを得ないんです。ギターを弾いて、歌を歌わざるを得ないんですね。それはもう、俺のハートがそう動いたっつうことでしかないんだけどね。ただの思いやりですわ。

――その「思いやり」ということにも、いろんな形がありえるわけですよね。震災直後であれば、向井さんにとってそれは、ただ「ふるさと」を歌って配信する、ということだった、と。

向井 そこで私は、「皆を元気づけよう」とは思えないんです。もう、「俺ごときが」って気持ちはずうっとあるんですね。あのね、屈折してるんだよ。「この自意識を見てくれや」と思いながら、それと同時に「俺ごときが」と。そして「必要以上に俺に関わらないでくれ」と。この複雑な自意識の迷路だね。でも、皆きっと、そういうもんだと思うけどね。人間ってそういうことでしょうよ。ワタシは社会性あるほうだと自負してるんだけど――でもね、ワタシも含めて、人間っていうのは社会性ないですよ。だから社会は崩れてるんじゃないですか。


「きらきらしたものを求めてるのに、辿り着けない。そんな焦りが、あの頃の俺にはあったんだろう」


――向井さんの歌詞には、「都市」という言葉がよく登場します。ここまで話してきた「世の中」や「社会」という言葉と、「都市」という言葉はまた違う響きを持っているわけですけど、向井さんは一貫して都市の情景を歌っている人だと思うんですね。たとえばナンバーガールのセカンドアルバムに収録されている「eight beater」には、「焦燥都市」という言葉が出てきたり、その後繰り返し歌うことになる「よみがえる性的衝動 繰りかえされる諸行無常」というフレーズも出てきます。向井さんの中で、都市に対するまなざしと、それをどう言葉にするかって感覚は、昔と今とで変わってきたところはあるんですか?

向井 ナンバーガールのときは、「俺はどこにいるんだ?」って感覚が大きくあったと思うんですね。ここは一体どこなんだ、俺は一体何なんだ、と。とにかくこう、どこかにきらきらしたものがある。それは都市だっていう、そういうイメージが俺の中にあったんです。あの頃の俺は、都市を求めていたのか、きらきらした気持ちを求めていたのか――それはわからないけれど、そのきらきらしたものを掴もうとするっていう歌が、ナンバーガールには多かったと思います。じゃあ、きらきらしたものを掴めるかって言ったら、掴めるわけないんですよ。そんなものは現実世界にはないわけよ。あるとすれば、自分の頭の中の世界にしかないんです。それを知ってしまった。

――そこで「掴めるわけない」と思ってしまったというのは、なぜなんでしょう?

向井 やっぱり、俺は全身芸術家ではないわけだ。全身芸術家だったら、「いつか掴めるはずだ」って、ずうっと追い求められたかもしれない。でも、俺は違うんだ。もう、目の当たりにするわけよ。だったら、俺が今見たこの風景、俺が感じたこと、脳内風景ーーこれがすべてでしょうが、と。半ばやけくそですよ。でも、現実世界には存在しないとしても、じゃあそれを自分の脳内世界として作りましょうよ、と。それが芸術だと思ってますよ、今ではね。それが最高だろうって、俺は思ってるけどね。

――細かいところをしつこく訊ねるようで恐縮ですけど、たとえばナンバーガールのファーストアルバム『SCHOOL GIRL BYE BYE』(1997年)は、まさに都市にきらきらした何かを幻視するような世界だったと思うんですね。

向井 それはもう、あこがれの風景ですよ。夢の世界と言ってもいいのかもしれない。見たことがない、あこがれの風景。それがきっと、都市のどこかにあるんだろう、と。それを求めてるんだけど、辿り着けない焦りがある。それは――うん、若いね。すいませんが青春ですっていうね。「こうあって欲しい」というあこがれを追い求める。それが若さなんじゃないかとも思いますけど、どうやらそんなあこがれの風景は存在しないということもわかっていくわけだ。

――きらきらした何かを見出そうとしていた初期の曲に対して、都市に何を見るかってところは、向井さんの中でどんどん変化してきたところがあると思うんですね。2000年代前半の曲――ナンバーガールの『NUM-HEAVYMETALLIC』(2002年)を聴き返しても、ZAZEN BOYSのファーストアルバム『ZAZEN BOYS』(2004年)を聴き返しても、都市で繰り広げられている光景に対して、尖った言葉で打ち返しているという感じがあると思うんですね。その20年前の時期と比べて、今はまた質感が変わってきていると思うんですけど、それはつまり、社会とか都市に対して、どんな音と言葉を投げ返していくのかっていうアプローチが変わってきてるんじゃないかと思ったんです。

向井 これに関しては、嘆きが大きいと思いますよ。生活している中で、嘆きの場面が多いな。嘆いているのは誰かというと、このディスイズが嘆いているわけです。やっぱり、年齢を重ねるにつれて、世の中を否定的に見るような場面が多くなる。ただ、嘆きがある一方で、願いっていうのがあるんだな。それはほんとに、こどもたちに対して願いを込めている部分はあるんですね。


「『八方美人』という曲は、女性グループが歌うことを前提に書いたんです」


――今の「願い」みたいなところとも少し繋がってくるかもしれないんですけど、今回のアルバムの3曲目に収録されている「八方美人」は、ちょっと珍しい歌詞だなと思ったんですね。最初のところで「眠り姫だよ わたしゃ」というフレーズも出てきますけど、一人称が女性になっている曲って、「SHI・GE・KI」と、あとは「六階の少女」と、ごく数曲思い浮かぶだけで、かなり限られているなと思うんですよね。

向井 そうですね。数少ないと思います。

――それはじゃあ、今回はその数少ない曲を書いてみよう、と?

向井 これに関しては、わかりやすい曲のあらましがあるんです。さっき名前の上がった、一人称が女性の曲というのは全部、女性歌手が歌うという想定をもってして出来上がった曲です。「六階の少女」に関しては、hàlという女性歌手の方から「アルバムに一曲提供してください」と依頼をいただいて作った曲ですね。それをZAZEN BOYSでも演奏して、音源に収録している、と。「SHI・GE・KI」に関しても、『クイック・ジャパン』という雑誌で、女性歌手オーディションという企画があったんです。そのために作った楽曲で、ほんとは女性歌手が歌うことになっていたんだけれども、最終的にはZAZEN BOYSで演奏して、アルバムに収録したわけです。それと同じように、「八方美人」というのも、実はこれ、依頼があったんですね。

――ああ、そうだったんですね。女性が歌うことを前提に、依頼があったと。

向井 それは、ある女性グループです。今回のアルバムに収録したバージョンというのは、歌詞の内容も含めて、もともとのプロトタイプからは全然変化してるんですけど、女性グループが歌うことを前提として書いたんです。そういうきっかけがないと、自分から女性目線に立つことって、なかなかないんですね。

――ZAZEN BOYSの楽曲の中で、ライブでは披露されているけど音源化されていない曲というものはいくつもあると思うんですよね。それはつまり、自分たちの楽曲としてこの曲もあるけど、今回のアルバムに入れるのはちょっと違うんじゃないかという取捨選択があるってことだと思うんです。今回の「八方美人」も、依頼があって制作してみたものの、そのまま消えていく可能性もあったわけですよね。普段とは異なる一人称の楽曲をアルバムに加えることで、何かが生まれるかもしれないという感覚があったということですか?

向井 たしかに、自分にとっても新鮮だから、聴く人にとっても新鮮じゃないかなということは考えましたよね。うん。でも、この「八方美人」って曲にはZAZEN BOYSのにおいがこびりついとるから、「こんな曲、歌えるわけねえだろ」ってことで、その女性グループからは採用されなかったんだと思います。だから、せっかくだからこれまでと一風変わったものを届けたいという思いはあるんだけども、誰がどう聴いても「これはZAZEN BOYSだ」というものにしかならないわけだ。それにしかならないんだよ。「こういうアプローチでやってみよう」とか、「新しい方法論を取り入れてみよう」とか言ってみたところで、辿り着くところは同じなんです。それもまた、年を重ねてわかってきたことなんですね。これは別に、開き直ってるわけじゃないですよ。でも、そうならざるを得ないんだ。そういうことも「全部全部知ってる」と、そういう話になってきますよね。


「ワタシが関わってきた世界というのはね、非常に小さい世界ですよ」


――その「そうならざるを得ない」という質感というのも、時代とともに移り変わってると思うんですよね。20年近く前の向井さんの言葉であれば、たとえば「NUM-AMI-DABUTZ」という曲に登場する、「同情の果ての冷笑を無視/俺は極極に集中力を高める必要がある。/メシ食う時は新聞を凝視する必要がある。/中間試験を受ける必要はない。軍事訓練を行う必要はない/赤軍派に感化される必要はない。/俺はそんな平和な俺の平和を歌う必要はない。」という歌詞であるとか、あるいは「INSTANT RADICAL」に登場する、「ラーメン食らって新聞凝視/とっても可愛い本屋の嬢/あの娘に会いに文献あさって/近頃とってもインスタントラジカル」という歌詞にこもっている感触というのがあったと思うんです。さきほどの話にあった、今の世の中の状況に対して、どういう言葉を投げ返すのか――。その投げ返し方が、たとえば「八方美人」という曲を聴いてみても、以前とは変わってきてるなと思ったんです。

向井 単純に、嘘くさくならないようにやってきたっていう、それに尽きるんじゃないですかね。やっぱり、昨日の自分と明日の自分って、違うかもしれないしさ。自己表現をする人っていうのは、それでいいと思ってるけど。あなたは今、ワタシがどういう具合に社会とコミットしてきたのかってことを聞きたいんだろうけども――。

――いや、コミットというより、向井さんが世の中をどんなふうに見て、それに対して自分の表現として、どんな言葉を投げ返してきたのか――。

向井 世の中っていうのは、あなたとしては、どの規模のことを言っているんだ? 東京なのか、日本なのか、全世界なのか――。ワタシが関わってきた世界というのはね、非常に小さい世界ですよ。もう、ワンルームアパート一室ぐらいのもんですわ。そういうもんなんだ。

――その小さい窓から世界を、都市を見つめている中で、向井さんが感じていることが変わってきた部分はあるんですか?

向井 「都市というものはこうあって欲しい」みたいなことは、やっぱりまったくないわけです。ただ、都市が占領されていくおそれというのはあるんですね。俺が思い描いていた都市風景は、占領されていく。これは自分が年齢を重ねたことで見え方が変わってくる部分もあるんだろうけど、それだけじゃない気がする。つまり、寂しさっていうのはいっぱいあるわけだ。ワタシはもう、25年渋谷シティに住んでるけど、渋谷はずうっと再開発してる。ずうっと開発してるわけよ。開発をし続けないと息止まるんか、と。これは渋谷に限らず、新宿もそうだし、ずっと前からそうだったんでしょう。それで――街のきらきらした感じを追い求めていると、焦燥感に駆られるわけです。変わっていく街に対して、どうにかしてついていかなければならないって、思ってしまうわけですよね。そこにもはや焦りはないが――。

――かつては焦りがあった?

向井 ありましたね。そのきらきらした光に、自分だけ取り残されそうな気がして、どうにかしてしがみつきたい。そこに何を求めているのかといえば、きらきらシティにいるガールを求めてるってことなんでしょうけども。でも、今はもう、街の新陳代謝に付き合う体力はないですわ。ただ、ワタシはずっとそこにいるから。うん。それをずっと見ている。見ている最中ですよ。そこで生きているんです。

第4回に続く
2024.3.20 東海道新幹線にて収録


ZAZEN BOYS 日本武道館公演決定!!


武道館ではメンバーの誰もがコードを全く憶えていない名曲などを含め豊富なセットリストを組み、二部構成をもってして3時間超の公演を行う。(向井秀徳)

ZAZEN BOYS MATSURI SESSION
2024年10月27日(日)日本武道館
出演 ZAZEN BOYS
開場16:00 開演17:00
前売 ¥8,800
プレイガイド2次先行
イープラス:https://eplus.jp/zazenboys/
ぴあ:https://w.pia.jp/t/zazenboys-t/
ローチケ:https://l-tike.com/zazenboys/
TICKET FROG:https://ticket-frog.com/e/zazenboys241027
受付期間:2024年7月15日(月祝)20:00〜2024年8月7日(水)23:59
※抽選 ※お一人様4枚まで ※未就学児入場不可・小学生以上チケットが必要

一般発売:8月18日(日)10:00~
(問)ホットスタッフ・プロモーション 050-5211-6077<平日12:00〜18:00>


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