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向井秀徳、「らんど」を語る(1)

 ZAZEN BOYS約12年ぶりのアルバムが、ついにMATSURI STUDIOからリリースされた。タイトルは「らんど」。この作品のリリースを前に、向井秀徳から一通のメールが届いた。そこには「オフィシャルとしての今作品の説明テキストを作成したい」と書かれていた。まずは2時間のインタビューを収録することになったが、12年ぶりのアルバムを、たった2時間で語り尽くしてもらうことは不可能だった。折しも全国ツアーが始まるタイミングだ。ツアーを経て、変化していくこともあれば、深化していくこともあるだろう。この機会に、ZAZEN BOYSのツアーに同行し、各地でインタビューを収録することになった。ここに書き綴るのは、そんな旅の記録であり、対話の記録である。(聞き手・構成 橋本倫史)



――今日はZAZEN BOYSのニューアルバム『らんど』について、じっくりお話を伺えたらと思います。

向井 今まさに、インタビュー取材を含めて、プロモーションが連日続いているわけです。もうね、久方ぶりやなー、と。

――こんなに立て続けに取材を受けるのが。

向井 ナンバーガール再結成のとき、「なんで再結成したんですか?」っていう質問に答えるタイミングはあったけども、作品についてお話しするっていうのはね。これ、アルバムが出るのは何年振りだと思いますか。驚くなよ。12年振りです。 

――前作『すとーりーず』(2012年)から、そんなに経ってたんですね。 

向井 ねえ。だから、取材を受けるのもおのずと久方ぶりになるんやけども、自分の作品について説明するというのは得意なほうじゃないんですね。いろんなことを聞かれて、「どうですかねえ、一緒に考えてみましょうか」みたいな感じだったらできるかもしれないけど。はっきりくっきり、クリアな答えが出りゃ気持ちいいんですけど、くっきりした答えを出せないからこういう音楽をやってるということは言えますね。あと、作品について語っていると、自分がエラそうに思えてくる瞬間があるわけだ。「お前、そんなこと考えてねえだろう」と。言葉で説明した瞬間に、すごく薄っぺらいものになるような気もしてくる。「俺ごときがなんだ」と。そういう自問自答は常にあって、その繰り返しです。


「ワタシはもう、一個のメガネなんです」 


――さっきのお話にあった通り、今作は12年振りのアルバムなわけですけど、向井さんの中では「もう12年も経ってたのか」という感覚ですか。それとも、結構あいだが空いたなという感覚ですか。 

向井 ライブ活動はずっとしていたから、時が止まっていたというふうには感じてないんです。でもやっぱり、すごく大きなこととして、コロナ禍のときに時が止まってたんですね。今思い返しても、「あれ? 東京オリンピックって何年だったっけ?」と、時間軸が曖昧になっている。それぐらい風が止まったし、時が止まってた。私だけじゃなくて、世界中のすべての人がそうだったと思いますけど、これはでかかったですね。コロナ禍によって、活動を停止せざるをえなくなった。ライブはできない、延期になる。そういう時期だからこそ、MATSURI STUDIOの地下室で新しい曲を作ったりさ、制作作業に充てればいいわけだ。実際、音楽家の人たちはさ、「この期間にあらためてギターの練習をしよう」とか、「オンラインで音源データのやりとりをして曲を生み出そう」とか、素晴らしい芸術家としての心意気を発揮してましたよ、皆さん。それに比べて、ワタシは何をしていたと思いますか。ギターはもう、ホコリをかぶっている。やる気が起きなくて、ほんとに一切触らなかった。じゃあ何をやっていたかと言うと、Amazonプライムに「JUNK FILM by TOEI」というチャンネルがあって――今は「東映オンデマンド」に名前が変わってますけども――東映の古い映画がずらーっとラインナップされとるわけよ。それをまあ、全部観る。『ビッグマグナム黒岩先生』とかね。もともとレンタルビデオで大体観てるんだけど、ヤクザ映画関連がずらーっと並んでますんで、それを観続ける。どれを観ても内容は同じなんですけども、とにかく観続ける。

――音楽活動から完全に遠ざかって、映画を観る日々だった、と。 

向井 どうしてこんなにやる気が起きないんだろうって、自分の中で結論は出たんだけども、私の場合、聞かせる相手がいないとやる気が出ないんですね。自分の気持ち、自分の感情、そのすべてを音楽にして誰かにぶつけたいという欲求があるんだけれども、それをぶつける先がまったくなくなったわけだ。こうなるとね、もう、ワタシは一個のメガネなんですよね。

――メガネ。

向井 はい。

――メガネだけが。 

向井 残ったよ。そのときに、「俺は音楽を通して、少しだけでも人とつながりを持ちたいんだ」ってことにあらためて気づいたし、「自分は全身・純粋芸術家じゃないんだ」ってこともはっきりわかった。これが大竹伸朗さんだったら、人が見ようが見るまいが、毎日ノートに何か貼り続けて、塗り続けてますよ。それがヨロコビなわけですね。それを人に見てもらうとか、どう評価されるかとか、それはもう、ないんですよ。こどもがスーパーのチラシの裏に落書きをし続けたりしますけど、それが純粋芸術家ですよ。人の評価だの、人の目線だの、そういったものはまったく気にならない。でも、私はそうではないんだな。人の視線が気になってしまう病気を抱えてしまった。その病状が、人よりちょっと重いかもしれない。パンデミックの期間に、それに気づいたわけだ。

 

「コロナ禍のオトシマエをつける」 


――コロナ禍になったばかりの時期は軒並み公演中止になってましたけど、時間が経つにつれて、ライブも再開されていきます。自分の作品をぶつける相手がまた目の前にあらわれたことで、新しい作品をつくろうという意欲がわいてきたんですか? 

向井 その前に、コロナ禍のオトシマエをつけるのに、ちょっと時間がかかったよね。というのも、ナンバーガールの延期公演や公演中止というものに、すべて決着をつけなければならなかった。ナンバーガール再結成の大きな目的というのは、ライジングサンロックフェスティバルに出演して、もう一回あのメンバーで演奏したい、と。再結成といっても、そんなに長く活動するつもりはなくて、ライジングに出て、パッと稼いでやり逃げだ、と。それぐらいのスピード感で再結成したんだけども、それができなかったわけです。

――ナンバーガールの再結成が発表されたのは2019年2月でしたけど、その年のライジング初日は台風で中止になって、2020年と2021年はコロナの影響で中止になっています。コロナ禍の期間というのは、ナンバーガールとZAZEN BOYSの活動が並行していたわけですけど、ナンバーガールとして活動しながら、ZAZEN BOYSのレコーディングを進めるというのは難しかったということですよね。 

向井 ナンバーガールとZAZEN BOYS、どっちもホントにエネルギーを使いますから、両立していくのは大変なことなんですね。それに、ライブ活動と同時並行して新曲をつくろうとしても、集中できないんですよ。だから、制作期間はまさに制作期間として、自分で決めて取り掛からないとできないっていうのがあるんですね。

――2022年にはナンバーガールとしてライジングサンに出演されて、同年12月にナンバーガールの再解散ライブに至ります。そこでZAZEN BOYSの新作に集中する環境が整った、と。

向井 そうね。ライブ活動も活発にやれるようになってきたし、作品として形にしたいということを、2023年の頭ぐらいにはもう決めてましたね。「2023年中に出す」と、ライブでもよく言ってましたよ。それが段々とこう、「2023年中に出せればいいな」とか、「夢の中で」とか、そういうふうに変わってきましたけども。「ここまでに提出しなさい」と締め切りを提示する人はいなくて、自分で自分のケツに火をつけることをしなきゃいけなかった。結果的には2023年から少しこぼれたわけだけれども、このたび形になって、皆さんにお届けできるようになって良かったなと思ってます。


「この世は闇深くて、救いようがない世界である」 


――そうして完成した『らんど』、1曲目に収録されているのは「DANBIRA」という曲です。「だんびら」という言葉は、日常生活ではあまり耳にすることのない言葉ですね。 

向井 ほら、拳銃のことを「チャカ」って言ったりするじゃない。拳銃の言い方っていっぱいあるんですよ。たとえば、リボルバー拳銃とオートマチック拳銃の違いはわかりますか。火力の圧力で次の弾が自動的に装填されるのがオートマチックなんだけど、リボルバー拳銃はまるい輪っかがあって、そこに一発ずつ弾が入っている。これが一個ずつ回転していくわけだ。その回転するシリンダーの形がそう呼ばせるのかわからんけど、「レンコン」って呼ぶ人もいますね。「レンコン持ってこいや!」って。 

――ヤクザ映画の中で。 

向井 たしかに断面を見たら、レンコンの形ですよ。「チャカ」っていうのは、拳銃としてはスタンダードに広まってる呼び方かなと思いますけど、東映チャンネルの映画を観てるときに、「こんな言い方するんだ?」って台詞が出てきたことがあったな。それはまあいいとして、だんびら、これは日本刀のことですよ。日本刀にも「長ドス」とかいろんな言い方ありますけど、そのひとつじゃないでしょうか。特に大太刀のことを言うかもしれないね。たしかに、だんびらって普段使わないし、あんまり聞かないね。

――でも、それこそやくざ映画の中でたまに耳にするくらいですよね。それが今回、新曲をつくろうってときに、「これだ!」っていうフレーズとして出てきた? 

向井 いろんなキーワード――人にとっては「何のことですか」という言葉かもしれないけど、自分にとっては面白いキーワードというのは、前々から蓄積されているものがあるんですね。それが、ふとした瞬間に出てくる。今回で言えば、DANBIRAを振り回している危なっかしい状況を描いているわけです。近づくと危ない、ヒリヒリした感触っていうかね。ちょっと、ヒリつかせたかったんでしょうかね。そう考えたときに、DANBIRAって言葉が切れ味ありそうでね。それで曲のタイトルにもなったし、歌詞の中にも「DANBIRA 振り回す」って出てきますね。ただ、新宿の街ン中でほんとにDANBIRA振り回してたら、すぐさま取り押さえられますよ。さすまたでな。だから、「これ、違いますよ」と。「健康のために振り回してますよ」と、言い訳をつけてるわけだ。「そんなに怖がらなくてもいいですよ」と、そういうアピールをしているわけですね。 

――歌詞の中に、「憤懣やるかたなき人が集まる絶望シティ」というフレーズも出てきます。ここに描かれているのは、ひりついた、どん詰まりの世界ではあると思うんですね。ただ、曲の全体的な印象としては、暗くてじとっとしてるわけではなくて、底明るいというか、からっとした感じがあります。

向井 この世は闇深くて、救いようがない世界である――大雑把に言うと、そういうことを歌っている部分も絶対にあるわけですね。ひとたび街を見渡せば、ひとびとは皆ささくれだっていてツラいんだ、と。ただ、それをそのままストレートに歌うってことは、あんまりしていないわけだ。ひとつ言えるのは、そういう場所に私は生きているんだっていうことを自分自身実感したいと、そういうつもりでつくってますよね。


「恥を知れば知るほど恥を知る男」

 
――「DANBIRA」の中に、「知ってる 全部全部知ってる」というフレーズが出てきます。このフレーズを聞いたとき、それこそ憤懣やるかたない世の中を生きている中で、「俺は全部知ってるんだ」と、そういう言葉を声を大にして言いたくなるような気持ちは、自分の中にもあるような気がしたんです。それは20代の頃に若さゆえの全能感に駆られて「俺は全部知ってるんだ!」と言いたくなるのとは全然別の感情として、「知ってる」と言わずにはいられないような気分が、今の世界にはあるような気がしたんです。 

向井 年齢を重ねていくにつれて、当然ながらいろんなものを知ってしまうわけだ。もしくは、うっすら知っていたけど、よくわかっていなかったことが、わかるようになってくる。見ていたはずなのに気づいていなかったことが、はっきり見えてくる。それがいいことなのか悪いことなのか、それはわからないですよ。知りたくないことを知ってしまうことだってあるわけだからね。うん。私は「恥を知れば知るほど恥を知る男」と自分で言っているんですけども、恥知らずだなーと思ってですね、自分の恥をどんどん知っていくよね。昔から知っていたけど、知らないフリをしていたのかもしれない。年齢を重ねると、自分の恥と向き合うことになりますよね。そういうニュアンスも、大いに含まれていると思います。それをもう、はっきり言ったろう、と。ここまで圧力をもって歌っているということは、それを声を大にして宣言したろうと、そういう気持ちでしょうね。「俺は知ってるんだ」と。それは別に、この世のすべてを知ってるわけじゃないですよ。でも、おのれの恥は知ってますよと、DANBIRAを振り回しながら大声で叫んでいるわけです。ほんと、保護施設に連行されてもおかしくないですよ。ただ、ワタシにはDANBIRAじゃなくてテレキャスターがありますんで、施設に連行されなくてよかったなって思ってるんですけども。 

――さっき向井さんは、「ヒリつかせたかった」というお話をされてましたよね。なにかを表現して人に伝えるときに、和ませたいと思う人もいれば、感動させたいと思う人もいて、笑わせたいと思う人もいると思うんです。でも、向井さんにとってはやっぱり、「ヒリつかせたい」というのが一番大きいんだろうなって、話を伺っていて思ったんですね。この「ヒリつかせたい」という衝動について、もう少し言葉で説明していただくとしたら、それはどういう欲求なんでしょう? 

向井 そうね。まずは自分自身が、ヒリヒリした感覚を持っておきたいっていうのがあるのかもしれないですね。それがなくなったら、自分が自分でなくなる不安感とでも言いましょうか。それは別に、人を傷つけたいとか、そういうことじゃ全然ないですよ。それに、ここにきてトゲトゲした気持ちになりたくないわって気持ちもあるんです。もうちょっと穏やかに、気持ちを安定させたい。ちょっと静かにしてくれないか、と。心を乱さないでくれ、と。そういうふうに感じることも、あるにはあるんです。ただ、街に出てワタシが見る世界というのは、やっぱりヒリヒリしてるふうに見えるし、殺伐と見えてくるのは間違いないわけです。そういうふうに世界を見たいと思っているわけじゃなくて、ヒリヒリした部分をどうしても感じてしまう。これはもう、「今の世界は殺伐としている」だとか、「世界はまた殺伐とし始めた」だとか、そういうことじゃないんですよ。ワタシが見る世界は、いつまで経ってもそうなんです。これはもう、しょうがねえなと思ってさ。 

――この世界はヒリヒリと、殺伐としたものである、と。 

向井 これはもう、そういうことでしかないんだなと思うわけです。年齢を重ねたら、そう思わざるを得ないんですね。そこで「この殺伐とした世界を穏やかにするために、しなきゃいけないことがあるんじゃないか」と思ったとしても、どうにもならんわけだ。こんな、テレキャスター弾いてどうにかなるって、まったく思えないから。そんなこともわかるわけだ。わかってしまうわけですね。だから「俺は知ってる」という言葉が出てきたんじゃないかなと思うんですけども。そこでじゃあ、どうするのか。もう、この世の中はそういう世界であるってことに向き合うしかないわけですね。「上等だ!」と。 

――その向き合い方が、向井さんの表現につながっていくわけですよね。 

向井 たとえば音楽をつくるとして、「こんな世界だからこそ、優しさが必要だよ」って歌をうたって、それを聞いた人が一瞬でも救われるっていうようなことが、ある。それは、うん、必要なことなんですよ。それが音楽の力なんです。音楽は絶対的に、そういう力を持っているから。でも――私はそんな嘘をつけないんですね。これは別に、そういうことを言っている人を嘘つきだと言っているわけじゃないですよ。そうじゃなくて、私は人を癒すこともできないだろうし、救うこともできないだろう、と。そして、俺ごときが癒やそうとも思わないし、救おうとも思わない。そうなってくると、「DANBIRA」みたいな歌になってしまうんですね。ただし、その「DANBIRA」を聞いて救われたっていう人も、もしかしたらいるのかもしれませんけど。もしもそういう人がいたとしたら、私が歌ったものにその人が少しでも触れてくれたっていう事実であるわけですね。そうであれば嬉しいなと思います。


「ワカルカナ? わかんねェだろうナ」 


――年齢を重ねることで、はっきり見えてくるものがあるんだろうなということは、2曲目の「バラクーダ」を聴いていても感じたんです。この「バラクーダ」って言葉は、「DANBIRA」以上に、それが何を意味している言葉なのか、聴く側からするとわからないわけです。でも、この「バラクーダ」という曲は、その歌詞が意味するところを観客がわかるか、わからないかということを超越したものだという感じがしたんですよね。わかる、わからないということを超えて、自分はこの言葉をビートにのせて叫びたいんだということが、はっきりとあるように思える。そういう意味では、自分がやりたいことの輪郭というのも、年齢を重ねるにつれてはっきりと見えてきたところがあるんですか?
 
向井 松鶴家千とせ師匠の言うところの、「ワカルカナ? わかんねェだろうナ」――これはワタシがこどものときから大ヒットしていたものだから、皆が知っているフレーズではあるんですけども、大人になって師匠の芸に触れる機会があったんですね。「オレがむかし 夕焼けだったころ 弟は小やけだった」と。わかるかどうかと言われたら、わからないですよね。わからないけど、わかるわけだよ。わからないけど、わかる世界がある。そこに非常に感動したし、私がZAZEN BOYSであらわしたい世界と共通する部分があると、はたと思ったんですね。それで、松鶴家千とせ師匠に会いに行ったよね。 

――浅草の寄席に。 

向井 よせばいいのに、会いに行ったわけだ。師匠の芸は完全にブルースだと私は思っているんですけども、師匠のブルースにすごく共鳴しましたっていうことを一言伝えたくてですね、浅草の演芸場に行ったわけだ。きっぷうりばのおっちゃんに、「ワタシ、ZAZEN BOYSの向井秀徳と申します。ちょっと松鶴家千とせ師匠にお話がございます」と伝えたら、マネージャーさんがやってきたんですね。そしたらそのマネージャーさんが、「ようこそおいでいただきました、読売新聞の方ですよね?」と言ったんですね。そのまま「いや、ワタシは共同通信です」と詐称してもよかったんだけれども、「そうじゃなくて、ZAZEN BOYSというバンドをやっている向井秀徳と申します」と伝えたら、態度が180度急変しまして。それはもちろん、いきなり押しかけてるこっちが悪いんだから、当たり前ですよね。いきなり訪ねてこられても、ワタシだったら迷惑ですよ。「個人的に話すことはありません」と。でも、そこで30分ぐらい待たされたあと、楽屋に通してもらえたんですね。そうすると、師匠が正座して待ってらっしゃるんだ。そこでシンプルに自分の気持ちを伝えたら、師匠は「ありがとう」と。ありがとう、ありがとう、ありがとう。何を言っても「ありがとう」で、「ありがとう」しか返ってきた言葉はなかったんだけども、自分の気持ちを伝えて、「失礼しました」ってその場をあとにしたんですね。ワタシはね、勢い余ってそういうことをやるんです。そのあと、あなたを呼び出しましたよね。 

――浅草に呼び出されて、ホッピー通りで飲みましたね。たしか2018年の終わりごろだった気がします。 


「言葉のゲシュタルト崩壊」

 
――あのとき向井さんが松鶴家千とせ師匠に会いに行ったということは、とても大きな意味があったような気がするんです。そこで松鶴家千とせ師匠の芸に共鳴したことで、向井さんが歌うフレーズというのも、より輪郭が際立ってきたところがあるのかなということを、この「バラクーダ」で感じました。 

向井 「バラクーダ」っていう言葉には、パーカッシブな語感がありますね。これはZAZEN BOYSの楽曲の発生のしかたとしてはよくあることなんだけれども、ひとことのフレーズで巻き起こる、ドライブしたビート感に乗っかりたいと思ったわけだ。たとえば「honnojiで待ってる」っていうフレーズも、その言葉にあるグルーヴをバンドサウンドにしたいというところから始まっているんですね。「honnojiで待ってる」って、そのイメージの出どころはどこなのか、自分でも説明のしようがないし、わからない。「バラクーダ」も同じですね。まあ、魚ですよ。カマスみたいな長い魚です。ただしそれは、鮮魚店には並んでませんよ。バラクーダ。今思い出したけど、バラクーダってグループもいましたね。「日本全国酒飲み音頭」とか、「血液ガッタガタ」とかね。

――ある世代までは、「バラクーダ」と聞くとそっちを思い浮かべる人も多いかも知れませんね。 

向井 とにかく、「ば・ら・く・う・だ」――文字数としては5文字ですよね。それは別に、「な・か・め・ぐ・ろ」でもいいのかもしれませんけど、やっぱり「バ」から始まるアタッキーな感じ、パーカッシブな破裂音を口にすると、自分の中でノリノリ気分になりましてですね、これをZAZEN BOYSの強烈なビートミュージックにしたら気持ちいいんじゃないかと思って、曲が始まったんだと思います。だから、リズミック的快感がまず先にあるんだけれども、「バラクーダ」を連呼する楽曲に、何の気持ちをのせていくか。それを言葉で説明することはできないんだけれども、なにか見えてくるものがありますよね、と。それが千とせ師匠で言うところの「ワカルカナ? わかんねェだろうナ」っていうことだね。 

――ナンバーガールの頃から、ひとつのフレーズを意識的に繰り返すということはあったと思うんですね。ただ、ZAZEN BOYSになってより一段と、フレーズを繰り返すことでビートのうねりをつくりだしていく度合いが増したんじゃないかという気がするんですね。その度合いというのは、ZAZEN BOYSとして活動を続けるなかでも、より先鋭化してきているようにも感じるんです。

向井 「言葉のゲシュタルト崩壊」ってことを、ときどき思ったりすることもあるんだけれども。これは一体何を言っているんだろうと、自分でもわからなくなる。リフレインすることで、さらに意味合いが崩壊していく、あるいは変化していく。それによって、とてつもなく大きな世界を含んだものが生まれていくような気がする。ただ、リフレインの快楽っていうのは音楽独自のもので、言葉の繰り返しのみならず、たとえばベースで同じフレーズを延々やり続ければ、どんなに退屈なワンコードのリフでも、ある種のトランス状態になる。これはもう、音楽というものが生まれたときからあるわけで、根本的な音楽の快楽だと思ってます。だから、シンプルな音楽的快楽を求めてやってるってことじゃないかと思うんだけど、じゃあなぜ「バラクーダ」と連呼するのかと聞かれたら、ちょっと皆でじっくり考えようかって話になってくる。 

――ZAZEN BOYSで言うと、たとえば『ZAZEN BOYS Ⅱ』(2004年)に収録された「安眠棒」だと、「棒棒棒 安眠棒で殺された」というフレーズがあって、「棒」あるいは「安眠棒」という言葉が何度となくリフレインされます。あるいは、『ZAZEN BOYS 4』の「Honnoji」だと、「honnojiで待ってる」という言葉が何度も繰り返される。安眠棒って何なのか、誰が何を待っているのか、歌詞で説明されるわけではないですけど、その言葉のリフレインによって浮かんでくる情景というのがあると思うんです。それに比べると、「バラクーダ」の場合、ある情景を想像するというよりかはもっと純然と、その言葉が持っている語感のビートが響いてくる曲だという印象があるんですね。もちろんすべての楽曲が「バラクーダ」のような歌詞というわけではありませんけど、向井さんの中で、どういう言葉を歌にしたいかってところの感覚が変わってきたところもあるんですか? 

向井 この曲の中では、「バラクーダ」から「アリゲーター」、「マンホール」まで歌ってますけど、そのひとつひとつは意味がある言葉ですね。実際存在するものなわけだ。これは、「ただ言葉を発して連呼したらぶっ飛ぶぜ!」みたいなことではないんですね。たとえば、「ハナモゲラ、ハナモゲラ!」ってね、ほんとに意味をなさないめちゃくちゃ言葉でトランスできるかと言ったら、私の場合はそうではないですね。「バラクーダ」という言葉の次には、「ピンクタイガー」がこなければならない――そこにはなんか理由があるんだよ。そのつながりには、どっかに理由があるんでしょう。それは私自身にもわからない。その理由は不明です。できれば誰か教えてほしいってことなんだけどね。でも、たぶん理由があるんです。そうじゃないと、いくら繰り返しても、違う世界にはいけないというふうには思ってますね。


「ちゃんと額縁に入れて届けたい」 


――この『らんど』をリリースしたあと、ZAZEN BOYSの全国ツアーが予定されています。冒頭のお話にもあったように、向井さんの中では作品を制作すること自体が目的というよりも、それを誰かにぶつけるということが大きなモチベーションになっているわけですよね。これから始まっていくツアーに対して、今どんなことを期待してますか? 

向井 12年もアルバムを出さなかったというのは、音源としての作品をないがしろにしていたっていうわけではないんですね。その重要性がわかっているからこそ、重い腰が上がらなかった。つまり、作品としてキレイな形に――「キレイ」っていうのは違うね。ちゃんと額縁に入れて届けたいと思ったわけだ。ちょっとした額縁に入れて、あなたのワンルームマンションの玄関に飾ってほしい。もしくは杉並区民センター「セシオン杉並」のロビーに、立派な額縁に入れて飾ってほしい。額縁のほうが全然高価なんだろうけども、それぐらいちゃんと知らしめたい気持ちが強かったんですね。 

――作品を制作するということに対して、それだけ思いがあるから、なかなか腰が上がらなかった、と。 

向井 もちろん「そんな額縁に入れる暇があったら、早く聴かしてくれや」という人もいただろうとは思います。でも、音楽を通していろんな人たちとコミュニケーションするにあたって、アルバム作品という形式はすごく大事だと思っているんですね。1曲目から13曲目までのストーリーがあって、物語があって、これを聴いてもらう。それはすごく重要なことだと、今は思ってますね。こういう曲ができたんだ、こういう世界観がここに生まれたんだということを皆に知ってもらって、その上で顔と顔とを突き合わせてやりあおうぜ、と。それがライブなわけですね。それによって曲の風景も変わっていくかもしれないし、アレンジメントもいろんな方向に進んでいくと思います。それは非常に楽しみですね。だからまずは、俺の見た夕暮れ時――商店街にある床屋の店内をのぞいたときに見えた、蛍光灯のパルック度数の感じを歌にしたんで、ちょっと確認しといてくれや、と。これをまず言いたいね。それを確認してもらって、ライブでもう一回会おうやと。そういうことですね。

第2回に続く
2023.12.22 東京で収録

ZAZEN BOYS 日本武道館公演決定!!


武道館ではメンバーの誰もがコードを全く憶えていない名曲などを含め豊富なセットリストを組み、二部構成をもってして3時間超の公演を行う。(向井秀徳)



ZAZEN BOYS MATSURI SESSION

2024年10月27日(日)日本武道館
出演 ZAZEN BOYS
開場16:00 開演17:00
前売 ¥8,800
オフィシャル先行
受付URL:https://eplus.jp/zazenboys/
受付期間:2024年5月26日(日)21:00〜6月9日(日)23:59
※抽選 ※お一人様4枚まで ※未就学児入場不可・小学生以上チケットが必要

一般発売:8月18日(日)10:00~
(問)ホットスタッフ・プロモーション 050-5211-6077<平日12:00〜18:00>




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