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親しくない男性に突然「なぜ君は子どもを作らないのか?」と言われ驚いた話

以前、ある還暦を越えた男性と会話する機会があった。

「おたくの夫婦はどうして子どもは作らないんだ?」と聞かれ「どういう神経でこんな不躾な質問ができるんだろう!?」と閉口したことがあった。

ちなみに彼とは全くもって親しくない。

こういう発言を平然とできる想像力のなさに驚いたと同時に「この人とは絶対仲良くなれない」と思った。

この男性は「〇〇すべき」「それは常識から、かけ離れている」「そんなことは変だ」というのが口癖のようで、会話の端々にそういった言葉が散見された。

きっと悪気はないのだろう。

彼はとてもストレートな人間のように映った。

「自分が子どもを作ったことで幸せを感じているから、ぜひ君も作りなさい」といった感じで諭すように、子どものいる暮らしの素晴らしさを滔々と語る。

僕の友人、知人の女性で、子どもが欲しいと願いながらもなかなかその願いが叶わず苦しんでいる方が複数名おられる。

それが脳裏に浮かび、無神経な質問を投げかけてきた男性に対して怒りがわいたものの、ぐっと堪えた。

うちは「子どもを作らない」という選択をした夫婦だ。

夫婦仲は良い方だと思うし、結婚して良かったと心から感じている。

「家庭や家族のあり方は、いろいろな形があっていい」という考えだ。

もちろん結婚する、しないも含めて全て本人の選択で、外野が介入することではない。そもそも、求められてもいない他人がとやかく言わなくていい。口を挟むこと自体に疑問を覚える。

不躾な質問をしてしまう心理として「〇〇を選択することが最も正しい」「この正しさは全員に当てはまる」という思い込みがある。

相手を慮ることができる人は、関係性ができていないのに境界線を越えるような質問をしない。

子どもを作る、作らないはとてもセンシティブな問題なので、そこへ触れる際、言葉を選ぶ必要があるし、まず信頼関係が築かれているのが最低条件だろう。

しかし、そこが理解できていない人ほど、意図せず境界線を越えるような発言をし相手を傷つける。

傷ついた側が「そういう発言はやめてほしい」と返しても「それは気にしすぎだ」「被害者面するな」と、とりあわず他責に明け暮れる人がまだまだいる。

言葉が凶器になるという感覚が抜け落ちているのだろう。

今回、こちらの記事を書きながら痛感したのだが、僕がずっと仲良くできなかった人は相手への関心が薄い人だ。

自分のことばかりを考えている人は、相手の生活背景について想像を巡らそうという発想がそもそもない。ずっと自分のことだけを考えている。

そして主観的な正しさばかりを追い求めようとする。

「正しさなんて人の数だけありますよ」と伝えても、正しさを追い求める「正しさ原理主義」の人には伝わらない。

正しさに強くこだわるのは、不安が大きいからかもしれない。

揺るぎない信念を持つ人ほど、それを誰かに押しつけようとはしない。

たくさんの苦労を乗り越えてきた人ほど、優しい。その優しさにはパフォーマンス的な嘘くささがない。さりげなく、押しつけがましくないのだ。

無神経な発言を度々繰り返す人の正体。それはたくさんの命が息づき躍動しているこの地球で暮らしながら、絶えず自分にのみ関心を払い続けてきたナルシストかもしれない。

こういう人は、傍目には誰かと交流しているように映ることもあるが、その実、たったひとりで生きている。

水面に映った自分の姿を見てうっとりとしているギリシャ神話のナルキッソスのように、その目は常に己へ向けられている。

自己執着が強い人は視野が狭くなりがちだし、正しさ依存の人ほど主観的な正しさで人を傷つけがちだ。

「各々に合った生活形式がある」「価値観は人の数だけある」という鷹揚さがある人は、心の境界線を侵害する行為をそもそもとらない。

多様性が叫ばれている時代だが、まだまだ「過去のある時代に、多数派が同じ選択をしがちだったゆえ、数の暴力でそれが正しかったと思い込まれていること」に固執している人が少なくないようである。

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