「卑怯な批判者」から脱するには仕切る立場を経験するのが有効
自分が長らく卑怯な批判者だった経験があるのでわかるのだが、卑怯者と批判依存者は親和性が高い。
20代の頃、仲間うちで映画を撮影したことがあった。
クリエイター志望者で「何かやろうか?」という話になって、映画を撮るという運びになったのだ。
ひとつ上の先輩が監督を務めたのだが、そのときの僕は完全に外野のポジションに終始し、監督の批判に明け暮れていた。
思い出すだけで恥ずかしくなるが、このときの僕が当事者意識の欠如した卑怯者だったのは間違いない。
翌年、僕も監督を務めることになり、自分がしていた批判がブーメランのように襲い掛かり苦しんだ。
いざ仕切る立場になって「全体を仕切ることは、こんなに大変なんだ」と実感した。
批判に明け暮れていた僕がそうだったように、他者批判に依存している人間は必ずと言っていいほど仕切るポジションを避ける。
なぜなら自分が全てを仕切る力がないことを、心のどこかで認めているからだ。
そしてそこから目を逸らしたくて、他者批判に依存するという悪循環に陥る。
20代の頃に喰らった痛烈なブーメラン経験は、今でも活きている。
人をまとめるのが苦手だというのは今も変わりないが、そうせざるを得なくなったときは不器用でも不格好でも無様でもいいから「なんとかやり遂げよう」という覚悟を持てるようになった。
たまに昔の自分のように批判行為に明け暮れる人間が、眼前に現れることもある。
対処は簡単だ。
「あなたの方が僕より有能なので、よければ仕切るポジションをお任せしますけど、いかがでしょう?」と振ると、決まって閉口し「いや俺は別にそういうことがしたいんじゃないし…」と口ごもる。
意地悪なやり方だが、ブラックユーモアを含むこの手の方法は、無責任な批判者を黙らすのに有効だ。
鶏口牛後という言葉がある。
意味は、
「大きな集団や組織の末端にいるより、小さくてもよいから長となって重んじられるほうがよいということ」
組織の大きさに関わらず、全体を取りまとめるポジションを一度でも経験しておくと、その後の人生は確実に変わる。
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