星見ヶ丘坂道商店街 1話-高天原 洋-①

星見ヶ丘は海と山に囲まれた土地だ。
その山の山頂には街の名前の由来でもある、大きな望遠鏡のある天体観測施設のある図書館と、その図書館を挟むように建つ中高一貫の大きな学校がある。

山頂に向かう一本の大きな坂道から左右に枝分かれした横道に、たくさんの店や住宅が並んでいる。
街の人々はその一帯を『坂道商店街』と呼んでいた。


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初めてその女に会ったのは
桜が咲き始める3月の終わり頃。
行きつけのパン屋『ベーカリーほしみ』での事だ。

「今日から働いてもらう近藤(こんどう)さん。仲良くしてね洋(よう)くん」
小さい頃から世話になっているレジ打ちの初老の女から紹介された。

『ベーカリーほしみ』は現在創業50年。
坂道商店街のちょうど真ん中あたりにある老舗のパン屋だ。
店を建てた1代目の夫婦が思うように身体が動かなくなってきたらしく、そろそろ隠居を考えているとか。
そうなると2代目の夫婦だけで店を回すのは少し人手が足りないらしく、新しくパートを雇ったようだ。
ちなみに3代目になる、俺と同じくらいの歳の息子は現在フランスの…どこだか忘れたが、店を持っている…らしい。

近所に住んでいるなら、必ず食べたことがある、ほしみの食パン。
ばあちゃんが朝食は必ずここのパンをトーストにして食べるので、よく買いに来ている。
その食パンを、いま初めて会った小柄な若い女に渡され「ありがとうございます」と言われた。
緊張しているのかうつむき気味。
だが声はしっかりと出ていた。
「……頑張れ……です」
それだけ言って食パンを受け取り、帰った。


2回目は、その4日後の土曜日。
小さな子供と手を繋いで坂道を登って行くのをいくのを見た。

その日は快晴で暖かく、山に咲いている桜も満開となり絶好の花見日和となった。
そしてばあちゃんは店の客や知り合い達と昼から山の上の方にある大きな公園へ花見に行っていた。

自分の店は、ひいじいさんが建てた『高天原(たかまがはら)漢方店』
今は二代目のばあちゃんと自分の2人で店を経営している。
店は山の上にある学校に向かう一本の大きな坂道に面している為か、普段から客入りは悪くないのだが。
流石に花見日和に漢方屋に来るような人間はそういないようで、店の中は静かだった。

漢方薬剤師。それが自分の仕事だ。
三代目になるはずだった母は自分が中学生の時に交通事故で亡くなり、父はもっと幼い時に。風邪からの肺炎で。
元々身体が弱かったと聞くが、正直父親の記憶はほぼ無いに等しい。

自分が成人するまでは続けるにしても、後継がいないならばそこで店を畳んでしまおうかと、ばあちゃんが言っていたところ
自分が継げば畳まずに済むのでは?と思い。
勉強して免許を取得し、店の経営を手伝う事にした。
店では薬膳粥や茶を出しているのもあり、昔馴染みがよく昼飯にと食いにくる。
そうでなくてもばあちゃんに会いに茶を飲みにくる奴が沢山いるのを昔から知っている。

その場を無くす事が、自分は嫌だった。


暇なら早く店を閉めて花見会場に来てもいい、なんにせよ今日の夕飯は花見の余り物になるだろうから、選べるうちに食べに来い。
と言われていたのだが…。いくらなんでもまだ閉めるには早すぎる。
特にすることもなかったので店周りを掃き掃除していた。

すると女と子供が目の前を通りかかった。
恐らくベーカリー『ほしみ』からの帰り道だろう、片手に持った紙袋いっぱいに様々なパンがはいっている。
いくらパンとは言え大量に入っているからか重そうだが、女と子供は嬉しそうに笑っている。
自分の前を通過する時、女は軽く頭を下げ。こんにちは。と言った。
店で会った時よりは声が出ていたが少し恥じらいがあるように聞こえた。

その時、道路の向かい側から野良猫が飛び出して子供の足に擦り寄った。
茶色い虎柄で右耳先をV字に切られた野良猫。
よくうちの店に飯をたかりにくる奴だ。

「ねこさん」
女の手を離して子供はしゃがんで猫と目線を合わせる。
すると猫がゆっくりと瞬きをした。
「ふふ、かわいいね」
女は子供の横で膝をついた。
本人は気にならないのだろう。
だが自分は、スカートが汚れてしまう。と思った。

すると野良猫は腹を見せて寝転がる。珍しい光景だ。
その野良猫は人に慣れていて自ら近づいてくることはあったが、腹を見せたのは初めてだ。
子供は猫の腹を撫でている。
女は子供と猫を見ている。
それをまた、自分が見ている。

「あ…えと、こんにちは」

居た堪れなくなったのか女が口を開く。
見上げて二度目の挨拶をする女と目があった。
大きな目と、まだ少し幼さを感じる顔立ちで、子供がいるにしてはずいぶん若く見える。
もしかしたら、歳の離れた姉弟なのでは?と思った。

「えっと…こちらの猫ちゃん、飼ってらっしゃるんですか?」
話題にしたのは、やはり猫の事。
「野良だ…です」
「野良なのに、すごく懐っこいですね」

撫でられた猫は気持ちよさそうに目を閉じている。
去年の夏にこの猫を見つけた時、右前足に怪我をしていたので、2軒隣にある高倉動物病院に診てもらったことがある。
その時に野良と分かり、ばあちゃんと保護する事にした。
しかし猫は近づきはするものの、ばあちゃんにも自分にも懐くどころか触らせてもくれない。

だが放っておくわけにもいかないので、野良ではあるが何かあった時は家に入れ、飯をたかりに来たら渡す。という関係になっている。
店の客にも近づきはするが、やはり触られないようにしているので、こうして腹を撫でられているのは初めて見た。

…とでも説明すれば良かったのだろうか。
女はまた気まずそうにして、話題を探しているようだ。
すると猫が突然顔を起こし、V字に切られた右耳をピクリと動かした後、身体を起こし走っていく。

「あ…」
子供はまだ撫でていたかったのか名残惜しそうにしている。
「ねこさん…」

猫が走る先に視線を移すと
2件隣の動物病院から出てきた男の脚に身体を擦り付けている。
男が猫を抱き上げ、子供と女。
そして自分に視線を移し近づいてくる。

毛先だけが黒い独特な白髪に、白衣を着た痩せ型の男
高倉動物病院の院長であり獣医師。高倉夜斗(たかくら やと)だ。
「こんにちは、洋兄さん」
「今日は終わりか?」
「はい。ちょうど診察が終わったとこです。そしたら彼に呼ばれまして」
夜斗から猫を受け取ろうとしたが猫はそのままスルリとすり抜け地面に降りる。

そしてまた子供に腹を見せた。
そしてまた子供は嬉しそうに腹を撫でている。
猫も気持ちよさそうに伸びている。

一番最初に病院につれて行って以降
猫は自分に触らせてはくれない。
夜斗はともかく、触られるのが嫌いな奴だと思っていたのだが…。

「彼が懐く人間がいるとは、驚きました」
夜斗は撫でられている猫、撫でている子供。そしてその隣にいる女に視線をうつした。
「そうなんですか?」
女が顔を上げるが、夜斗は女と視線が合う前に自分に顔を向けた。
「自分には懐かねえ…です」
「洋兄さん。そちらは?」
夜斗は人にはあまり興味を持たない。むしろ嫌いというくらいで極力自分からは関わりに行かない。
だが世の中には社交辞令という物がある、友好的に話しかけられて無視する訳にはいかない。
なのでこのように、よく間に挟まれる。
あ。と女が立ち上がる。
スカートの膝の所が汚れてしまってる。
…いや、自分が気にする事でもないが。

「はじめまして、近藤と申します。えと、ちょっと上の方にあるパン屋さん…。『ベーカリーほしみ』で働かせていただいてます」
女に続いて子供がすっと立ち上がり
「かけるです。よんさいです。よろしくおねがいします」
と頭を下げた。

4歳の子供か。女はずいぶん若く見えるが…。
18ですぐ結婚したなら無くは無い。
…いや、若く見えるだけの可能性もあるな。
身近にも実年齢より若く見える奴は結構いる。
その可能性だって充分にある。

「おなまえはなんですか?」
子供が真っ直ぐに見上げてくる。
髪も目も色は違うが、近藤さんとよく似た顔をしている。
こんなに顔も似ているんだ。やはり親子だろう。

「高天原……です」
「たかがが…」
自分の低く抑揚のない声が聞き取りづらかったのだろう。
それに呼びにくい苗字だとよく言われる。
なので、今度は名前を口にする。
「洋…です」
「よう…?」
「洋さん。て呼ぼうね、翔」
「ようさん!」
嬉しそうに笑い、次は夜斗に同じ質問をする。

「おなまえはなんですか?」
「高倉夜斗です。動物のお医者さんです」
自分とは違い、ちゃんと聞かせる様にゆっくりと答えた。

「おいしゃさん!」

子供…翔は猫を見て、もう一度夜斗を見る。
「ねこさんのおいしゃさん?」
「そうですね。猫さんのお医者さんでもあります」
翔は嬉しそうに笑い、夜斗も微笑んだ。
他人から見たら普通の事だが、夜斗をよく知っている自分からしたら珍しい光景だった。
相手が子供とはいえ、仕事以外で赤の他人とここまで話す夜斗は珍しい。

それほどに、夜斗は人嫌いだ。

翔は猫にまで同じ質問をする。
「おなまえはなんですか?」
座った猫と視線を合わせるようにしゃがむ。
猫は顔をあげて自分を見た。
すると翔も同じように俺を見る。

「猫…です」
決まっていない。
特に呼びもしないので必要性を感じた事がない。
「ねこ…」
何故か翔は悲しそうな顔をして猫と目を合わせる。猫は瞬きをする。
名前無いだけで、そんな顔をするか?
「…あった方がいいのか…?」
誰にともなく口に出すと夜斗が何かを言おうとした。それより先に

「ほしいな」
と、子供が言った。
まるで、猫の言いたいことを代わりに口にしたように見えた。

「ねえ君。もしかして…」
夜斗が子供の横に膝をついて、こちらには聞き取れない小声で何かを話している。
その間に少し考えてみる事にした。

猫の名前か。
必要かはともかくとして、自分が決めても良いのだろうか。
まあ、猫自身に名前を決めさせる事はできないが。
しかし…名前とは、一般的にはどう決めるのだろうか?
自分には思いつかない。

「どう決めた…?です」
自分は隣にいる近藤さんに声をかけた。
「え?」
翔を見ていた近藤さんは驚いてこちらに顔を向けた。
「子供の名前とか。参考に…です」
「えっとですね。翔は……」

ほんの一瞬、表情が曇った。
しかしすぐに
「私の両親が、私が男の子だったらつけたかったと言ってた名前なんです」

微笑みを浮かべてそう答えた。
それが、少し悲しそうに見えたのは気のせいだろうか。

「…参考にする…です」
「ねこさん、おなまえできる?」
「…近いうち…です」
後でばあちゃんに相談してみよう。
「やったね、ねこさん」

翔が嬉しそうに笑い猫を見ると、猫が翔に瞬きをした。
「翔、そろそろ行こっか」
近藤さんが翔に声をかけて手を繋ぐ。
「では、私たちはこれで。よかったらまた、猫さん触らせてくださいね」
「ああ……また、です」
「ようさん、おいしゃさん、ねこさん、さようなら」
翔が手を振るのに、夜斗が振り返す。
「さようなら」
そのまま親子の姿が見えなくなるまで夜斗と見送った。



*  *  *


「珍しいな。夜斗から話しかけるのは…」
注文された薬膳粥を机に置いて斜め前の席に座る。

夜斗はいつも午前の診察が終わってから遅い昼飯を食べに来る。
今日のように午後の診察がない土曜や水曜は他の店に行ったり自炊をするようだが
まだどうするかを決めてなかったらしく、せっかくだからとそのまま店に入って粥を注文した。

「洋兄さんもきっと同じ事を考えたと思いますが…。猫君の通訳をしたように見えたのが気になりまして」
「ああ…」
木製のレンゲで粥を掬い、息を吹きかけて冷ましてから口に入れる。

先程、猫の名前がほしいと言った時。
たしかに自分にもそう見えた。

「聞く所、彼は動物に好かれやすいそうです。猫だけじゃなく、犬や鳥もよく撫でられにくるとか」
「夜斗と同じ…?」

夜斗は様々な動物好かれ、会話ができる…と聞いた事がある。
店に来るあの野良猫ともよく話していると聞いた。
あの猫は口数が少ないところが自分と似ている。と夜斗に言われた事がある。

「いえ。ただ、好かれているみたいです。会話はできない。けれど時折、何が言いたいかなんとなく分かるそうです」
「そうか」

おそらく翔には生まれながらにして、生き物に好かれる。という力でもあるのだろう。

この星見ヶ丘という街にはさまざまな伝承が幾つかあると、昔からばあちゃんに聞かされていた事を思い出す。

山には気に入った人間を時折連れて行ってしまういじわるな神が居るとか。
海は満月の夜になると死後の世界に繋がるとか。
夕暮れ時に別の世界から迷い込んだ生き物が空を泳いでいるとか。
なんらかの神に供物を捧げるとその人や物に神が宿るとか。
他にも、様々な伝承がたくさんある。
真偽が確かでないものもあるが…。
例えば自分の力や、夜斗の様々な動物好かれ会話ができる。と言うのもそのうちの一つになるだろう。

「もしかしたら。僕より、洋兄さんの方が能力としては似てると思いますよ」
「…大した事ない力だ」
まあ、仕事には少し使える気はするが
正直あってもなくても変わらない。

「僕は好きです。洋兄さんの力」
「…そうか」

猫舌な夜斗は少しずつ粥を口にする。
それを見ているつもりは無いが、特に話す事も無ければする事もない。
視線を外し店の入り口を見ると、また野良猫がこちらを見ていた。
何か用があるのだろうかと見ていたが
すぐに去っていく。
その後すぐ、首輪をした白黒のハチワレ猫が通る。
この横道の一番奥。動物病院の隣に住んでいるばあちゃんの同級生、ゆきさんの家の猫だ。
よく野良猫と一緒にいるのを見る。仲が良いらしい。

そういえば、ばあちゃんに夜斗にも声をかけてくれと言われていたのを思い出す。

「夜斗。ばあちゃん達が花見に行ってるようだが…来るか?」
「僕は遠慮します」
まあ、断られるだろうとは思っていた。
店の客やばあちゃんの知り合いとも面識があるとは言え大勢が集まる所には人嫌いの夜斗は行かないだろう。

「今日は『CloverGarden』に行くので」
「ああ、そうか」

夜斗の同級生が経営しているという人気のカフェバー。
この坂道商店街の中では一番標高が高い横道の奥にある。
高所な為、街を一望でき、海まで見えるテラス席がある。
テラス席は使った事が無いが自分も時折だが夕飯を食べに店を利用する事がある。

今の時期ならそこから見事な満開の山桜も見れるだろう。
店にはグランドピアノが置いてあり、
その同級生に頼まれて今年に入ってから土日のどちらかの夜にピアノの演奏をしている。
と以前聞いた。

「今はテラスの方の折戸を開けてるそうなので、もしかしたら下の公園まで聴こえるかもしれませんね」

夜斗が言うには、テラス席から公園が少し見下ろせるらしい。
だがその公園は結構広く、ばあちゃん達意外にもたくさんの花見客が来ているだろう。
「聞こえねえだろ…」
「皆さん騒いでるでしょうからね。正直店でもそうですよ」

ライブと言うわけでなく、あくまでも店のBGMとしての演奏だから特に注目されないから楽です。と夜斗は言う。

「それほど演奏も上手くないですし…。ご馳走様でした」

それは、誰と比べてか…と思った。
ガキの頃からよく聴こえていたピアノは
どちらの演奏も綺麗だと思っていたが。

ぴったりの金を机に置いて席を立ち、店を出ようとしたところで
「そうだ。洋兄さんには言いますね」
そう振り返った夜斗は、ここ数年ずっと見ていない嬉しそうな満面の笑みを浮かべていた。

「もうすぐ、秀都(しゅうと)が帰ってくるんです」


*  *  *


17時に店を閉めて、麓の方にある酒屋に寄り、1リットルのミネラルウォーターと緑茶を3本ずつ買う。
人数を考えたら足りない気もしたが、余らせるよりいいだろう。
そして山の坂道を上り公園へとむかう。
山頂にある大きな望遠鏡のある図書館と、少し低い位置でその図書館を挟むように建つ中高一貫学校の校舎がいつもより明るく見えた。
少し首を右に向けると空に満月に少し足りない月が登り始めていた。
今から向かう公園からなら長い時間、月がよく見えるだろう。
ばあちゃんの知り合いには酒好きも多い。花見酒、さらに月見酒だ。と飲酒量が増える気がする。
もっと水を買っておくべきだったかと思い始めた。

「来たね、洋」
公園内にはたくさんの花見客でいっぱいだが、あらかじめ詳しい場所を聞いていたのですぐに見つける事ができた。
20人近く居るのではないかという大所帯だが
4・5人ずつで集まりそれぞれ楽しんでいる。
シートにはまだ空いているスペースがある。
自分の店を閉めてから参加したり、昼から飲んでる連れを迎えがてら少し飲みに来る人もいると聞いていたので
最終的には50人近くになる。
見上げると、山桜で遮られているが
今頃、夜斗がピアノ演奏をしているだろう『CloverGarden』のテラスを囲う柵が少し見える。
流石にそこに誰かがいるかは確認できない。


「水…あと、茶も」
ばあちゃんに買ってきたミネラルウォーターと緑茶を渡す。
「ありがとう。丁度切らしてたんだ」
緑茶を1本その場において、あとは周りに渡している。
見たところ昼から参加組は酒に強い奴も弱い奴も、酩酊の一歩手前に見える。
その中で1人、酒に対してワクなばあちゃんが各々限度を超えないようにと取り仕切っているようだ。
しかし袋にまとめてある酒瓶を見るとかなりの本数が空になっている。
そして
「遅くなってごめんよー、ほら良いもん持ってきたよー。こっちは辛口、こっちはデザート代わり」
「いやー、今日は店閉めるの遅くなって。これ、うちの秘蔵の酒なんだけど飲んでみないかい?」

夕方からの参加組がまた新しい酒を持ってくる。
もし昼から来ていたらどれだけ飲まされるのか…。
誰も倒れたりしていないのは、ばあちゃんのおかげだろう。

「ほら、好きに食べな。あと無理に飲まされそうになったら言うんだよ」
下戸な自分にそう声をかけて紙皿に稲荷寿司や唐揚げ、肉巻き、煮物を乗せて渡してくれた。

「わかった」
受け取って遠慮なく口に入れる。
甘みのある稲荷寿司は、ばあちゃんの同級生のゆきさんの物だ。甘い味はあまり好きではないが、これは別だ。
ゆきさん、最近初孫が生まれたと言っていたな。
少し胡椒が効いた唐揚げに、中にオクラが入った肉巻きは、ベーカリーほしみの向かいにある、ほしみ食堂のものだ。
数年前まではまだ味にバラつきがあったが今では学生のときに食べてた親父さんの味と一緒だ。
大きく切った根菜の煮物はこの公園のすぐ下に住んでる林田さんの奥さんのものだ。
大きい具材にも関わらずしっかり味が染みている。
さっぱりした味わいは梅干しを入れていると言っていたな。
煮物と言ったら真っ先にこの味を思い出すくらい馴染んだ味だ。
どの料理を食べても、自分を育ててくれた味で、食べているとなんとなく胸が温かくなる。

「うまいだろ?」
食べている所を見ていたばあちゃんは満足そうに笑った。
自分は頷いた。

「洋坊!食ってるかー?」
「うちの煮物好きだもんな、いっぱい食うんだぞ?」
「それよかどうだ?坊、そろそろ飲めるようになったんじゃないか?」
すぐ隣で話していた『ベーカリーほしみ』の2代目の松野さんと、家が近いからと朝から場所取りをしてくれた林田さんに酒をすすめられる。
林田さんはともかく、松野さんはさっき到着したばかりなのに2人ともかなり酔っている。

「だめだよアンタ、洋くん飲めないんだから。洋くん。これ好きでしょ。食べる?」
松野さんの奥さんが大きなタッパーにはいった沢山の小さいサンドイッチを紙皿に乗せてくれる。
「いただく…です」
ツナサンドとたまごサンド、どちらにもたくあんが入っている。
よく学校帰りにもらっていたサンドイッチだ。
敢えて不揃いに刻んで入れてあるたくあんのおかげで味だけでなく食感も良く、美味い。

「やっぱ洋坊は飲むより食う方か。でもちょっとくらい飲めたらいいのになあ?」
言いながら松野さんが酒の入った紙コップを差し出す。
それをばあちゃんが奪い取って一気に飲み干した。
「そうやって洋に飲ませて倒れでもしたら、うちまで担いでいってもらおうか」
「そりゃあ困る。洋坊を担いだら親父みたいに腰やっちまうや」
そう言って大きな声で笑った。
「しっかし、ほんとでっかくなったよなあ。うちの栄養満点な煮物のおかげかもな」
いつものように林田さんに頭を乱暴に撫でられる。
「嫁も坊が食べてくれんならって張り切ってよ。いっぱい食ってくれ」

そして林田さんと松野さんは、ばあちゃんも連れて他の集まりに加わりにいった。

「そうそう、聞いてよ洋くん」
松野さんの奥さんが紙コップに緑茶を注いで渡してくれる。
受け取って、サンドイッチと一緒に飲み下す。
「うちに新しく来た子、近藤さん。覚えてる?」
「ああ…です」
昼間に会った自分の胸くらいまでしかない小さい女、そして女の腰くらいまでしかない小さい子供を思い出す。
「今日、息子ちゃんを連れて挨拶に来てくれたんだけどね。色々あってあの人泣いちゃって」
松野さんと林田さんを見てみると少し離れたところの集まりに酒を注いで行っている。
そしてばあちゃんはいつの間にか同級生のゆきさんと一緒に飲んでいるようだ。
おそらく、ゆきさんの初孫の話で盛り上がっているのだろう。

「で、お店のパンをたっくさん持たせてたんだけど、かえって迷惑だったんじゃないかって、私思っててね」
「何故…?です」

松野さんの奥さんは周りを見て、耳を近づけるようにと手招きした。
「どうやらあの子、シングルマザーらしいのよ」
声を顰めて、そう言った。

「2人だけなのに、食べきれないかもしれない量をもらいそうになって、でも断れなくて…て。結局無理させちゃったんじゃないかって」

昼間に見た、紙袋いっぱいのパンを思い出そうとするが、パンよりもその紙袋を持つ細い腕が鮮明に浮かんだ。
「歳とると、お節介が激しくなっちゃってね…若い子には迷惑なんじゃないかっておもって」

「無理、してねえ…です」
昼に会った時。そして見送った時。
翔が何度も紙袋を気にしては2人で笑っていた。
きっと、凄く嬉しかったと思う。
そう言っても、この人はまたお節介してしまうのでは。と思うのだろう。
「次から、必要分を聞いてから…です」
そうしたら、押し付けにもならない。と思う。
「…そうね、そうするわ。洋くんに言われたら大丈夫な気がしてきたわ。でも、気をつけるわね」

安心したように、微笑んだ。

「…ほしみのパンは、毎日、毎食でも、飽きねぇ…です…から」

朝食は必ず、ベーカリーほしみの食パンをトーストして食べている。
ずっと昔から、ばあちゃんも、自分も。

「ありがとうね、洋くん」

きっとあの親子も気に入って、毎朝ベーカリーほしみのパンを食べてくれる。
今日渡してしまったと言う分も、きっと問題なく美味しく食べるだろう。



ああ、それで思い出した。

猫の名前…どうしようか。