星見ヶ丘坂道商店街 2話-品川 蘭-①

月のない星空の夜。駅前。煌びやかなイルミネーション。
本屋のバイトが終わり徒歩で帰宅しようとする。

冷たい強風に煽られ寒さを感じ、マフラーを付け忘れていることに気づく。
トートバッグからマフラーを取り出すと、バイト前に購入した本が引っかかったのか
バッグから飛び出した。
拾う為に手を伸ばすと、先に誰かが本を拾って、渡してくれた。
お礼を言って本を受け取ろうとすると、その人は言う。

「みつけたよ。三ノ宮の王子様」


========


いつも、そこで目が覚めて「ああ。いつもの夢だ」と思う。
こういう日はすぐにベッドから出て支度をするようにしている。
目覚まし時計を見ると朝8時。いつもより1時間も早かった。
歯磨きと洗顔を終わらせ髪を簡単に整える。
ペーパードリップでマグカップに直接コーヒーを抽出する。
行きつけのカフェで購入しているブレンドコーヒー。
苦味が少し強めの深みのある味で冷めてもあまり酸味が出ないところが気に入っている。
それを朝は必ずブラックでいただく。
そろそろ無くなりそうだし、ストックもあと1つしかない。また買いに行こう。

コーヒーが入ったマグカップをベッドの横にある折りたたみ式のローテーブルに置いて、クッションに座る。
元からテーブルに置いてある少しくだびれた台本に目をやると
『海鳴りと鯨とめぐる者』というタイトルが目に入った。
今日はこの舞台の千秋楽となる。

コーヒーを飲みながらパラパラと台本を捲り、セリフやメモ書きをざっくりと読む。
普段は本を読みながらコーヒーを飲むのだけれど、ここ1週間の舞台本番の期間は本でなく台本を読むようにしている。
最後まで目を通し終わったところで目覚まし時計が音を立てた。

せっかくだし、早くに出てしまおう。
コーヒーを飲み終わりマグカップを洗って着替える。
細かいストライプ柄のワイシャツとデニム生地のスキニーパンツ。
そして日焼け止めをしっかり塗って、腕時計を付ける。

戸締りをしっかり確認し、携帯をトートバッグに入れる前に一度メッセージを確認する。

無料通話アプリ内の劇団グループにメッセージが来ていた。
いつもの時間ぴったりに由良(ゆら)が送る朝の挨拶だった。
「おはよう」とだけ送信して、バッグに入れる。
そうだ、今は暖かいけれど夜に寒くなるといけない。
少し厚手のカーディガンもトートバッグに入れておこう。

「品川(しながわ)さん。おはようございます」
ちょうどお隣さんも出るところだったらしい。
「おはようございます」
「今日が最終日でしたっけ…?がんばってくださいね」

お隣の初瀬(はせ)さんは、この街で一番栄えている駅から地下鉄で一つ隣の駅にある『North Line cafe』というカフェの店員さん。
所属している劇団専用の劇場に近いのと、静かな雰囲気が好きで台本を黙読する時や読書の為にそのカフェをよく利用している。
いつも飲んでいるコーヒーもそこで購入している。
常連だからか初瀬さんや、他の店員さんからもよく声をかけられる。
そしてつい先日、帰宅途中に会って同じアパートの、しかもお隣さんだったと判明した。

そこから、もしよかったらと今回の舞台の公演に誘ったら、初日の月曜日に…おそらく恋人と一緒に来てくれた。

「ありがとうございます。では、行ってきます」
「行ってらっしゃい」

アパートの階段を降りて、歩きで劇場へ向かう。
いつもは地下鉄を使うけれど、早く起きたのとすこし身体を動かして温めておきたいので今日は歩く事にした。
駅5つ分なのでゆっくり歩いても1時間程。ちょうど早く起きた時間分になる。

こうして歩いて目的地に向かう。という事を時折するのだけれど、その度にバッグを変えた方がいいのだろうか。と思う。
トートバッグだとどうしても右肩に掛ける癖があって背骨や骨盤が歪んでしまう。
だからといって両肩で背負うリュックサックは少し苦手…。
そう思いつつもかれこれ3年は経つはず。
もういっそ諦めればいいのに。とは思うけれどやはり舞台に立つ身としては姿勢が歪んでしまうのは気になる。

そういえば。有守(ありす)さん会ったのも3年前だったな。

今朝見た夢を思い出す。
その日は、月は無いけれど綺麗な星空の夜で、その星空を反射するかのように、駅前は煌びやかなイルミネーションが飾られていた。
駅内にある本屋でのバイトが終わって、その日はなんとなく徒歩で帰宅しようと思っていた。

少し歩いたところで強いビル風に煽られて、寒くて、マフラーを付け忘れていることに気づいたんだ。
トートバッグからマフラーを取り出したら、バイト前に購入した好きな小説家、高原 道(たかはら みち)先生の新刊の文庫本が引っかかりバッグから飛び出して地面に落ちた。
文庫本を拾おうと手を伸ばすと
「大丈夫かい?」と言って先に本を拾って渡してくれた。
お礼を言って本を受け取ろうとすると、あの人は言ったんだ。
「みつけたよ。三ノ宮の王子様」

王子様。
高校生の時にそう呼ばれていた事を思い出す。
三ノ宮高等女学院という女子校に私は通っていた。
高校では演劇部に所属していて、身長が160㎝以上だと女子の中では高い方だからか1年生の時に男役を演じ、高評価を貰った事がある。
それから毎度男役を当てられ、ついたあだ名が『王子様』
その人がそう呼んだことが気になり、そのまま24時間営業しているファミリーレストランに移動して話を聞いた。

そして私は劇団Puppet Project(パぺットプロジェクト)に入団する事になった。


予定より1時間程早く、劇場に着いた。
今の時間だと、まだ誰も来ていないはず…と思ってポーチから出した鍵を差し込み…
「あれ」
左周りに半回転すれば開くはずの鍵が開かない。
既に鍵は開いていた。
中に入って鍵をポーチにしまう。
今日は公演が15時からだし。
皆、早くても11時くらいに来ると思っていたのに…誰がいるんだろう。

Puppet Project専用のこの小さな劇場は
横長のロビーの右側と左側に1つずつ、200人程が座れる客席への扉がある。
入り口から入って左側に数十歩で客用トイレ。逆側に行くと3人掛けソファが4台ある小さな休憩スペースがある。
そのスペースの近くに関係者以外立ち入り禁止の扉があり、その扉の奥に楽屋、舞台裏へと続いていくのだが
なんとなくそちらではなく、ステージの方にいる気がして
そのまま客席へと向かう二重の防音扉を開ける。

客席を照らす電灯が薄暗く点灯されて、すり鉢状に並んだ客席がうっすらと見える。
その円形の劇場の真ん中にある舞台には箱馬や平台、軽い木材を組み立て、上から真っ白な布を被せただけのオブジェのような舞台装置。

左右から白と水色の2つのスポットライトに当てられた舞台装置に座っているのは、少しオーバーサイズな黒い五部袖のワイシャツを着た青年。
よくみるとワイシャツの右袖に白糸で蔦のような植物を模した刺繍が施されているのを見る。私服だと思ったら、どうやら今回の衣装を着ていると分かった。

金が混ざったような茶色の前髪が鼻先まで伸びていつも目が隠れているので判断がつき難いがオブジェに背中を預けて寝ているように見えた。

しばらく見ていても身動きしないので
わざと足音を鳴らすようにして青年に近づく。
あと一歩で目の前に立てる位置で、青年はそのままの態勢で前髪をかき上げ、ゆっくり目を開けた。

「おはよう」

その人の真っ黒な両目とピッタリと視線が合って驚いたが、すぐに黒いカラーコンタクトをしているとわかった。

「…おはようございます。有守さん、着替えるの早いですね」
すぐ平静を取り戻しそう返すと
「今日で終わりだと思ったら名残惜しくてね」
呟き、親しみ深いが少し影を落とした笑みを浮かべた。
普段の有守さんとは違う笑みに、もしかして役に入っているのだろうか…と思った。
けれどシャツは衣装だけれどズボンは私服だし。
カラーコンタクトをしている割にはウィッグをかぶっていない。
人をからかう時はともかく、誰も相手が居ない時に有守さんがこんな半端な姿で役に入る事はない。

「何か、したんです?」
少し疑うように聞いてみる。
すると有守さんはいつものように長い前髪で目を隠し、いつものような何となく胡散臭く見える笑みを浮かべ悪びれもなく言った。
「コーヒーをね。零しちゃった」


楽屋に行くと有守さんが着てきたらしいロングスリーブのTシャツが椅子の背もたれにかかっている。
机には有守さん専用のマグカップ。
そこにはまだ冷めきってなさそうなコーヒーが少し残っている。
薄いカーキ色のシャツを広げるとコーヒーを胸元からお腹まで派手に溢したのがよくわかる。
「…衣装じゃなくて良かったです」
幸い、この劇場には衣装管理の為にとランドリールームがある。
そこにある乾燥機能付きの洗濯機で洗ってしまおう。

「洗ってきますから、使わない衣装でも着ていてください。また汚されたら困ります」
「そうだね。ありがとう」
そう言って、隣にある衣装保管と着替えに使っている和室の楽屋に代わりの服を取りに行った。

この光景を、例えば梨舞(りま)が見たら「意味がわからない」と言い出すだろう。

コーヒーを零したのは有守さん、だったら本人に洗わせればいいじゃない。なんで当然のように蘭(らん)先輩に洗わせてるの?おかしいでしょ。

うん。梨舞なら言いそう。
でもわたしは、これを見て真っ先に
わたしが洗いたい。と思った。

そう広くないランドリールームに入り、まずコーヒーが溢れたところをもみ洗い…。
を、する前に…。少し有守さんの服を身体に当ててみる。
有守さんは細身だし、私と身長も近い。
とは言え、やはり性別による体格の違いだろうか、なんだか肩幅が大きい。
あと、袖と、丈も少し長い。

…わたしは何をしてるんだろう。早く洗っちゃおう。
見たところ、まだ零してそんなに経ってないみたいだし…。

洗面台に服を置いてすこし水で濡らす。
棚にある洗濯用の中性洗剤を少しかけて揉むようにしてコーヒーの汚れを浮かせる。
「あれ、そのまま入れないんだ」
ほぼ耳元で囁かれビックリして身体が跳ねた。
声がした方に視線を移すと胸元に猫の絵が描かれた白いジップアップパーカーを着ていた。
2つ前の公演で使っていた有守さんの役の衣装だ。

いつものように長い前髪で目を隠し、何となく胡散臭く見える笑みを浮かべている。
そして、近い。

「…そのまま入れたら、ちゃんと落ちませんから」
言いながら半歩だけ有守さんから離れる。
「そうなんだ。詳しいね」
「そうですか?」
「僕はね、知らなかったから」

洗濯機に入れて、スイッチを入れる。
「お昼には終わります」
「ありがとう。蘭が早く来てくれて助かった。愛してるよ」
いつも冗談に言う言葉を受け、分かっていても顔が赤くなりそうだったので逃げるようにランドリールームを出ようとし、ふと思った。
「コーヒー零したんですよね。火傷はしてないですか?」
「ん」
パーカーを捲って見せてくる、特に目立った痕はない。
おそらく、半分くらい飲んだ後で零したのだろう。
それなら淹れたてじゃないし、そんなに熱くなかった…と思う。
服だけで済んでよかった。

「…あまりそういう事しないでください」
早足で楽屋に戻る。
…薄く付いた腹筋の形見えて、動揺しそうになった。
いや、もうしていたから顔を見られないように早足になっている。

楽屋の扉を開けると、女性が2人座っていた。
「有守さん。蘭ちゃん。おはようございます」
腰まで届く長い灰色の髪をポニーテールにした方が劇団員の由良(ゆら)。
「おはよう」
茶髪のミディアムショートの方が真呼(まこ)。
こちらは劇団員ではないが公演の度に色々と手伝ってくれる。

2人で紅茶を飲みながら談笑していたようだ。
「…おはよう由良、真呼」
挨拶しながらも、部屋の扉を閉めようとした所を
「おはよ。んー、邪魔したかな?」
少しも悪びれもなく言う有守さんに止められた。

6人掛けのテーブルなのに由良と真呼は隣同士で座っている。さらに2人の距離が近い。
何なら、真呼が由良の頬に手を添えてる。
わたし1人だったら楽屋に入れずそのまま扉を閉めて立ち往生していた所だ。

「いいえ。いま真呼ちゃんに髪を結えていただいてましたの。朝ちょっとバタバタしちゃいましたので」
そう言って微笑んだ。

由良と真呼は同性同士の恋人。
わたし自身女子校出身で、王子様と呼ばれていたのもあったからか特に後輩に恋愛対象として見られていたこともある。
それに、周りにも付き合っていた子達がいたからか同性同士の恋愛にそう偏見はないけれど
ただこう…2人きりでいちゃい…いや、仲睦まじくしている所に入っていくのは…何というか、ばつが悪い。
こういうのは、見せる事でも、覗く事でもないはずだ。
でもうっかり見てしまったら、どうしたらいいのか…。
今は、有守さんの無頓着さに救われた。

「よろしければお2人も召し上がります?昨夜やっと届いた今年のダージリンのファーストフラッシュですの」
おおらかな性格の由良も、特に気にしていないという様子で少し大きめのティーポットを軽く掲げた。
「もらおうかな」
そう言って、有守さんは由良の向かいになる一番近くにあった椅子に座った。
「…じゃあ、わたしも」
一瞬悩んだけれど、有守さんの隣に。
椅子を引くようにして少し距離を空けてから座る。
「少しお待ちくださいな」
給湯スペースというよりは、小さなキッチンに向かい棚からティーカップを2つ取る。
紅茶好きの由良のおかげか、この楽屋にはティーポットやカップ。普段は使わないがティーソーサーも、団員数以上に置いてあり、どれも綺麗にして置いてある。
マグカップは個人専用のものが主だが、カップは劇を手伝いに来てくれる人に出す用もある。
また、ガスコンロに小さな鍋やフライパン、冷蔵庫も。

正直、この劇場は住もうとおもえば住めるくらい設備が備わっているなと思う。
ランドリールームの奥には小さいがシャワー室もある。
布団や毛布はないけれどタオルや上着…なんならただの布とかでも良いなら
隣の和室の楽屋で寝れないこともない。

既に沸かしておいたお湯をカップに注いで温めてから持ってきてくれた。
そして目の前でティーポットの紅茶を注いで出してくれる。
紅茶に見えないくらいの、淡い黄金色の液体を一口飲むと花や果実のような甘い香りが抜けて、爽やかな味わいを感じた。
そしてすっきりとした渋みも感じる。
「これ…紅茶なの?」
正直。ダージリンとかファーストフラッシュとか言われても、劇団に入るまでは紅茶が苦手で避けていたわたしにはピンとこない。
でもこれは、なんというか…。

「爽やかで、まるで緑茶のようでしょう?」
「うん…。美味しい」
たしかに、緑茶に近い気もする。その為か馴染みやすい感じがする。
「お口にあったようで嬉しいですわ」
真呼の隣に座った由良が嬉しそうに微笑んでいる。
「茶菓子もあるぞ」
そう言って真呼さんが出してくれたプラスチックの容器。
中には丸くてピンク色の桜餅が並べられている。
どうやら人数分あるようだ。
「紅茶に和菓子か…」
有守さんが桜餅を取って、一口でたべる。
「先程も申したように、緑茶に近い味わいなので、きっと合いますわ」
紅茶で桜餅を流し込み
「うん、ほんとだ。合うね」
と称賛した。
「品川も食べてくれ。真呼の家のだ」
真呼さんの実家が老舗の和菓子屋だと、最初にわらび餅を持ってきてくれた時に聞いた事がある。
この劇場からも見える星見ヶ丘と呼ばれている山。
山頂には大きな天体望遠鏡が備えられた図書館と、中高一貫校が併設している。
そこに向かう一本の大きな坂道から左右に枝分かれした横道に、たくさんの店や住宅が並んでいる。
坂道商店街と呼ばれるその坂の中腹あたりに、真呼さんの実家『茶寮こばやし』がある。
元々は和菓子屋さんだった所を明治初期に喫茶店併設にした。と聞いたことがある。
たしか梨舞がそこを気に入って、よく利用していると言っていた。

つぶつぶとした皮の桜餅を一口食べると独特な香りが口いっぱいに広がる。中身はこしあんだ。
きっとつぶあんが苦手な松葉(まつば)の為にこしあんを持ってきたんだろう。

最近はさくら味のお菓子や飲み物がカフェやコンビニに色々あるけれど、やはり一番は桜餅だなと思う。
と言うよりさくら味は細かく言うと桜餅味ではないだろうか。
3口ほどで食べ終わり、紅茶で飲み下す。
「美味しい…ごちそうさま」
「2人とも葉を食べるのだな」
食べている時じっと見てくるから何かと思ったら
葉っぱを食べるかどうかを見ていたようだ。
「もしかして、食べないものなの?」
「いや、決まりはない。元々香り付けや乾燥を防ぐためにあるだけだからな。つけたままだと味が強くなるから真呼は好きだが。それが苦手という奴もいる」
真呼さんが由良に視線を向ける。
「ちょっとしょっぱく感じるので…わたくしは昔から取る方ですの。それで他の皆さんはどうかしらって、朝から真呼ちゃんと話してましたの」

…あまり桜餅の葉っぱについて考えた事は無かったな…。
わたしの周りはみんな葉っぱごと食べていたし、それが当然だと思っていた。
あ、でも…。
「この前、同じバイト先の人がおやつにって桜餅を持ってきてて、葉っぱを剥がしているのを見た事があるかな。その人は葉っぱだけを先に食べていたけど」
「へえ、そんな食べ方もあるんだ」
有守さんが相槌を打ちながら携帯を触り出した。
「わたしもそう思って聞いたら、葉っぱの塩気で口をしょっぱくしてからの方が桜餅自体が美味しく感じるらしくて」
「塩気のあるもの食べた後に甘いものってワケだね」
「そこから、でも柏餅の葉っぱはなんであんなに食べにくいんだろうって話に…」

全員が一瞬沈黙し、まず有守さんが口を開いた。

「柏餅の葉っぱは食べた事ないなあ」
「食用ではないからな。食べても特に害はないが」
「それも桜餅のように剥がして先に食べますの?」
「うん。その後口直しに柏餅を食べるみたい」
「口直しって事は好んで食べてる訳じゃなさそうだね…。そろそろ松葉達がくるみたいだから車庫空けてくるね」
「あ、はい。お願いします」
席を立ち携帯をポケットに入れ、有守さんは楽屋を出て行った。
「そういう奴もいるんだな。何故葉を食べるのか聞いてみたいものだ」
「もったいない…とか?なんならその人、今日来るはず。なんとか最終日までにチケ代稼いで行くって言ってたから」
「稼ぐ…合法か?」
「んっ…!」
真呼のまさかの言葉に吹き出しそうになる。
「い、一応。その人はジャグリングのパフォーマーで、公園とか駅前とかの路上でやって稼ぐって。合法…て言うか、許可取ってるかはわからないけれど」
「違法か」
また吹き出しそうになったのを、なんとか抑えた。
「そういうのは実際は許可は得られないことが多くて、クレームとかが来ない限りは黙認が殆ど。と、知り合いから聞いた事ありますわ」
「そうか。なら、ギリギリ合法だな」

…まあ、合法。合法ではあるけれど。
その言葉を選ぶのはどうかと思う。
もうちょっと何か…でも、合法のがわかりやすい…のかな…?

「おはようございまーす」
楽屋の扉が開き、明るい挨拶と共に入ってきたのは小学生に見えるくらいの小柄な女の子。
「おはよう、梨舞」
「おはようございます梨舞ちゃん」
「おはよう有馬(ありま)。食うか?」
「なーに?」
私の隣にきて、先程まで有守さんが座っていた椅子に座る。

「桜餅だ!もしかして真呼さんとこの?」
「ああ」
「やった!茶寮こばやしの桜餅大好きなんだー」

桜餅を一つ取って、一口で半分程口に入れる。
「お茶、いれますわ」
由良が席を立ち新しいカップをお湯で温めてから紅茶を注ぐ。
「どうぞ」
と出された紅茶を飲んだ。
「ありがと由良さん。うん、美味し!」
もう半分を口にいれて味わい、紅茶を飲んだ。
「有馬は葉を食べる方か」
「あー。葉っぱ?物によるかなー」
カップを置いて一息つく。
「茶寮こばやしのだったら、桜餅2種類あるでしょ?道明寺と長命寺。道明寺だったら一緒に食べちゃうし、長命寺だったら外して食べるよ。それがおすすめって聞いたから。
スーパーとかのは筋が残ったりするのがあるから外すかな」
「長命寺?」
説明する時に人差し指を立てて話す癖のある梨舞から聞きなれない単語が出てきて気になって聞き返した。
「桜餅は2種類ある。道明寺粉を蒸して餡を包んで丸くした物が道明寺。
小麦粉を伸ばして焼いて作った皮で餡を巻いたものが長命寺と言われているな。この辺りでは長命寺は珍しい方だ」
真呼が丁寧に説明してくれたけれど
その説明だと長命寺の方は
「…どら焼きとか、クレープみたい」
小麦粉を伸ばして焼いて餡を入れる。
多分もっと色々材料はあるのだろうけれどそう思ってしまった。
「地域の違いだけで案外似たような物があるのかもしれないな」

もしかしたら、小麦粉を練って焼いた物に餡をいれるお菓子はわたしが想像している以上に世の中に沢山あるかもしれない。
今度時間があったら調べて、作れそうなら色々作ってみようかな。
みんなで食べ比べたりするの、楽しいかも。

「そういえば、昨日夜やってた映画なんだけど。えっと…『音楽室の旋律に君は』ってやつ」
紅茶を飲み切った梨舞が口を開く。
「それ、原作が好きで当時映画を見に行ったよ。テレビでやってたんだ」
私の部屋にはテレビはないけれどその映画は見たことがある。
今ではかなり有名な若手俳優さんのスクリーンデビュー作だ。
でもわたしはその俳優さんより、原作が好きで見に行った。
原作者は高原 道先生。
中学生くらいの時に「夜長の月の初舞台」て作品を読んでから文体とか言い回しが気に入って今でも新刊が出る度にバイト先の本屋で買っている。
そして道先生の宣伝ポップは必ず書かせてもらっている。

そういえばあの時期に気に入って何度も読み返してた本があったな…。
作者は忘れちゃったけど、タイトルは「星の君」
あの作品は文芸雑誌で新人賞をとり、そこから話題になって瞬く間にベストセラーになり、映画化されるはずだった。
けれど原作者の意向で映画化は流れたんだっけ。
うん。また読みたい。実家にあるはずだし、取りに行こう。

「わたくしも当時映画館に見に行きましたわ。真呼ちゃんと一緒に」
「ああ。行ったな。確か八宮が出ているんだろ?」
「そう、びっくりしちゃった!脇役だけど主人公の友達グループの中にいたの!」
え?有守さんがあの映画に?
それは…知らなかった。

「なーんの話?」
いつもの何となく胡散臭く見える笑みを浮かべて有守さんが戻ってきた。
その後ろには松葉と、松葉が車で迎えに行っていた明穂(あきほ)さんと明(あきら)さん。
有守さんはそのまま私の横に座る。
先程座った席とは逆側。
わたしが今の席に座る時にそちら側に少し椅子を引いて座ったからか、距離が近い。
その向かい側に松葉が座った。

「昨日テレビでやってた映画の話。有守さん『音楽室の旋律に君は』て映画にでてたんだね」
「アタシも昨夜見たわ!あの時の有守ちゃんかわいかったわね〜」
「今でもかわいいでしょ?」
戯けるように頬に人差し指を当てた。
「そうね〜かわいいわ。あ、由良ちゃんいいのよアタシやるわ」
由良がお茶を入れようとすると明穂さんが止めて、松葉と明さんと自分の分の紅茶を用意した。
明穂さんと明さんはメイク台の椅子を使う。
そこに、由良が桜餅を配る。
見てみると明穂さんも明さんも、葉も一緒に一口で食べた。
しかも、同じタイミングで口に入れ、同じように咀嚼し、また同じタイミングでお茶を一口飲んだ。
ほぼ同じ顔でほぼ同じ動き。
双子ならではなのだろうか。いつ見ても驚き、感心する。

「懐かしいね。4・5年前かな?」
受け取った桜餅を見ながら松葉が聞くと
「7年です」
明さんが訂正した。
「あれ、そんな前だった?」
「撮影したのは高3の時だからそうだね。その時助監督やってた人が知り合いで、声かけてもらったんだよ」

有守さんが3年生だとわたしは初めての大会の頃だし、もし大会で有守さんを見ていたとしても映画ではわからないだろうな。
それに、まさに今話題になっているのに
主人公の友達グループがいたのは思い出せるのにそれぞれの顔を全く思い出せない。

「気になるんならまた打ち上げの時に話すよ。じゃ、全員揃ったし。そろそろ準備始めようか」

壁掛け時計を見て有守さんが席を立つ。

「うん。ところでこれ何?おはぎ?」
松葉は桜餅を食べずに手に持ったままだった。
「あら?松葉ちゃんは桜餅食べた事ないの?」
明穂さんが尋ねると、桜餅?と首を傾げた。
「桜餅って小豆を巻いたクレープみたいなやつだよね?」

どうやら松葉は、長命寺桜餅しか食べたことがなかったらしい。

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劇団『Puppet Project』(パペットプロジェクト)

元々演劇が好きで、3年前に劇団を立ち上げたのが団長、八宮有守(はつみや ありす)。
芸名は本名と同じ。
憑依型カメレオン俳優と呼ばれる程の多彩な演技・表現力を持ち演劇、さらには映画界隈でも一目置かれている。

中学の時有守さんに誘われて演劇部に入り、演劇の楽しさを知った矢ヶ崎松葉(やがさき まつば)。芸名は 小崎松葉(こざき まつば)。
綺麗な金髪と新緑の目を持ち、王子様と称される程の整った顔立ちで舞台立つだけで華やかになる存在。
なにより声の出し方、声色による演技とそれに伴う多彩な表情を作ることを評価されている。
他の劇団にもゲスト出演する事もあり、最近は声優としての活動も軌道に乗っている。

磯部由良(いそべ ゆら)は2人の中・高演劇時代の後輩。
芸名は本名と同じ。
演劇を見るのも演るのも大好きで
劇団を立ち上げたら是非誘ってほしい。と学生の頃から言っていたらしい。
役柄の内面に注目し、感情を追体験することでによって、より自然でリアルな演技・表現を行うメソッド演技法を身につけている。
しかし自己の内面を掘り下げるためか、精神的な負担が強いらしく、本人は何かあるといけないからと『Puppet Project』でしか舞台に立たないと決めている。

有馬梨舞(ありま りま)芸名は 有馬莉亜(ありまりあ)
わたしの高校演劇時代の後輩。
彼女も演劇が好きで、一番最初の公演の時に誘ったら見にきてくれて、そこから劇団に興味を持ち、入団した。
140cmもない低い身長でありながら圧倒的な存在感を発する唯一無二の存在。
ただ本人としては、演じるより照明や音響をつかった空間演出が好きなようだ。

そしてわたし、品川蘭(しながわ らん)
芸名は品川藍(しながわ らん)
特に意味はないけれど、なんとなく名前の漢字だけ変えている。
3年前の劇団を立ち上げる直前、街で有守さんに声をかけられ興味を持って劇団に入った。
演技面では…自分では何と言えば良いのか。
その役の心境まで分析して、なりきる。とは思っている。

以上5名の小さな劇団。

主な公演は、朗読劇や、2・3人しか舞台に上がらない物で、いわゆるスタッフ業務も自分達で行う。
ただ今回みたいに全員が舞台に立つ公演の時には、友人達や知り合いの劇団に手伝ってもらうこともある。
特に、由良の恋人の小林真呼(こばやし まこ)さんと、有守さんの友人の水谷 明穂(みずたに あきほ)さんと明(あきら)さんの双子。
この3人にはいつも受付や誘導スタッフとして助けてもらっている。
元々3人とも学生時代に、部員ではないが演劇部を手伝うことがあったらしい。
真呼さんには照明や音響を任せたり、明穂さんと明さんには、衣装を作ってもらう事もある。

今回の衣装もそうだ。
真っ黒な七分袖のボタンシャツワンピースを着て、下にはレギンスを履く。
ウエスト部分に付いている紐を結んで完成。
これが今回の私の衣装。
ワンピースの左袖には白糸で蔦のような植物を模した大きな刺繍が施されている。

「これを着るのも今日で終わりかー。結構気に入ってたんだよね」
白のブラウスの上に、柔らかいレースを何枚か重ねてふわりとした印象を出した真っ白なジャンパースカートに着替えた梨舞。

「明穂さんに尋ねてみてはいかがでしょう?また買わせて頂けると思いますわ」
白いマーメイドラインのワンピースにまた白の厚手のカーディガンを羽織った由良。
どれも明穂さんと明さんの2人が用意してくれたものだ。
明穂さんの本業はファッションデザイナーで、『cours』(クール)という独自のブランドのお店を経営している。
主にメンズ向けだがユニセックスな商品展開もしていて、そこから衣装に使わせてもらったり、新しくデザインしてもらったりする。
代わりに劇団からは新作服の写真モデルをしたり、公演の時に衣装提供のお店としてチラシを配って宣伝協力をしている。
そして気に入った衣装を購入させてもらう事もある。

「そだね!どうせここに置きっぱなしになっちゃうし。こういう普段から着やすいのも好きなんだよね。それに絶対お店で売ってないやつだし」
そう言いながら姿見の前でくるくると回る。
梨舞は普段からいわゆるロリータファッションを好んで着ているからかフリルとかレースとかリボンとかがよく似合う。
でもそういう服は洗い方とか着方が一苦労らしく、普段着にできるものがあれば…とよく言ってる。

「わたくしもこのカーディガンが気に入りまして。こちらは明穂さんのお店で販売してるものらしいので真呼ちゃんとお揃いで買わせていただく事にしましたの」
「へえ、お揃い!いいねー。お揃いって言えばあたし蘭先輩の衣装も好きだなー」
「蘭ちゃんと有守さんの衣装は特にお手製の刺繍が素敵ですわね」

わたしと有守さんが着る衣装は明穂さんのお店にあったデッドストックをリメイクしたものらしい。
元々はわたしが着ているようなワンピースの形でサイズが大きかったのを、有守さんのは五部袖にして丈を切りウエストの紐を外してメンズシャツに。
わたしのは肩を詰めサイズ直しをして七分袖にしたようだ。
そして袖の蔦のような刺繍は明穂さんがデザインして縫ってくれたもの。
わたしには左袖。有守さんには右袖にある。

役柄から、できたら同じような衣装がいい。と有守さんが明穂さんに依頼してこのような形になったらしい。
「蘭先輩はこの衣装買うの?」
「うーん。シャツは良いけど…スカートが苦手だから。舞台上で着るならともかく、普段はちょっと…。普通のシャツの丈にして貰えるなら。かな」
うん。後でお願いしてみよう。
サイズもぴったりだし着心地も良いからこのまま眠らせるのは勿体無い。
梨舞に聞かれなかったら、仕立て直してもらおうとか考えもしなかった。

「そう言えば蘭先輩が普段スカート履いてるの高校の制服以来ないかも」
「そうでしたの?スカート姿もとてもお似合いですのに」
2人にそう言われて少し考えるけど、やっぱり普段着にスカートは選ばないな。
「…下にズボン履いていいなら…て感じかな。
もういい?出るよ」

3人とも着替え終わったのを確認して、和室の楽屋から出る。

「お待たせしました」
「うん。じゃ僕らも着替えてくるね」
舞台メイクの為に隣の元の楽屋に戻り、着替えを待っていた有守さんと松葉と入れ替わる。
「メイク道具、これであってるかしら?」
明穂さんと明さんは楽屋の壁に備え付けの鏡付き化粧台にそれぞれが使うメイク道具を用意してくれていたようだ。
「さっすが。使う順にならべてあるの完璧すぎ」
「だってその方が効率いいでしょ?梨舞ちゃんメイクしながらアレ無いコレ無いってよく言ってるじゃない」
明穂さんは自身のブランドの服のモデル撮影にも立ち合うからか、衣装やメイクの準備等、手際がとても良い。
そして
「あ、明ちゃん」
「はい」
「ありがとう、あと…」
「有守のですね。用意します」
双子だから、なのだろうか。
互いに何が欲しいとか何をして欲しいとか考えている事が分かるらしく、意思疎通がとてもスムーズだ。
明さんはバーテンダーとして働いているので特に昼間はスケジュールに融通が効くらしい。
なので明穂さんの隣にはいつも明さんが居てこの様にアシスタントをしている。
「はい、蘭ちゃんの」
メイクをする時に衣装を汚さないようにするためのケープと髪を押さえるヘアバンド。
受け取ろうとしてふと壁掛け時計が目に入り有守さんのシャツを洗っていたのを思い出す。
「明穂さん。ちょっと、洗濯機見てきても良い?」
「あら?必要なもの?アタシ行こうか?」
「ううん。すぐだから。ちょっと行ってきます」

とっくに乾燥も終わった時間だから皺になっているかもしれない。
ランドリールームに向かい乾燥も終わった有守さんの私服のシャツを取り出す。
広げるとコーヒーの染みは綺麗に落ちていた。
そしてやはり皺がついてしまっているので棚にある衣類スチーマーの電源を付け、シャツをハンガーにかけて皺を伸ばす。

「こんなものかな」
スチーマーの電源を切り、棚に戻して
ランドリールームを出ようとすると
「おっと」
わたしと有守さんは5・6cmほどしか身長が変わらない。
タイミング良く入ってきた有守さんの顎に頭からぶつかりそうになった。
もう衣装に着替えたらしく今朝劇場に着いた時に見たシャツを着て、下は白いゆったりとしたチノパンを履いている。
ウィッグはメイクをした後になるのでまだ被っていない。
「あ、有守さんこれを。ちゃんと落ちましたよ」
着替える時にヘアクリップで前髪を留めたのだろう。真っ黒な両目と目が合う。
「うん」
ハンガーにかかったままのシャツを受け取り、じっと見つめてくる。

「有守さん?」
「ねえ蘭。今回はあの夢は見たかな?」
舞台本番の朝によく見る、有守さんと会った時の夢。
詳しい内容は言ったことはないけれど、その夢を見るのは蘭が絶好調の時かもね。と有守さんは言っている。
今回の公演期間は長く、月曜から日曜までの7日間あったが夢を見たのは今日だけだった。
「今回みたのは今日だけです」
「じゃあ今日が一番の、最高の公演になるね。初日ももちろん良かったけど、やっぱ数こなしてくると良くなってくるよね」
ぽん、ぽんと頭に触れて優しく微笑んだ。
そして突然。
「最終日か…」
その笑みに少し影を落とし、そのまま優しく抱きしめられた。

「今日で、君を殺せるのも終わりか…」

そう、耳元で囁かれる。
一瞬返答に悩んだが、…乗らない事にした。
「有守さん、セクハラです」
「あは、ごめん」
ぱっと身体を離していつもの胡散臭く見えるような笑みを浮かべた。
これは有守さんがよくやる、役を利用した悪戯。
こういう事を練習の時だけでなく普段からやってくるので中々タチが悪いが、この悪戯のおかげか演じている時のアドリブ対応力が昔より成長していると実感する時もある。
でもやはりいきなりはやめてほしい。
抱きしめられたせいか…心臓が、動悸が。

「ここにいたか八宮」
「ん?なんだい?」
有守さんの背後から真呼さんの声が聞こえて振り返った。

良かった、今顔を見られなくて。
絶対真っ赤になってた。

「当日券はあるか?と聞かれてな。今そいつは入り口に居るんだが」
「少しあるよ。もしかしてもうお客さん並んでたりする?」
「多少。だから列用に三角コーン並べたぞ。そしたらチケットはどう買うんだ?と聞いてきた奴がいてな。『品川さんの知り合い』と言ってたぞ」
わたしの知り合い…。
最終日に行けたら!と言っていたから、おそらく北嶋くんだろう。
「真呼。その人名前言ってた?北嶋和人(きたじま かずと)君だったら、予約してあるよ」
「そうだ。キタジマと言っていた。…もしや、柏の葉の奴か?」
「うん、その人」
言ってた通り路上パフォーマンスでお金を集めて来てくれたみたいだ。
…合法、で。
思い出してまた噴き出しそうになった。

「僕も行くよ。ついでにちょっと話してくる」
そう言う有守さんは、子供が新しい遊び道具を見つけた時の様な目の輝きをしていた。
「待ってください。衣装のままじゃだめです」
「あ、そっか。じゃあ真呼は先に行ってて」
「わかった」

先に真呼がランドリールームをでて行き有守さんはシャツの首元のボタン外しカバッと脱いだ。
びっくりして顔を逸らし目を瞑る。
「蘭、これ和室に持ってっといて。じゃ行ってくる」
胸に押しつけられるようにして受け取り
目を開けると先程まで着ていた衣装と私服が掛かっていないハンガーだった。

何か上に羽織った方が早い気がするけど…。
と思いながら、有守さんの衣装をギュッと抱きしめた。

メイクの為に楽屋に戻ると、由良はほぼ完成していて梨舞はもうちょっとかな?と言いながらやり過ぎないように慎重にメイクをしている。
明穂さんは松葉のメイクを手がけていた。
松葉は自分でメイクをしようとするとどうしても左右非対称になるらしくいつも明穂さんにお願いしている。
「有守は?」
明さんにそう言われて説明すると。
「そうですか。それ置いてきます。蘭は準備を」
そう言って有守さんの衣装を受け取り、代わりにケープとヘアバンドを差し出した。
「終わったら髪を固めます」
「うん、お願い」
ケープを付け、ヘアバンドで前髪を上げ
まずは楽屋内にある洗面台で洗顔をする。
洗顔が終わると戻ってきていた明さんがタオルを差し出してくれた。
そして自分のメイク道具が並べられている化粧台の前に座り自分でメイクをしていく。

今回の役は死者になるので、少しだけ血色が悪く見えるように…。
時折髪を整えて貰ってる由良に確認して貰いながらも手早くメイクを終わらせた。
「ではわたくしは、蘭ちゃんの着替え衣装を確認してまいりますわ」
「ありがとう、お願い」
あとは明さんに本番中に髪が乱れないようにとワックスやスプレーで髪を固めてもらう。
メイクは1人でも問題ないが髪型は特に後ろが分からないので必ず他の人に整えて貰っている。
「いかがですか?」
手鏡と化粧台の鏡を使い髪型をチェックする。
「うん、大丈夫。ありがとう」
「梨舞はメイクを終えましたか?」
「なんとか終わったよ。髪おねがいしまーす」

明さんがヘアアイロンを使って梨舞の毛先を内側に巻いていく。

「まだ有守は戻ってきてない?」
メイクが完成してジャケットを着ながら松葉に聞かれた。
松葉も梨舞と由良と同じように全身白い衣装だ。
少しだけ生成っぽい白のセットアップに首元のあいた白いTシャツ。
前髪を上げた松葉の見た目も相まってまるで海外のセレブのような印象を受ける。
その印象はあながち間違ってはいないけれど。
「わたしの知り合いが来てるから、話に行くって言ってたけど…」
「早く帰ってこないかしら。アタシ達。梨舞ちゃんのヘアメイク終わったら入場整備に行っちゃうわよ?メイクはともかくウィッグどうするのかしら」

そう噂していたら
「やー、面白かったー」
と衣装を着直した有守さんが楽屋に入ってきた。
「やっと戻ってきたわね」
「ちょっと話し込んじゃってね。もう開場だし双子には受付お願いするよ。蘭、ウィッグ確認だけお願いできるかな」
「はい、わかりました」
わたしはいつも見ているし、形はほぼセットされているウィッグなので問題ないだろう。
今回は有守さんだけ黒髪のウィッグを被る。
金が混ざったような茶色の地毛だとどうしても印象が合わないから、だとか。

「完成です」
「うん完璧。ありがと明さん!」
明さんが梨舞のヘアメイク完成させて、ヘアアイロンを片付ける。
「明穂、待たせました」
「じゃあ蘭ちゃん、あとお願いね」
楽屋を出て行き、明穂さんと明さんは受付へ向かう。
「そうだ、梨舞。ちょっと相談があるんだ」
開演前の影アナウンスの原稿を出して松葉と梨舞は話し合いを始めた。

ケープをつけて、ウィッグを被るためのネットで髪をまとめ洗顔をする有守さんに、
わたしは明さんがやってくれたようにタオルを渡した。

そして有守さんは手早くメイクを完成させて
「じゃ、お願い」
と短いウルフカットにされた黒髪のウィッグを渡される。
まずネット中の地毛に偏りがないかを確認し、ウィッグを被せ、襟足部分にある細いベルトをしっかりとつける。
そして地毛が出ていないかを入念にチェックする。
毛の短いウィッグなので少しでも違和感がないように。
「うん。いいね」
有守さんも手鏡を使いながらチェックし、こうして全員の準備が整った。

「そういえば、蘭。シャツ全然染みなかったよ。凄いね」
「あ、いえ…」
「皺伸ばしまでありがとう、愛してるよ」
いつもの冗談を受けて、また顔が赤くなりそうになる所を
「ん?もしかして有守さん、また蘭先輩に何か迷惑かけたの…?」
松葉との相談を終えた梨舞が疑うように入ってきたので、すぐに平静を取り戻せた。
今朝あった事を有守さんが正直に話すと梨舞は、なんで蘭先輩にやらせてんの?
と、想像していた通りの言葉を口にした。


========


準備がおわり、そろそろ開演の時間。
お客さんの入り具合が気になって照明や音響の為の調製室に来た。
中では本番中に照明音響を担当する真呼が事細かにメモが書き込まれた台本を見ている。

四方向から真ん中の舞台を映し表示されているモニターの横に、暗幕のかかった小さな窓がある。
そこを覗くと客席全体が見下ろせる。
空いている席を数える方が早いくらいお客さんが入っていた。
「当日券も何枚か売れたからな。今日は一番客入りが良いぞ」
真呼が台本を閉じて教えてくれた。
「真呼と由良の知り合いも来ていたな。小崎のファンらしき娘たちも。品川はロビーのフラワースタンドを見たか?」
「今日は、まだ見てない」

他の日は禁止としているが、最終日だけは送る事を認可しているので公演に合わせて知り合いの劇団やたまに学生時代の部活メンバーからフラワースタンドを送られてくる事がある。
「回収は明日の15時だから後で見るといい。面白いのがあったぞ」
「うん、後で見てみる」
じゃあ、本番宜しく。と調整室を出ようとすると先に扉が空いた。
今回の開演前の影アナウンスを担当している松葉だ。
「あれ、蘭どうしたの?」
「お客さんどれくらいいるかなと思って。今日が一番多いみたい」
さすがは最終日と言ったところだろう。
お客さんの期待の空気を感じてわたし自身もなんだか心が躍ってくる。

「そうなんだ。よし、時間だから影アナやるよ。せっかくだから蘭もここで聞いていって」
アナウンス原稿を取り出し松葉がマイクの電源を入れて開演15分前のアナウンスを始める。

《本日は、劇団Puppet Project公演『海鳴りと鯨とめぐる者』にご来場いただき誠にありがとうございます。
公演に先立ちまして来場のお客様にお願い申し上げます。》

いつものように原稿を読み上げていく。
客席の方がいつもより騒ついている気がするのは、真呼が言っていた松葉のファンの人達だろうか。
松葉はつい最近、新しく始まった日曜朝の女の子向けアニメシリーズでマスコットキャラクターの声を当てている。
そこから松葉を知り、今回の公演を見にきた。というのを今日までのお客様アンケートを簡単にまとめただけで何度か目にした。
着々と声優としての人気を上げているみたいだ。

松葉が注意事項をいくつか告げて、最後に

《こういう事ってなかなか言えないから、本日はこの場を借りて言います。
皆、素敵なフラワースタンドをありがとう。
ロビーに飾ってあるから、よかったら帰る前に写真とか撮ってね。小崎松葉より》

客席から一瞬わっと歓声が上がり、すぐに静かになった。
そのあと、何人かの小さく笑う声。
好きな役者からフラワースタンドのお礼を言われて、静かにしていなきゃいけないのに思わず声を上げてしまった。
という感じだろう。なんだか微笑ましくなった。

マイクを切って、松葉が
「ごめん。私用に使って」
と照れたように笑った。
「良いと思うぞ」
「わたしも良いと思う。すごいね、松葉宛にフラワースタンド来てたんだ」
真呼が先程言っていた面白いのはこの事だろう。
劇団宛は何度かあるが個人宛でフラワースタンドが届くのは初めての事だ。
「俺もまだ本物は見れてないけど、メイクしてるときに明穂が写真を見せてくれたんだ。それで、ちょっとでも感謝が伝えれたらって思って」
また照れ笑いをし、そしてキリッと、表情が引き締まった。
「今日は一番良い演技ができそうだよ。最終日。楽しもう」
「うん、じゃあまた後で」

調整室から出て舞台裏に向かう。
客席がすり鉢状に並んだ舞台に向かう扉は4つ。
2つが舞台裏につながり、あと2つはロビーにつながるお客さんが入るための扉。
一番最初の音響が鳴っている間
真っ暗な舞台にスムーズに上がるために
5人ともバラバラの扉から入る事になっている。
わたしは梨舞と一緒の扉から。
「蘭先輩聞いてた?松葉さんの陰アナ。さっき決めたんだー」
扉の前に来ると、ワクワクした様子の梨舞に迎えられる。

「うん、良かったよ。でも次また個人宛にきたら大変だね」
「あーそっか。まあその時はその時でまた相談するって事で」
さて。と梨舞が背筋を伸ばした。
「蘭先輩。今日も楽しみましょうね!」

開演5分前のブザーが鳴り
2回目の松葉のアナウンスが聞こえる。
今度はいつも通りのアナウンスだ。

今回の演目『海鳴りと鯨とめぐる者』は
いつも脚本を書いてもらっている片瀬宋基(かたせ そうき)さんに、役者に当て書きで。と依頼した物だと最初に台本を配られた時に伝えられた。
その為か、役者それぞれの魅力がふんだんに詰め込まれている。
私と梨舞は片瀬さんに一度も会った事はないが、片瀬さんの方は何度か公演を見にきた事があるらしい。
それに、彼は由良と真呼の中学からの同級生で、有守さん達とも学生時から面識があったとか。

内容は星見ヶ丘にある伝承の一つ、
満月の夜になると死後の世界に繋がる海の話を基にしたらしい。

周りに何もない浜辺。空を見上げると月を背に鯨が泳いでいる。
その場所に5人の男女が眠っている。

5人のうち白い服が3人。
黒と白の服が1人
黒の服が1人

それぞれ起きた時は記憶が朧げだが、世間話や自身の話していくうちに少しずつ思い出していき、一番最初に自身が死んだ事を思い出す黒白服の男が、黄泉の国を泳ぐ鯨に食べられると、生まれ変わって幸せになれる。という伝承がある。と話す。
そこからそれぞれ自らが死んだ理由を思い出していって、生まれ変わって幸せになれる事を願いながら鯨に食べられにいく。

白の服は自殺。黒の服は他殺を表している。
白い服の3人、
松葉は事故で死んだ恋人を追って自殺した男。
由良は結ばれない相手と心中した女。
梨舞はイジメを苦に自殺した少女を演じる。
この3人はそれぞれの人生を思い出し、後悔し。次こそは上手に生きられるように、幸せになれるようにと願いながら1人ずつ鯨に食べられていく。

最後は黒白服の男と黒服の女が残る。
黒白服の男は、愛する恋人を自らの手で殺した後、自らも同じ死に方をした男。
黒服の女はその男に殺されたことを忘れていた女。

男は女を殺した事を懺悔し、女はそれを思いだし、許す。
一緒に生まれ変わってやり直そう、と共に鯨に食べられようとするが、男は女だけを鯨に食べさせるように突き飛ばす。

そしてラストシーンは病院のベッドで目を覚ます。
鯨に食べられる事は生まれ変わるのではなかったと気づき、かつての恋人とはもう2度と会えないことを悟る。

ざっくりとしたあらすじはこんな感じ。
これを今から1時間50分の舞台で表現する。

扉を開けて、客席から見えないように暗幕で隠された小さなスペースで待機する。
ここに立ったらもう私語は禁止。開演のブザーを待つ。
ブザーが鳴り、客席を照らしていた電灯が消える。
真っ暗な中で波の音と、太い弦を弓で擦るような音が響く。

さあ、行こう。
暗幕から出て、暗闇の中静かに真ん中のステージへ向かう。

今からわたしは、別の世界でのわたしになる。


*  *  *


「ありがとう蘭。待っててくれたんだ」
「いえ、お疲れ様です」
楽屋の時計を見る。移動する時間を考えてもまだ30分程余裕がある。

打ち上げのお店は19時に予約してあり、現地集合となっている。
それまでにいきたい所がある。と由良と真呼は早々に出ていき
松葉、梨舞、明穂さん、明さんの4人は後々の事を考えて車で行くからと先に出た。
私は有守さんを待つ事にして、その間手持ち無沙汰だったので、回収BOXに雑多に入れられてたお客様アンケートをまとめていた。


『海鳴りと鯨とめぐる者』は無事に終幕し、
それぞれが着替えたり簡単な片付けをする。
その間有守さんに対してたくさん来客があった。
私が見ただけでも、1組の兄弟。金髪の少女とその母親らしき人。
一番親しそうに話していたのはわたしより長身で腰まである長髪を高い位置で結んでいた女性。
ほかにも、知り合いの舞台関係者や聞こえた会話から察するに映画関係者など
様々な人がひっきりなしに訪ねて来たので
有守さんだけ着替えるのが遅くなった。

「いやあ、皆ほんとタイミングいいよね…。話終わったと思ったら次から次に…。先に着替えとくべきだったよ」
あははと笑いながら
ウィッグを被る事で付いてしまった癖を直そうとするが前髪だけいつものように垂れ下がってこない。
「終わってすぐロビーをうろつくからですよ」
「すぐ捕まえないと帰っちゃうような知り合いが居たからね。…残念ながら捕まえれなかったけど」

諦めたのか両手にワックスを付けて髪をかき上げた後、少し前髪を乱した。
最後に洗面所で手を洗い、黒のカラーコンタクトを取る。
「蘭。そこに目薬ある?」
「はい、どうぞ」
目薬を注して目を閉じて目頭を押さえて数秒して、目を開ける。
「はー、やっとスッキリした。やっぱコンタクトってなれないね」
そう言ってこちらを見た有守さんの両目が光って見えた。
今日初めて見る有守さんの本当の目の色。
左目が金で、右目が水色とも緑ともいえる不思議な色。
特にその右目を見ていると、時折全てを見透かされるように感じる。

わたしはそれが、嫌いじゃない。

「蘭?どうしたの?」
にっこりと笑った。
オールバックのようなしっかりした髪型だからかいつもの笑みの胡散臭さがだいぶ軽減される。
「いえ。何でもないです」
「じゃあ、もう出ようか。戸締まり確認した?」
「はい。車庫や舞台裏もしっかりと」
「ありがとう。忘れ物はないかな?」
トートバッグからカーディガンを出して羽織った。
「はい。大丈夫です」
有守さんは自分の化粧台に置いてあった数個鍵が付いたウォレットチェーンをズボンにつけて、繋がっている財布本体をズボンの後ろのポケットに。携帯を横のポケットに入れる。
「有守さん…荷物それだけですか?」
「うん。今日はもう何もしないからって色々置いてきたからこうなっちゃった」
「ちょっと、待っててください」

荷物はともかく、上着を着ないと。
さっき外に出たら少し肌寒かったし
これから山の方に行くから風もあるかもしれない。
隣の和室にはいって、有守さんが昼間にも着ていた胸元に猫の絵が描かれた白いジップアップパーカーを見つける。

それを持って楽屋に戻り有守さんに差し出した。
「寒いかもしれませんし、羽織った方がいいと思います」
「ん」
パーカーを羽織って
「こういう気遣いってホントありがたいなあ。愛してるよ、蘭」

本日3度目の冗談を口にした。

「そういえばフラワースタンドは見た?」
「はい、写真も撮りました。凄く豪華でしたね」

劇場を出る前にロビーに飾られているフラワースタンドを再び眺める。

知り合いの劇団や、昨年有守さんが関わっていた映画関係者、演劇雑誌の編集部。それらももちろんだけどやはり一番驚いたのは松葉宛の物。
黄色と緑と白の花で作られているシックな雰囲気のスタンドは、松葉自身を表現しているように見える。

「こういう応援ってありがたいね。松葉の影アナも喜んでたみたいだし。…このまま個人はもちろんだけど、劇団の方も応援していってくれたら嬉しいね」
「そうですね」
有守さんが劇場の鍵を閉める。
「…たぶん、そうなってくれますよ」
アンケートをまとめている間に少しだけ目を通した。
あの中に何人松葉のファンが居たからわからないが開演前の影アナウンスの事以上に劇の感想が長々と書かれているものが多かった。
あといくつか「語彙力が欲しい!」と書かれていたのを見て笑ってしまった。


打ち上げのお店はいつも同じ、星見ヶ丘坂道商店街にある『CloverGarden』
商店街の中では一番標高が高い横道の奥にあるカフェバーで、街を一望でき、汐見浜と呼ばれる海まで見えるテラス席がある。
地元の人だけでなく、観光に訪れる人にも人気のカフェバーだ。
その『CloverGarden』は由良のバイト先であり、さらにわたしの好きな小説家、高原道さんが物語の舞台にした事もある。
お店自体の雰囲気も良いので打ち上げの機会だけでなく、何も予定がない日とかはそこまで足を運んだりする。
今の時期は山の桜も咲いているので特にテラス席はすぐ予約で埋まってしまうらしいが、そこは由良が早々におさえたらしい。

劇場から行くには最寄りの地下鉄駅からまず街の中心にある駅まで行く。
日曜の夕方の地下鉄は乗車率が高い。
有守さんはわたしを壁際に立たせてて、その前に立った。
何も言わず自然にその形になったので、乗り換え駅に着いて降りるまで、何事もないように庇ってくれていたと気づかなかった。

それから私鉄に乗り換えると今度は乗客全員が難無く座れるくらい席が空いていた。
有守さんと隣同士で座って、星見ヶ丘の麓にある駅まで電車に揺られる。
そしてその麓からは、山の坂道を歩いて目指す。
改札を出ると風が吹いて、桜の花びらが少し舞っていた。

「じゃ、いこっか」
と有守さんは右手を差し出して来た。
「繋ぎません」
一瞬戸惑ったけれど口から自然に出たのは拒否の言葉だった。
「残念。ところで、今日の話なんだけど…」

電車内では周りを配慮して一切話さないでいたからか、坂道を歩きながらどんどん喋り立てる。
今日の演技はここが良かった。
あのアドリブうまく対応できたね。
そういえば客席にあの人いたよね。
等々。
話しながら坂道を登っていくと突然2匹の猫が目の前を横切った。
横切る際に2匹のうち1匹がこちらを見た気がして気になり猫が歩いていった方を見ると、茶色い虎柄で右耳先をV字に切られた猫と目が合い、そのまま互いに動けなくなってしまった。
「あれ?蘭、どうしたんだい?」
その猫と見つめ合っていたら有守さんに少し置いていかれたらしい。
「どうしたんでしょう…」
猫とわたしは見つめ合ったまま、瞬きすらできない。
わたしと猫を交互に見て有守さんは
ああ。と理解した。
「猫はね、目を合わせると喧嘩売ってると思うらしいよ」
「え、そうなんですか」
それは大変な事をしてしまった。
猫の誤解を解くにはどうしたら…。
「そのままゆっくり瞬きして」
「は、はい」
ゆっくりと瞬きを一度すると

「ナツ」
低い男の声が聞こえて、猫が「ナッ」と短く鳴き、声がした方に走っていった。

「…誤解、解けたんでしょうか?」
「どうかな。でも、またあの子に会う機会はあるし、その時また仲良くなればいいと思うよ」
猫は横道に入ってすぐのお店に入ったように見えた。
きっと飼い猫だろうから、そこに行けば会えるだろう。
でも、確かそこは漢方屋。
今までに漢方にお世話になった事はないので…そんな機会はない気がする。

「蘭ってもしかして、あまり動物に慣れてない?飼ったことは?」
再び並んで歩き出す。
「実家に金魚がいたくらいです。世話はお父さんがしてましたし…」
「そうなんだ。でも蘭は結構好かれそうな気がするよ」
「抱き方とか全然わからないのですが」
「大丈夫だよ。実際飼ってる人が教えてくれるよ」
もしかして有守さんは猫を飼っているのだろうか。
それで、教えてくれる…だったらいいな。

前から1人の男性が歩いてくる。
着ているスカジャンの身頃だけが白でそれ以外は髪も含め真っ黒。
まるで今日終えた舞台の衣装のようだと思った。
端に寄るようにして道を開ける。

すれ違う時に、果物のような甘い香りがした。

有守さんが立ち止まって振り返り、しばらくその人を見ている。
でもその表情には何の感情も読み取れなかった。
有守さんのこんな顔をみるのは初めてだ。
「今の人…知り合いですか?」
「…まあ、ね」
東の空を見上げる。
同じように見上げると満月が登り始めている。
「そっか。満月か…だから…」
月を見つめる表情は、どこか懐かしんでるように見えた。

「ねえ蘭。聞きたいことがあるんだ」
いつものようににっこり笑ってまた歩み進める。
「はい」
横に並んで歩きながら続きを促す。
「『海鳴りと鯨とめぐる者』で、もし蘭が僕の立場だったらどうする?特に最後」

劇中では男は女を殺した事を懺悔し、女はそれを許して、そして一緒に生まれ変わってやり直そう。と共に鯨に食べられようとする。
が、男は女だけを鯨に食べさせるように突き飛ばす。

「男は、鯨に食べられたら生まれ変わるんじゃなくて、生き返ると知っていた。
そして罪滅ぼしに自分はこのまま死んで、恋人と永遠に別れる事を選んだ。って事だよね」
「はい…」
それは直接セリフには無いが台本を何度も読んで分析しその解釈で表現しようと皆で決めた事。
「その男の気持ちが今でも分からないんだ。
それに、それって本当に恋人の為だったと思う?
彼女は一緒に生まれ変わってやり直すのが望みだったのに勝手に1人だけ生き返させられちゃったんだよ」

しばらく考えてみる。
ラストの病院のシーンでは
わたしは恋人にもう会えない事を悲しむけれど、恋人がそう望んだから、と生きていく選択をする。
…となるとわたしは…。

「わたしは、相手が望むなら。と思います。
だから…わたしの役は一緒に生き返る事を望んだので。
もしわたしが有守さんの役の立場だったら一緒に食べられます」

これは、わたしと、わたしの役の考え。
「やっぱそうだよね」
これには有守さんも同意見らしい。
「もしかしたら有守さんの役は、怖くなったのかもしれません。彼はやり直せる自信が無くて、また、思わず殺してしまうような事が起こってしまうかも。と
だから、一番危うい自分自身を遠ざける事で、彼女を守ろうとした…のかなと。
自分が居なくなる事が、彼女の本当の幸せに繋がるとおもって」

「…自分が弱いから遠ざけたって事か。その考えは僕には分からないな」
「有守さんとは多分真逆…ですよね」
「そうだね。これは…僕じゃなくて…」
少しだけ悲しそうに、微笑んだ。
その時、水色とも緑ともいえる不思議な色をした右目の奥に誰かが映った気がした。

その表情の理由を聞きたくなったが、やめておいた。
代わりに一つ聞いてみる。

「有守さんは、好きな相手を何があっても手元に置いておくタイプ…ですよね?」
「あは、そうだね。もし離れても必ず捕まえにいくよ」
いつものように笑って答えた。

そうだ。この人はそういう人なんだ。
できればその捕まる相手は、わたしでありたい。
そう願う。

「それにしても…気持ちがわからないままでもあんな演技できるんですね」
「凄いでしょ」
両手でピースサインをつくって戯けた。
「むしろ何で分からないままだったのかが不思議です」
うーん。と困ったように顔を逸らして頭をかいた。
「分かっていたけど、認めなくなかった。のかも?」
その表情はなんというか…過去の出来事を恥じているように見えた。


ふと、どこかで聞き覚えのある音が聞こえる。
まるで、太い弦を弓で擦るような。
この音はまるで…。

「蘭。あの脚本は、実際に星見ヶ丘にある伝承を基にしてるって言ったよね」
有守さんも音が聞こえたようで立ち止まる。
「はい。えっと…満月の夜の海は死後の世界に繋がる。でしたっけ?」
「そう、あってるよ。そして今日は満月だから…。
もしかしたら伝承通りこちらとあちらが混ざりあっていて、鯨が泳いでいたりして」

そう言ってまた月を見上げる。
同じようにわたしも見上げると

満月を背に鯨が泳いでいた。
が、一度の瞬きでその姿を消してしまった。