印象記:ハマスホイとデンマーク絵画
COVID-19が一向に収束する気配を見せませんが、この日しかない、ということで、「ハマスホイとデンマーク絵画」展(東京都美術館)に、思い切って行ってきました。ハマスホイだけでなく、背景となるデンマーク絵画の変遷も踏まえた展示で、当時の社会情勢に思いを馳せつつ、そんな中、画家は何を思ってこの絵を描いていたんだろうかと考え込んでしまいました。
19世紀、産業革命により急速に近代化したデンマークでは、絵画もまた、貴族的な価値から変化していったようです。近代化が急速に進み、古いものが風化してゆくデンマーク。近代化されて豊かな生活が始まる反面、急速な変化に対する戸惑いもあり、失われてゆく風景や、「古き良き」時代のデンマークの郷愁もあったのか、日常のささやかであったり、当たり前であったりするものを題材にするようになっていったのでしょう。
古き良き伝統的風景が失われていく中で、突如「発見」されたプリミティブなスケーエンという漁村に芸術家たちは殺到しました。プリミティブな自然の風景を賛美するスケーエンはというのは、まさに都市のロマンだったのではないかと思います。
そこで生きる漁師たちの生活や、手仕事などの慎ましやかな生活はまさに失われゆくデンマークの「自然」だったのでしょう。明るさのうらにうっすりと陰りのある賛美的な表現は、美しくもありましたが、その無邪気さは切なくもありました。想像するだに、格差による分断が著しかったのではないでしょうか。危機が来るとき、ナショナリズムは高まるもので、当時、デンマークで流行っていた、理想的でノスタルジックな国土を描くナショナルロマン主義というのは、いつの世も起こるのだなと思い、昨今の時勢が思いやられました。
かように都市的なものを否定し、郷愁的な世界を賛美するのは、いささか、インテリの自己陶酔がすぎるように思うのです。日常に目を向ける流れも、失われゆく景色を思うことも色々思うことはあるし、芸術家が何を見ようと勝手ですが、近代化されゆくデンマークに生じる格差や、伝統と近代の対立の中で富裕層に生じたスノッブな絵画運動だなと思ったのが正直なところです。
ハマスホイは都市の画家だったと言われています。彼の絵は、人との交流や情緒的なもの、必要最低限以上の装飾をあえて廃したものだなと言われていますし、実際に見てもそうだと思います。風景ではスケーエン派の絵とは対照的に、細部が省略され、自然はどこか暗く、表情がない。じゃあ、彼が好んでモチーフにしたアパートメントの部屋の絵はどうかというと、装飾どころか、人の痕跡や、表情、交流、そしてあるはずの家具をも省略し、どこかうつろで無機質です。
彼は、空間が持つ「構造美」を描いたと自分でも述べていますし、そのように評されもいます。たしかにそうかもしれないけど、果たしてそうだったのかでしょうかね、なんて思います。。ハマスホイはたしかに「余計なもの」を消して、描かないミニマルな表現を好んだようだ。自身の生活も描かれた絵ほどではないが、かなりシンプルで厳選された家具しか置かないミニマルなものだったように聞こえる。彼も自分の絵に不要なものは描かないことは、自分でもよくわからないと断りつつも、かなり意図的に描いていたようで、そのへんにミニマリスト臭さを感じるが、反面、「描かない」ことで、その在が際立つ絵も数点あった。まるで、モノを減らさないと耐えられないといったふうに。
全くものが排除され、アートシーンであのしたり顔のフランス文学者が言っていた「引っ越しのときにしか見ないような光景」は、かつてあった姿であると同時に、これからあることを示唆するものかもしれない。彼は、自分は構造美を描いているのだと言っているけれども、ただ構造美を描いているだけのようには見えません。あそこまで偏執的に表情を消しておいて、構造美なものか、という気さえします。ああも偏執的に存在や情緒を消し、からっぽの空間にこだわるのは、まるで持つことの不安があるかのように思えてしまうのですよね。もちろん彼は技巧的であり、戦略的に描いた面もあるのでしょうが、私には、「ああいう形」でないと、自己表現できない人なのではないかと思えました。
実際のところ、そのあたりは定かではないですが、在を否認し、不在の表現にこだわるあたりに、彼の抱えるなにかというか、創作に向かわせるな何かがあったんじゃないかなと思ったのが感想でした。
なお、ハマスホイは、母をなくした2年後、咽頭がんで亡くなっています。相当なショックだったのでしょう。ハマスホイはは限られた人物しか描かず、もっぱら妻を登場させていますが、ここまで衝撃を受けるほどであるにもかかわらず、母親が登場したものはないようです。描くほどそばにいなかったのか、交流のない人物として描けなかったのか、はてさて。