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水中都市にて

 腹痛で目が覚める。LEDの時計を見る。最近流行っている壁掛けのデジタル時計……。まだ三時半だった。このところお腹の調子が悪い。生まれつきお腹は弱いほうだけど……。トイレの小窓から外が明るくなっていくのを見る毎朝が続いている。医者に診てもらおうかな。起き上がってトイレに向かう。歩く度に振動でお腹が痛い。ため息をついてみる。面白くなって、お腹をさすり映画の主人公みたいに大げさに「腹痛」の動作をとってみる。誰も見てやしないのに。トイレは寒い、トイレットペーパーが残り少ない。
 良くなりそうもない腹痛に諦め、トイレから戻りベッドに腰かける。暗い部屋は少しだけ散らかっている。床に積んでる本を見て、本棚を足さなきゃかなと思う。食器棚にガサツにいれている薬たちを見て整理しなくちゃなと思う。面倒くさいな。外は暗くてまだ夜みたい。
 トーキョー湾の、中心地から少し外れた水中都市に私は住んでいる。一人暮らし用のアパートがたくさん建っていて通勤通学のための街という感じ。私は人が多くてごみごみした場所が好きだから、トーキョー湾での生活を気に入っている。強いて言うなら、もう少し眺めのいい場所に住みたいかなというくらい。それはそれで階段とか大変そうだけれど。
 小説が書けなくなった。福永武彦の「鏡の中の少女」のことを思い出す。一人の少女の「才能」の側面と「少女」の側面……。比較的精神状態が良く、起伏のない生活を送っている現在では創作が難しいのかもしれない。だからといって辛かった時期のことを思い出したいかと言われるとそうでもない。裸足で冷たいフローリングに触れる。コップに水を注ぎ飲む。わずかに鉄の味。
 時々、「自分は何か一つ悩みごとをしないと気が済まない人間で、わざと悩みを作っているのではないか。」と思うときがある。今の悩みなんて過去のものに比べたら小さなものだ。なのに真剣に悩んだり、それを冷静に見てる俯瞰の自分がいたりする。気取って福永武彦を読んでみたりする。人間みんな誰しも悩みごとや暗い過去を持っているということに最近気がついた。 
 今一度、部屋を見回してみる。物が少ない。最近になって部屋の掃除を頑張りはじめた。自炊も最近し始めてる。魅力的な人になりたいと思っている。メンタルは落ち着いていて、上がり調子だ。昔のような暗く、才能ある文章は書かない。部屋もそこまで散らからない。世の中には死別ソングが蔓延っている。すごいと思う。世間のみんなのこと、大人だなと思う。

 二年前まで付き合ってた恋人は、地上に打ち上がって死んでしまった。(水中都市の「死」は地上のものより軽い。人間は一度の妊娠で卵をたくさん産み、無事に成人になる個体も少ない。水中都市では輪廻転生が信じられている。水中都市での死別の悲しさの重みは地上における失恋とおおよそ同じような感覚だと思っていただきたい。)「死別したら死別ソングでも聞いてバーっと泣いて美味しいもの食べて生まれ変わってくるのを待とう!」という感覚が、水中都市ではある。私は異常なんだろうか。二年経っても恋人の今世のことが忘れられない。大学に進学したけれど死別を引きずって出だしに躓いた。恋人との死別以降笑うことができなくなっていて、話しかけてくれた子たちとうまく喋れなかった。女子で工学部で孤立してしまうとなかなか厳しい。授業は一人で理解するには難しいし、何よりきちんと授業に出られなかったことや途中で抜けたりしてしまったことで悪目立ちした。死別を引きずって地上病を拗らせはじめ、授業に出ることも敵わなくなった。これが私の今の生活のあらすじ。実際はこんなに綺麗にまとまったものじゃなくて、物語じゃない。ただの出来事の連なりがあるだけで、私の生活は終わらない。エピローグがつけられない。私は死ぬときまで永劫この事を思い出してその時々に違うことを思うし、別のことだって沢山考えるだろう。だけど彼女は……。

 「高校生の私が大概大人に言われること。」彼女はニヤニヤしながら言う。
「第三位、感受性豊かなんだね~。第二位、地上病なんじゃないの?第一位……ってなんだと思う?」
 学食の、地上に面したテラスで彼女と並んでお昼を食べる。日差しがよくて、視界が明るい。だけれど優しくてコントラストが低い。穏やかな冬の昼……。
「知らないよ。また保健室のオバサンになにか言われたの?」
「第一位、思春期だね~。」
小馬鹿にしながら物真似し、その後ニヤニヤを一瞬で崩した。彼女は最近メンタルの調子が悪くて、今日も授業を抜けて保健室に行ったんだろう。なにも出来事がなくても気分だけがものすごく悲しくなったり、絶望を感じたりするらしい。それで彼女はよく泣く。何か抱え込んでいるのではないかとか、辛いことがあるのではないかって当然別の人は考える。けれど本当になにもないらしい。はっきり言って、彼女を生きづらそうだなと思う。だけれど「生きづらそう」という言葉が彼女をなあなあに扱うものだということも知っている。彼女は別に感覚的な、詩的な人というわけではない。思考は論理的だし、感受性が豊かとは到底思わない。どちらかといえば、現実問題を理詰めしすぎて思考が十二分に回りすぎているがゆえに疲れていそうな所がある。私はなにも言わない。自分はそばに居さえすれば良い。それからお互いしばらく無言になって昼食をとる。冬の川は穏やかだ。
 私たちはツルミの水中都市に通学していた。ツルミはトーキョー湾などの中心地、ヨコハマなどのお洒落な都市からは少し外れ、雑多で地味な陸街である。陸が近いことで起きる事故も年間で多々あるため(フネとの接触事故など)、住むことを嫌う人や偏見も多い。工場労働者の通勤に便利な立地なので、最近では移住者が増えている。昔は海外から出稼ぎしてくる人が多くいたため、今でも街を歩いているとアジア系の外国人が多い。あまり治安は良くない方だ。商店街には昔ながらの中華料理屋、ブティック、中高年向けの靴屋が並んでいる。いかにも冴えない街の商店街である。とはいってもヨコハマの都市なので、流行りに乗った出店などがぽっとできることもある。(しかし大方二から三年で潰れてしまって、残るのはそういう昔ながらのボロ店だ。)駅前にはちょっとしたデパートもある。ちょっとした飲み屋街もある。とはいっても高校生の私たちにはなんの面白味もない街だった。けれど私はなぜかツルミを気に入っていた。ツルミ川のフネや地上風景を見るのが大好きだった。
 彼女はそそくさと学食のうどんを食べきってしまった。机に突っ伏したので泣いているのではないかとヒヤッとしたが、しばらくして細めた目で怠そうに顔をあげた。
「雪が見たい。」
窓の外のフネを見ながら彼女がボソッという。私はその発言の彼女らしくなさに笑う。水中都市には雪が降らない。当たり前だ。地上で雪が降ったとしても水中都市にはつかず、ただ水の一部になるだけだ。
「タバコが吸いたい。」またポツリと言う。その目はどこか遠くを見ている。
「そんなメンヘラみたいなこと言わないでよ。」と言うと、ゴメンと言って少しだけ笑った。水中都市でタバコが吸えるわけがない。彼女が普段小馬鹿にしてるような、メンヘラの「地上しぐさ」みたいな発言をその時はじめてしたので面白かった。
 彼女の詩的じゃなかった部分。最近流行のように蔓延してるメンヘラの退廃しぐさを嫌っていたところ。「悩みごとがあったり、心が陰鬱ならどうしてそう思うのか分解して考えるべきだ。」と彼女はよく言った。空回った陰鬱な思考を人にいなされてきたから、だから彼女はそういうことばかり考えていたんだろうな。
 「鬱~とか地上病だからとかそういう、パッケージ化された風に振る舞うのは容易いだろうよ。」
彼女がはじめて精神科に罹った日、電話で急に呼び出されてヨコハマ駅の小さい喫茶店で落ち合った。彼女は採血のあとのガーゼを軽く撫でて抗地上病薬の入った袋を抱えていた。
「こんなに色々考えて悩んできたのに、地上病の一言で片付けられるなんて。」
泣き腫らしたであろう赤い目で彼女が言う。彼女には悪いけど、なんて可哀想な人間なんだと思って本当にいとしく思う。
「対症療法だからさ、だってずっと今のままでも辛いでしょ?」
私が言うとしぶしぶといった感じで頷く。彼女の生活は上手く回っていなかった。泣く頻度は日に日に上がっていった。彼女はふてくされながらモンブランをチマチマ削りながら細かく食べている。私はそういう彼女を傍目に数学の勉強をする。高二の冬、そろそろ受験を考えなくちゃいけない時期だ。心の中で焦りが出始めている。最近は彼女に「もうそろそろ遊びに行くのもこの冬で最後だからね。」と言っている。彼女は最近勉強ができていない。今までは努力家で試験でも良い順位をとっていたのにどんどん順位を落としている。心配した学校の先生や、泣いて授業を抜ける様子を知っている保健室の先生に勧められて彼女はとうとう精神科に行ったのだ。
 「輪廻転生って無いと思う。」
俯いたまま彼女が言う。
「今まで会ってきた誰も、誰かだったものって思いたくないよ。」
私は数学の勉強に集中する。同時に二つのことは考えられない。
「一度死んだら二度と死ねないって、そう思うよ。」
最近彼女の言うことは様子がおかしい。彼女が嫌っていた地上病の人の振る舞いそのものだった。私もメンヘラとか、そういう退廃しぐさが嫌いだったし、もうついていけないと思っていた。彼女のことは嫌いじゃないしそういう面倒くさいところもかわいいと思うけど、正直理解の範疇を超えた。今日急に呼び出されたのだって本当に迷惑だった。
「聞いて。」
彼女がペンを持っている私の手首を掴んだ。もう構っていられないと思って振りほどいた。
「やめて。」
彼女はそれから下を見てちっとも動かなくなった。そうしてしばらく経って「雪が見たい。」と言った。小さな声だった。
 その日から数週間経った十二月の末、地上で雪が降った。水中都市はとても寒かった。波面を見上げると円上の波紋がいくつかできていた。すぐ川の流れで消えてしまうけれど。彼女はしばらく学校にも来なくなっていた。心配だったけれどたまに送るラインには返信してくるから大丈夫かなと思っていた。今まで二人でいたお昼の時間も、さっさと食事を済ませて勉強するようになった。退屈だった。勉強ばかりで嫌になる。彼女が地上病を治して学校に来てくれればいいのにと思った。
 四時間目の授業中にケータイが鳴った。彼女からの電話だった。「着信音切っとけよー。」と怒られ、クラスメイトに笑われる。なぜか少し嫌な予感がした。彼女は真面目だから授業中に電話をかけてくるようなことはしないと思う。「お腹が痛い」と言って授業を抜けてベランダに出た。つまらない先生のつまらない授業に飽き飽きしたということもある。すごく寒かった。私が出ていない間も彼女は絶えず電話をかけてきていた。本当にメンヘラだなーとうんざりした。震える手で着信に出た。
  彼女は震えた声で、あがった息で「雪が見たいよ」と言った。寒さで震えているのか、泣いているから震えているのか。どこにいるのか、どうしているのか。怖かった。肺が固まって、言葉がでなかった。彼女は最後に言った。「来世は地上で一緒に雪を見たいな」
事態を了解して、叫びながら泣き崩れた。

 彼女の物語はここで終わりだ。私は終わらない。叫んだあの瞬間で私も全部終わってほしかった。映画や小説だったら終わってくれるのに。物語が溢れているせいで、みんな錯覚してる。終わったのは彼女の物語だけだ。私は蛇足のような生活を送り続けている。いまだに淡白にしか思い出したくない。詳細に思い出したら自分が崩れ去ってしまうことを肌で了解しているからだ。彼女との関係も、彼女を失ったことも簡単には表せない。頑張って説明してもそれはもあらすじかすこし詳細なあらすじかの違いでしかない。誰もわかってくれないでくれ。彼女を強くてしっかりした人だと一面的に思っていたばっかりに、彼女の詩的な弱音を受け入れられなかった。人間はもっと多面的なものなのに。彼女は最も詩的な終わり方をした。ずっと弱いのは私ばかりだ。
 雪が降った日に号泣するとか、ツルミに対してトラウマのような恐怖感をもつこととか、そういったことしかできない。なにも変わらない。今はもう雪が見たいとは思わない。


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