悪夢について

 私が悪夢だと言っているものの映像は、知らない実在しない風景の中目的を持って移動するというものだ。現実もだけど、場所にはにおいが染みついていて、実際相応の歴史がある。例えば壁の汚れは模様ではなく、それに応じた経緯があったのだ。この「知らない街の夢」を見ると、朝起きたら自分の歴史が全く無くなった気分になる。その世界で生きてきたように演じられた疲労感が大きく、夢を見る前まで(現実では)何の風景、どこの匂いの元に暮らしていたのか感覚が分からなくなる。
 現実(夢でない時)で起こる「思い出す」にありがちな歪曲された匂いが、瞬間瞬間の現実の記憶と似て非なる風景と共に延々と連続する。私はいつも極度に主観的に入力されているのに、過去に入力されたものと乖離したものがなだれ込んでくる。それで狂ってしまう。だから時間が嫌いなんだ。
(「入力されている」より適った表現はないか…?生活をしている中で、居ることで脳ミソに入ってくる全部の要素、視覚とか感情に分解される前の刺激丸ごと自分に入ってくる段階の事を言いたいんだけれど…
受容、観測とか言いたい感じがするけれども意味を調べたら違うなと思った。)
 帰省によっている場所が増えて夢の雑多さ、淵のなさが増してひどく怖い。
瞬間瞬間わいた雰囲気の記憶を切り取りはっつけて結果身に覚えのない莫大な空気感が出来上がっている。
私は現実でも初めての場所に行くと眩暈がするほどなのに、ひどく疲れる。
いや、空気感という単語が適当じゃない。
この単語だけ本当に表したいことの20%くらいしか一致してない。

 夢に悩まされていたのは安部公房も同じなので、今日は安部公房の小説を読もうと思う。安部公房の文章は難しくて分からないけれど、単語を適切に適切に、正確に表現しているのだろうという単語の選び方をしているということは分かる。私の信条に、単語は「適当に」選ぶ必要があるという信条がある。この適当というのは、理系科目で使われる「適当」だ。けっして雑という意味の適当ではない。
 はじめて理系科目で「この中から適当なものを選びなさい。」という文章を見たとき、クラスのみんな「テキトーって」と言ってくすくす笑ったが先生が「この場合の適当は適切という意味だね。漢字を見てごらんよ。逆になんでいまのテキトーは雑って意味になってるんだろうね。」と言った。その時私は「適当」という単語を選ぶことの適当さに惚れてしまった。昔から小説を読むのが大好きだったけれど、その時以来単語を適当に選ぶ文章を好むようになったと思う。なんなら、理数科高校を受験したのも「適当」と出会ったからかもしれない。周囲に意外に思われながら理数科高校に入学して物理を選択して、大学で工学部に入った。高校に入ってから安部公房に出会って、その文章に傾倒するようになった。
 反対に合わない文章があって、それが詩的な文章だ。多くの人がなんとなく良いなって思う文と少ない人が単語の選出の丁寧さに気づく文なら私は圧倒的に後者を支持している。前者を悪者だと思っているわけでもないし、わざわざ敵視しているのだから心のどこかで良いと思っている部分もあるのだと思う。けれどそれの逆でいたいと思うのだ。
 ここまでアツく文章について語ったが、私は別に今は小説を書いたりしているわけでもない。ただただ日常で使う文章は適当でありたいと思っているだけなのだ。以上寝起きの千文字の文章……。

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