批判は無意味ではないが無力である

私自身がこのnoteでさんざん、アレコレ色んなところを批判してきて言うのもなんですが、批判というのは無意味ではなくとも無力なのですよね。

批判そのものに、現状を変える力はありません。批判された側が、それに対して対抗するなり反省するなりして、現状を変更したりしなかったりします。批判者と実行者は異なります。

現状を変更することが出来る人間が批判するくらいなら、さっさと変更するはずであり、改善や改良などを出来ない人間からこそ、現状に対して批判をするのです。

あくまで、批判は他者の思考や意見を変えることが出来うる力はありますが、実行力は伴いません。

だからこそ、批判された側に改善を実現させるためには、その批判への共感者を増やして、同じ批判をする人を増やして圧力を掛けることが必要になります。

そして、共感者を増やすためには、他人を惹きつける言葉が必要です。しかし、批判が過激になっていくと却って共感者は増えません。批判がカルト的・過激派的になると、ごく一部の熱狂的共感者は出てきても、総体としては数が増えず、批判される側への圧力にはなり得ません。70年安保後の左翼系過激派ゲリラが、60年安保の時ほどの社会的ムーブメントを作れなかったのはその証左になるでしょう。

批判される側がその批判に対して誠実な対応をするとは限りませんが、「数は力」でもあります。政治家だろうと芸能人だろうとYouTuberだろうとサッカー協会だろうと、支える側の人間の大多数によって批判されれば対応せざるを得なくなります。

しかし、その批判が数をまとめられない、過激すぎて理不尽にも思えてしまうようなものであれば、その批判に同調する人は増えません。

結果として、その批判は数を増やせずに世間的にも無視されていきます。

厄介なのは、そこで無視されている現状に不満を覚えた批判者が、さらに過激化していってしまうのですが、もうそうなったらどうしようもなくなります。

批判の正しさと、協調者の数は必ずしも比例しません。それは批判者が常に頭の片隅に入れておかねばならないことでしょう。

子どもの喧嘩は腕力と悪口でやるものですが、大人の喧嘩は金と法律で戦います。しかし、批判が言葉の暴力になると、それは子どもの喧嘩です。

今でも、子どもの喧嘩みたいなやり取りはメディアでもネットでも見かけますね・・・。

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