「ノブレス・オブリージュ」と「刑は士大夫に上らず、礼は庶人に下らず」
フランス語の「ノブレス・オブリージュ」という言葉は、貴族の道徳・行動様式を示しているように思えますが、実際は19世紀になってから生まれた言葉だそうです。その時点ではフランス革命後ですので、当然ながら貴族や王が支配する状況下ではなかったのですが、この言葉に近い考え方はそれ以前にもあったのでしょう。
今さら言うまでもなく、「高貴なものはそれに応じた義務がある」という解釈となるのですが、今では「社会的地位が高いものは、それに見合った社会的貢献をせねばならない」という使われ方もします。
いずれにせよ、身分・地位が高い人はそれに応じて社会的責任を果たすことを求めるのがこの考え方ですが、それを果たしている人もいれば、果たしていない人・果たす必要なんかないと思っている人もたくさんいるでしょう。
この「ノブレス・オブリージュ」は西洋における身分と責任の関係性を端的に表す言葉として非常によく引用されますが、では日本も所属する東洋ではどうでしょう?
西郷隆盛の言葉としても言われ、元は古代中国の書経にある、
「功ある者には禄を与えよ、徳ある者には地位を与えよ」
という言葉が対照的に比較出来るでしょうか。お金と地位を分けて考えるのは東洋的思想に独特な感じがします。金銭を卑賤なものと考えていた直江兼続が、伊達政宗が見せびらかした金の大判を素手で触らず扇子であしらったエピソードを思い出します。
ただ、個人的には東洋思想として、
「刑は士大夫に上らず、礼は庶人に下らず」
の方を「ノブレス・オブリージュ」と比較したい気持ちがあります。
こちらの言葉(「刑は~」)は、
「貴族階級のものは礼節によって自らを律し、罪を犯しても処罰される前に疑われた時点で自裁しなければならない」
「庶民は罪を犯したら処罰される代わりに貴族を縛る礼節を守らなくていい」
ということを意味します。
主君(王や皇帝)に忠節や行動を疑われた時点で弁解したり反抗したりしてはいけないと言う時点で、歴史上いくらでもそうしなかった貴族を思い浮かべられるでしょうけれど、ともかく、東洋的(中国的)な貴族の在り方はこういうものです。儒教に基づく礼が個人や家や国の中心にあって、言動を厳しく規律するべきだ、という考えは、20世紀初頭まで存在していました。
かつての東洋において、地位と責任の関係性を示す言葉としてはこちらの方が適切な気がします。昔に限ったことではなく、現代中国政府においても、習近平国家主席に疑われた高官が次々と姿を消しているのを見ると、もしかしたら今の中南海でも同じ行動原理が働いているのかも知れません。
その一方で日本のように、地位ある人間が罪を犯しても認めず、あるいは反論して省みず、厚顔無恥に傲岸不遜な態度であり続けるのとどっちが良いんでしょうね。