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時代の歴史的評価は時代によって変わるし異なる

今の時代は将来、どのような時代だったと歴史的に位置づけられるでしょうか?

感染症に右往左往した時代でしょうか?
アメリカ合衆国の凋落と中国の勃興が決定的になった時代でしょうか?
テロと暴動が世界中で頻発する時代でしょうか?
インターネットで何もかも行われる始まりの時代でしょうか?

特徴というのは、そのものとは異なるものとの比較することで認識されます。時代で言えば、区切った時代の前後の時代との違いが特徴として意識されます。

今の時代は過去、例えば2000年代や2010年代との違いはいくらでもピックアップ出来るでしょうけれど、2030年代や2040年代との違いは現時点では分かりません。

結局、今の時代を評価するには、もっと未来になってみないと出来ないのです。

これは現代に限らず、いつの時代においても同じでした。同時代的にその時の歴史を定義しようとすると、同時代的な眼鏡で見てしまう以上、偏見が加わります。一人だろうと団体だろうと同じです。どうしたってその時代における常識・ルール・道徳が大きな影響を歴史観に与えます。

かつての中国における歴史書(正史)は、基本的には時代がある程度経ってから書かれるべきとされていました。

王朝が歴史書を作る理由は、前王朝から統治権を引き継ぎ、あるいは正当に奪い取った証しだったからです。前の王朝はこれこれこうなって破綻して、そして我が王朝の創始者がこんな偉業を成し遂げて天下を統一したのだ、という理屈です。

もちろん、史家には史家としての誇りがありますので、褒め称えるだけでもないのですが、非難は出来ません。なぜか書かれていないところがあるとか、他の頁の記述と矛盾があるとかという遠回しな抵抗を行うくらいでした。

ともかく、その歴史書は王朝交代直後には完成品として作成することはなく、何十年も時間をかけて書かれました。それまで何もしないわけではなく、過去の記録や証言は集めておきます。そして時間を書けて歴史書として著述・編纂されるわけです。 

もし、王朝が交代してすぐに制作したらどうなるかというと、モンゴル支配の元朝から朱元璋の明朝に切り替わった直後に作られた「元史」は非常に出来が悪いと言われています。

あまりに杜撰極まりないため、20世紀になって辛亥革命後の中華民国の時に「新元史」が作られたほどです。

昔のことだから出来が悪かったのではなく、時間をおかずに急いで作ったから杜撰になったわけですが、どうしても今のことや直前のことを歴史として扱うと、まだ歴史的事象における当事者・関係者を配慮せざるを得ません。例え悪く書かねばならない理由があったとしても、その通りに悪く書いたら騒ぎになってしまいます。

現代で言えば、ようやく冷戦崩壊やその後の90年代について、歴史的に批評できる時代になったくらいでしょう。

もちろん、同時代的な批評に意味が無いというつもりはありません。それはそれでもちろん大切です。

ただ、歴史的評価など時間が経ってから行われるものであり、さらに時間が経つと評価が逆転することもざらにあります。

戦前の日本では、楠木正成は忠臣として描かれ、足利尊氏は逆臣のような位置づけでしたが、戦後の唯物史観・マルクス主義史観では評価が真逆になり、さらにマルクス主義の衰退によって、それぞれの人物像も変わっていきました。

今の欧米でも、フロンティアを切り開いた中世・近代の偉人が、現地の先住民・黒人奴隷を虐待した極悪人と非難されることもあります。

歴史学の発展を経て、人や事件に対する評価が善悪を行ったり来たりしたり、裏表が入れ替わることもあります。しかし、歴史学が学問である以上は、過去をそのまま否定するのではなく、歴史的評価を積み重ねて昇華して新たな展開を生み出すものです。

現代も数十年後には、少なくとも何らかの形で混乱している時代とは言われるでしょうけれど、もしかするともっと混乱した時代と平和な時代を間に挟んでいれば全く別な評価になるかも知れません。

この2010年代、2020年代については、同時代的な批評は山ほどありますし、今現在見て非常に的確だと思えるものもありますが、30年後、50年後は全く異なる見方がされていてもおかしくありません。それこそが歴史の醍醐味とも言えるでしょう。

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