帰国できない一年

日本へ帰れない。ソロソロまるまる一年が経つ。最近やっと少しづつ減ってきた日本での感染者の数とワクチンのニュースを見ては、今年は帰れるのだろうかと期待は半分。

中国では、今回のコロナで大変だったのは、1月末〜4月上旬。色々なことが制約され、コロナという状態に対応しようと若干の混乱もあったと思う。

僕は、一年前の1月中旬に出張で武漢にいた

予定が若干変更になり、数日前に上海へ戻ってきた。と思ったら、武漢が閉鎖されたと聞く。出張に出る前は、それほど危険視されていなかったと記憶しており、その話を人伝に聞いて大分驚いたのを覚えている。知人の話によると、武漢を通る高鉄(新幹線)は周辺の駅にいっさい止まらずに通過、高速道路のICは全て閉鎖になった様だった。その影響で、武漢からきたと理由で他の省に入れない、武漢にも戻れない、高速道路で立ち往生してしまうという人もいたようだった。

上海のほうはと言うとは、「危なかったね」という話はあるものの、まだまだ余裕のある雰囲気だったと思う。それが、2月に入ると急激に警戒感が高くなった。2月上旬は春節休暇。戒厳令とまでいかないものの、街中から人が一気にいなくなった。食料品関係の店はしまってしまい。例えば、スーパーに立ち寄っても店員が2、3人、顧客もだいたい同じ人数。店が閉まっていたのは政府の強制ではあったけれど、みんな自主的に外出を控えていた。そんな中、僕は近くの公園をランニングしていたのだけれど、いつもは散歩する人などで賑わっているところも、せめてお爺さんが一人散歩しているだけだった。

4月頭まで継続した特定地区隔離

ニュースなどでは、武漢に設置された緊急用の医療施設や医師や看護師の仕事ぶり、厳しい病院の状況などが放送されていた。一日中被っている、全身を覆う防菌服を脱ぐとバケツいっぱいになるほどの汗が滴っていた。日本の医療現場も相当大変なのだろうと想像する。日本の良いところは、いくら大変でも粛々と仕事をなすところだと思う。けれど、時には誰かのためにもアピールが必要じゃないかと感じる事が多い。

端から見ていて、中国では本当に国も個人も全体でコロナを抑え込もうという姿勢があった。中国人の底力を見た思いだ。例えばだけれど、医療機関に勤めているからといって、周りから避けられたりすることもない。みんなが敬意を持っていた。親類に医療ではないけれど、空港で入国する人の検査に立ち会う仕事をしている人がいる。防護服も着し、PCRも度々受けている様だ。その仕事が原因で周囲と問題になったと言う話は聞かない。

2月の武漢は大変で、自宅から出ることも出来ず(武漢では強制待機)、食料なども配給だった。当然、最初の頃は十分な食料が回りきらないとうこともあったようで、その時の反動から、配給が終わった後に買い込んだ米を消費するのに困ってると、先日武漢にいる仕事仲間から聞いた。

3月に入り日常生活の模索を開始

僕も仕事で他の省へ毎週のように行き始めた。ただ、この移動が大変だった。車での移動は、それほどでも無い様だったのだけれど、僕の場合は高鉄。大量の人を輸送する高鉄は、平時は安価で効率が良く便利だけれど、コロナ禍ではウイルスを大量拡散する仕組みになってしまう可能性がある。駅での乗り降りで毎回パスポートを見せ、登録、申請する。専用バスで保健所まで申請に送られることもあったし、お客さんに駅まで迎えに来て貰わなければいけなかったこともあった。なにしろ、人の手で全ての乗客の行動を把握しようとしていたのだから非常に手間もかかるし時間もかかった。

参考:一番面倒だった時の流れ
高鉄の駅に到着→駅への入口でパスポート提示(氏名、国名、パスポート番号と入国日をリストに記入:パスポートと入国日のページは写真撮影)→ チケットを買い改札へ行き高鉄に乗車 → 目的地の改札でパスポート提示 → 入国日も確認 → 行き先地区(市的なもの)のブースへ移動 → 登記 → 待合が10名程になるのを待つ → 専用バスで移動 → 市の保健所に到着 → 登記 → 専用バスで移動 → 社区(町村的なもの)→ 登録 → 最終目的地へ(ホテル、客先など)。
このプロセスは、当時移動する人が通常の20~30%だから、なんとか出来たことだと思う。ちなみに中国人の場合は、身分証明書で移動歴が自動的に残るので、もう少しスムーズだった。3月は、日本で感染者数が増加して来ていて、パスポートを見せるたびにヒヤヒヤしたものだ。

人出も次第に増え始めたのは4月

色々なことがスムーズになり始めた。その理由の一つが、二つの渡航履歴管理アプリの登場だった。スマホ上で扱える、行程アプリと健康コードだ。行程コードは、携帯番号に紐付けされており、健康コードは身分証番号か外国人ならパスポート番号に紐づけられている。
・行程アプリは、開くとその携帯の保持者の行き先を表示する。画面には、移動時に携帯電話が電波を拾った地区名が現れるわけだ。地区名は結構大きな範囲で、例えば上海なら「上海」とだけ出てくる。その下の小さい区画までは出てこないので、個人の行動を完全に把握できる訳ではない(実際にはよくわからないが)。
・健康コードは、専用のアプリを開くと表示されるQRコードだ。事前登録が必要なのだけれど、お店なのに入る際に専用のリーダーで読み取る事で、入店した人物の情報が記録される様になっている。このQRコードは、緑、赤と二種類あって、危険地区に渡航歴が無いと緑色、有ると赤色に変わる。外国から入って来た場合は、赤色になるので、どこにも移動できない。そもそも、外国から入って来た場合は、専用のバスでホテルに直行し、そのまま隔離されてしまう。

導入当初は、外国人は登録出来ないなど不便なところもあったけれど、それも2、3ヶ月で解消された。今は問題なく使えており、駅や役所など色々な施設への出入りも何の支障もなく出来ている。逆に、これがあるから、どこへ行っても安心して利用できる。それから、健康コードが赤くなる様な場所へ行くことは控えることにも繋がっている。率直に言うと、赤いQRコードなど欲しくない。どこへも出入りが出来なくなってしまう。そう言った心理的な面から見ても、この仕組みはよく出来ていると個人的には思う。

確かに移動を記録されている

けれど、このコロナ禍にあっては、キッチリしている人がシッカリ守られる仕組みでもあると感じるのだ。感染すると、氏名、渡航歴(列車番号など)、全て公表されてしまう。しかし、それによって、自分も感染の可能性があるのではという事がわかり、自主的にPCR検査を受けに行くことが出来る。

外国人にとって気を抜ける様になって来たのは

4月末頃。なぜかと言うと、レストランが戻って来たからだ。日本料理の開店の許可が下りたのだ。それまでどうしてたのかと言うと、むろん自炊だ。中国から出れない日本人駐在者の自炊率は、コロナ禍で一気に高まった違いない。僕も実際下手な料理に、なんとか満足していた。日本料理再開の後もしばらくは、自炊を続け、お店に足を運ばなくなったぐらいだ。それも今では、ほぼ元に戻ってしまった。ただ、いくつかレシピが増えたのはメッケものだと思っている。

残念ながら、日本料理に限らず何件ものレストランがお店を閉じた。商店が並ぶ道は、歯抜け状態になっており、影響の大きさを感じた。政府の支援は企業を向けを中心に行われており、個人や店舗などはもろにコロナの影響を受けてしまった。結果的に、店舗物件の値下がりが起こって、より小さい物件に店舗を移すなどして生き延びたお店もあった。最近は空き物件も大分埋まって来ており、そこかしこで内装工事をしている。知り合いの社長でも、4月には社員への大目の退職金は払い一人になって業務再開をした方や、社員との相談で数ヶ月給与を減額して生き延びた方など、色々なやり方でくぐり抜けようとしていた。僕個人としては、おかげさまでコロナの影響は比較的少なかった。

さて、

音楽バーのライブが再開されたのも4月末。中国に入ってこれない日本人も多いので、集まっても10名程度だったけれど、久しぶりにステージに立つのは緊張した。約3ヶ月休んでいた反動からか、今回の春節に入るまでほぼほぼ毎週ライブがあった、、、 (- - ; 。最初少なかった人も、1月末の最後のライブなど、50名以上集まるという盛況だ。それだけ、色々自由が効く様になったと言うことだ。

中国の感染者数は?

いま上海周辺では、たまに数名という単位で見つかる。大体が外国から入って来た人か、或いはそこからの感染だ。感染者が見つかると、その人がいるホテルや、住んでいるマンション周辺一角が隔離地区に指定され、周辺住民全員のPCR検査が行われる。日本的な感覚の範囲でいうと、〇〇一丁目全体が隔離というイメージだと思う。渡航制限で危険地区に指定される範囲は、もう少し広い。市・町ぐらいの単位になる。1月中旬に上海市の宝山区で2人の感染者が見つかった。宝山区には友人が住んでおり、心配になったので電話してみると、いたった平常だった。仕事場も宝山区、住居も宝山区にあるため、外出時は気をつけないといけないが、内で事足りるので特に不自由は感じていない様子だった。慣れと諦めの成せる技だろう。

今自分は、スタバでこの記事を書いている

店員さんは全員マスク姿。お客は誰もマスクをしていない。今日の午前中は、PCR検査を受けに行った。鼻の奥が大分痛く、しばらく不快感が残った。明日から仕事である、他省への移動は陰性のPCR報告が必要なのだ。


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