見出し画像

二月のなごり香(7,686文字)

「ねえ、ちょっと一緒に来てくれない?」
 家の鍵を開けるなり彼女は何の脈絡もなくそう言った。マグカップに淹れたばかりのコーヒーに口をつけたままキョトンとする僕を彼女は急かす。
「寒いからちゃんとコートも着てね、はい手袋も忘れてる。はやくはやく」
 肩よりも少し下まで伸びたやわらかな癖毛をゆるりと揺らし、玄関を出た僕の手を引いて彼女は迷いなくずんずんと歩いて行く。彼女は、いつもそうだ。好奇心旺盛で、いつだって自分の決めた道を突き進む。周りの評価なんて一切気にしないし、そもそも興味もないのだろう。
 初めて会ったのは、大学一年生の春だ。僕は一年留年していたから十九歳、彼女は現役で十八歳。学食二階の窓から見る桜の花びらは温かな風をはらんで、その姿を一段と美しく魅せていた。僕と彼女の出会いはただの、偶然だったのだ。一枚の花びらが講義の一覧表を眺めながらラーメンをすすっていた僕の視線を、とらえて。ぼんやりとそれを追いかけていけば、地面でぴょんぴょんと飛び跳ね腕を振り回す奇怪な行動をしている女子学生に気がついた。腰近くまである長くきれいな黒髪、ふわりと広がるワンピース。彼女は僕の追っていた花びらを掴み取ると嬉しそうにふと空を見上げて。ぱちりと交錯した視線にへにゃり、笑って手を振った。
 それが、僕らの始まりの話。
 変な子だ、そう思っていたはずなのに。たまたま授業がかぶって、話すようになって、いつしか共に過ごすようになって。僕が彼女に魅了されるのにそう時間はかからなかった。
 彼女はかわいいひとだ。聞けば化粧の仕方は最近覚えたようだが、そちらではなく、性格的な話で。ひとりで突っ走るから僕を置いていくこともしばしばあるけれど、少しドジだからきちんと見ていないと、手を繋いでいないと危なっかしくてしようがない。転ぶなよ、と声をかけようとした瞬間に派手に転んだりする。だから、ほら言わんこっちゃない、と、いつも苦笑するのだ。馬鹿だなあって笑って、手を差し伸べて。照れくさそうに笑いながら僕の手のひらを頼るその小さな手のひらのぬくもりが、ずっと愛おしかった。
「わかった、わかったから。そんなに焦るなよ。また転ぶぞー」
 宥めるように苦笑して声を掛ければ彼女は肩を竦めて歩く速度をゆるめた。ちらりと横顔を盗み見る。寒さに紅潮したまあるい頬、まばたきをするたびに微かに震える長い睫毛、二年前のクリスマスにプレゼントした赤いタータンチェックの鮮やかなマフラーに埋める口元。するり、指先を絡めると少しだけ照れたように笑った。
「ここにね、居たの。」
 連れてこられた近所の公園に人影はなくて僕と彼女の雪を踏みしめる音だけが響く。キョロキョロとあたりを見渡した彼女が小さく首を傾げて、どこに行っちゃったんだろうと呟いた後、静かに、にゃあ、と鳴いた。
「ネコ?」
「うん、子ネコなの。ちいさくて、真っ白で、でもきっと独りぼっちの……あ、あそこ!」
 ガサガサ、雪化粧の葉が揺れて茂みから声がする。にゃあ。僕の手をぱっと放して彼女は駆け寄る。微かに手のひらに残るぬくもりをそっと握り締めたら、まだ遠いはずの春の香りを嗅いだ気がした。

二月 七日
金曜日、家族が増えた。警戒心を剥き出しにして引っ掻いてきた子猫。彼女がやさしい両手で抱き上げて撫でれば、子猫は泣くように、小さく鳴いた。もうさみしくないよ。

 早朝。突然僕を叩き起こした彼女は何かを企むような表情で笑った後に、布団の中でごねる僕をシーツから転がり落として言った。
「大掃除しよう!」
 思い付きで事を始めるのはいつものことだ、驚くことはない。寝ぼけ眼のままだったけれど、いいよ、と彼女の手を借りて起き上がって言った。彼女の準備した朝ご飯を食べて、鼻歌を歌いながら片づけをする彼女の後姿を見つめながら僕は声に出さずに言う。また料理の腕が上がったなあ、美味かったよ、ありがとう。直接言ってやれば彼女は花が綻ぶように笑うのだろう。それがわかっているし、僕は彼女のその表情が本当に好きだ。けれど言えないのはもう何年も繰り返してきたことで今更恥ずかしいという僕のくだらないプライドだ。ごめんね、と小さく呟いた声は水音に掻き消された。
「そうだ、今日はすっごく天気がいいんだって! お布団も干そっか!」
 無邪気な声。キュッと水道の蛇口を捻って手をぱちんとたたく。それが始まりの合図だ。ふたりで協力してシーツを布団から剥がし、枕カバーや掛布団カバーなんかも全部まとめて洗濯機に放り込んだ。そして僕がベランダの物干し竿に布団を引っ掛けて叩いている間に、柔軟剤と洗剤がどちらも分量ぴったりでなくなったと彼女は嬉しそうにしていた。
「はいこのテーブル、ロフトにあげてくださーい」
「うげ、これすごく重いんだけど?」
「下から支えてるから頑張れー」
 六畳一間。そこが俺と彼女の過ごしている空間。ふたりでいるぶんには何ら問題はないが物を置くには少々窮屈で、一番小さいサイズのテレビを隅に置き、パソコンで作業をするためのテーブルと敷きっぱなしの煎餅蒲団、洋服を入れている衣装ケースや本棚が数個あるだけだ。本当に、たったそれだけ。でも彼女を初めて家に入れた日はもっと何もなかった。暇な時間何してるの? と真顔で言われた日が懐かしい。
「じゃーま! あとこの子も危ないから連れてって!」
「はいはいごめんって」
 てきぱきと作業を進めていく彼女に真っ白な子猫を手渡されてロフトを上がる。軽やかに雑巾で床を拭く背中はもう見慣れたものだ。荷物だらけのロフトをぐるりと見渡して胡坐をかくと足の間に猫を座らせる。初めて、このロフトはこんなに狭かったのかと実感した。
「あいたっ」
 下から声がする。見れば彼女は潰れたカエルのような姿で床に転がっていた。なんだなんだと言いたげに、にゃあ? 猫が鳴く。そっと撫でたら目を閉じて喉を震わせた。だいじょうぶか、と声を掛けつつも自分の拭いた床に滑って転ぶ姿も、いつものことだったから。何年経っても変わらないね。思わずくすくすと笑ってしまう。
「わらうな! あほー!」
 真っ赤な頬を膨らませて怒る彼女は、眩しい林檎のようだ。すると呆れたように僕の足の間から猫が抜け出して、くあ、大きな欠伸をして丸まる。肩をすくめて猫から視線を外せば、ふと視界の隅で、何かが光った気がした。
「ねえ、そこ何か落ちてない? テレビの裏。」
 え? 首を傾げた彼女へ確認するように言ってみる。不思議そうにしながら僕が目を細めて指し示した先を覗き込んで、手を差し入れて、それからぱあっと目を輝かせた。
「あった! ずっと、ずっと探してた大事な……!」
 きらりと光る小さな欠片。記憶の一部であるそれを大事そうに握り締めて笑った彼女をロフトの上から見つめるその瞬間は、邂逅の季節に、よく似ていた。

二月 八日
 土曜日、彼女の突発的な提案からふたりで部屋の掃除をした。彼女が片方失くしたと嘆いていた僕からのプレゼントである、幸福、の石言葉を持つアクアマリンのピアスが見つかった。よかった。

 ごろりと床に転がって猫と遊んでいると後ろからガチャン、と大きな音がした。びっくりしたのか猫が毛を逆立てて飛び退く。起き上がって振り返ると彼女が大きな溜め息を吐きながら肩を落として、キュッ、水道の蛇口を捻り水の流れを止めた。
「どした?」
「ごめん、割っちゃった……」
 彼女が泣きそうになりながら言う。かちゃり、微かな重たい音を立てて滑り落ちていくのは去年の記念日に彼女の友人が送ってくれたものだ。赤と青の、マスキングテープで飾られたようなデザインをしたお揃いのマグカップ。彼女はひどく気に入っていたようだったから落胆は大きいようで、落としたことに動転するよりも遥かに表情が曇っていた。
「うお、なかなか派手に割れたね」
「ね……直らないかな」
「うーん」
 僕のマグカップの方を洗っている時に手から滑り落ちて彼女の方のマグカップに直撃したのか、水道には細かな欠片が散乱し取っ手のあたりにもひびが入っていたりして、両方とももう使える状態ではない。諦めるしかないね、と言えばがっくりと項垂れた。
「結構ショック」
 溜め息を吐きながらビニール袋に広告を敷き詰めて欠片を拾おうとする姿は殆ど心ここに在らずといった状態で、逆に危なっかしくて見ていられなかった。
「危ないから僕がやるよ、貸して」
「はぁい……」
 彼女に預けたままにしておくときっと怪我をする。少しだけ強めに言えば彼女はふっと息を吐き出すように力を抜いて、眉を下げた。反省したならごめんねは何回も言わないこと。それは僕たちの間での決まりごとのようなものだ。つまらない嫉妬から喧嘩した時も、帰りが遅くなって心配をかけ泣かせた時も、どんな状況だってそれは変わらない。だから、今だって。
「あの、指とか……怪我、しないように気を付けてね」
「大丈夫だって。それより新しいマグカップを買いに行くから、今のうちに準備しなよ。君がすっぴんでもいいって言うなら、僕は別に構わないけどさ」
 元気のない彼女を励ますように努めて明るく振る舞った。少しだけくすっと笑った彼女が化粧をしている間にマグカップを全て処理し終えて、僕は何となく感じる寂しさを呑みこみながらゴミ袋の口を縛る。
 そして、僕たちは近所の雑貨屋に向かうと食器コーナーで相談しながらうろうろとさまよった。あれでもない、これでもない、それはどうかな、いや持ちにくいからこっちかな、でもあれも可愛いね、あっちも色合いが綺麗だよ。小一時間悩んだけれど、僕たちが購入したのは結局割れてしまったマグカップのデザインと似たような、マスキングテープで飾られた色違いのもので。もっと別のやつにすればよかったかなあ、と呟く彼女に、さあね、と答えたけれど、僕はわかっている。
 きっと本当の理由は、もっと別だ。

二月 九日
 日曜日、彼女が手を滑らせてお揃いのマグカップを割った。仕方ないねと買いに行った新しいマグカップは今まで使っていたそれとよく似ていて、けれど、同じじゃないんだ。

二月 十日
 月曜日、夏の夢を見た。大きな麦わら帽子に鮮やかなブルーのワンピース、向日葵畑に埋もれる彼女のうつくしい笑顔。思わずシャッターを切ったその表情が、愛しい。

二月 十一日
 火曜日、静かに雪が降った。やむ気配なんて微塵もなかったけれど、ただずっと、永遠にも感じられる時間をベランダでふたり過ごしていた。風邪、ひいてないといいけれど。

二月 十二日
 水曜日、古くなった歯ブラシを捨てた。磨いた気がしない、と固め派な僕と歯茎に刺さるから嫌いだ、と言う彼女。やっぱりこれだけはお互い譲れないね。ざんねん。

二月 十三日
 木曜日、彼女の誕生日。僕がひとつだけ吐いた嘘に、彼女はありがとうと微笑んだ。(でも、そんなのはただの僕のわがままだ。わかってる。)

「……ねえ、起きてる?」
「ん、起きてる」
「今日は、寒いね。すごく。ね、もう少し、そっち行っていい?」
「……いいよ。おいで」
 もう二十二歳だ、せっかくだからちょっと高いレストランで食事でもと提案した僕にゆっくりと首を振って、ここで祝ってほしいの、そう言った彼女の意を汲んで小さなケーキを買い、ささやかに行われた誕生日を終えた二月十三日の深夜。隣で寝ていると思っていた彼女がふと、細い声で僕を呼んだ。僕を頼りにと伸ばしてきた小さな手は少しだけ冷えていて、だから包むようにその指をそっと絡めてやれば、真っ暗闇で彼女の表情は見えないけれど、唇にゆるりと笑みを浮かべたようだった。
「あのね、何となく思うだけなんだけど。傍に居るだけですごく安心できるひとって、きっと才能だと思うんだよね」
「……それはまた、変わった才能だね」
「あ、その反応。私の言ってることまた流そうとしてるなー? 結構本気で言ってるし、実際そうなんだけどなあ」
 くすくす、彼女が笑う。何だかやけに楽しげな声色の時、彼女は大体とても大切なことを伝えようとしている。例えば、僕と彼女の人生を決める為の分岐路。僕を奮い立たせるための魔法の言葉。彼女の言葉は素直で、一言に籠められた重みが本当に本当に、大切で。だからきっと、今も。
「何それ、つまり僕がそうってこと?」
「うん」
「買い被りすぎだよそれ」
「全然。買い被ってなんかないよ、本当のことだもん」
「そうかなあ」
「そうだよ」
 彼女の声が力になる。彼女のぬくもりが僕の心の糧になる。彼女が居ればきっとなんだってできるし、怖いものなんて何もないのだ。そんなことを伝えたらまるで子供のようだと笑われてしまいそうだけれど。
「その才能はね、たくさんのひとに愛されると思うの。安心感ってそうそう与えられるものじゃないし。無意識でひとを包み込めるそのふわっとしたやさしさ、私だいすきなの」
「実感ないけどなあ。どっちかって言うと君の方がそんな感じだと思うけど」
「ええ? ……じゃあ、あなたのがうつったもかもね」
「うつったって……何かやだな、微妙なキブン」
 気の抜けた笑みを浮かべて僕は少しだけ身じろぎした。足の先が彼女の冷えた温度とぶつかるけれど僕の熱はじわりじわりと広がっていく。すると彼女が、小さく息を吐いた後に僕の手のひらを握る手に力をこめた。
「ねえ」
「ん?」
「だいすき、だよ」
「……そっか」
「本当に、本当にだいすき」
「どうしたの、大丈夫だよ。僕はここにいる。君の傍にいるから、大丈夫」
 彼女の柔らかい声が脳の中をゆらりとたゆたう。一瞬だけきゅう、と小さくなった心臓は思いのほか穏やかに脈動を繰り返し、また、とくり、とくり、と等間隔のリズムで身体を打った。誘うように襲いくる睡魔に抗いたくて、絡めた指先へと力をこめる。まだ眠っては駄目だ、まだ。耳の奥で反響する。ありがとう、だいすき、ごめんね。残響が満ちていく。水音が聞こえた。ああ、ああ。どうしても、そうなのか。悲劇だと理解するにはもう遅い。解答はとうに導き出されている。
 恐らく泣いていたであろう彼女の声に僕は、確かに君を愛していたのだ、と、そう答えることができたのだろうか。

二月 十四日
 金曜日、バレンタインデー。空っぽになった部屋で目を覚ました。郵便受けの奥底から見つかった小さな箱からするりと冷たいてのひらに滑り落ちてきたのは、料理の下手くそな彼女からの小さな手作りチョコレートと、もう既に持ち主のいなくなった、僅かに錆びついた僕の部屋の合鍵だった。

 二月中旬、まだ微かに湿った雪の降る、吐く息も白い季節。大学生活一年目の頃はゆっくりと過ぎていくように感じられていたはずの時間は、大学四年生になってから信じられないくらいのスピードで僕たちを飲み込み、流れていった。春、夏、秋、冬、大学、就職活動、卒業、就職。生ぬるい環境下で生活していた僕たちは、右も左もわからないままで社会に放り出されることを知った。夏の間に東京に就職を決めてしまった僕と片田舎の地元に戻って就職をすることを決めた彼女とでは、新しい季節になった瞬間、過ごす時間は移り変わっていく。共に歩んでいたはずの時間がゆっくりと、離れていく。
 遠距離恋愛は続かない。そんな言葉は言い訳に過ぎず、自分たち次第でどうにでもなるのだ。きっと。しかし社会人ともなれば、うまくいかない日常へのフラストレーションが蓄積していくだろう。互いに業務に追われ、関わっていく人間関係が大きく変動し、考え方もずれていくのだろう。学生時代には些細な喧嘩で済んだことが、取り返しのつかない別れに発展する可能性だってあるのだろう。支えあえば解決できるのでは、そう考えても得策とは言い難く、いつしかふたりとも離れたままで関係性を維持し続けることに対する不安が拭いきれなくなった。
 単純に、ただ、怖かっただけなのだ。ふたりを取り巻くすべてが変わっていって、いつか、どちらかの気持ちが一方的に離れてしまう時が来たら。そんなことになったら、残された方はもう、ひとりでは立ち上がれなくなってしまうから。どうしたって、縋ってしまうから。
 口には決して出さずとも、近い将来で、どちらか片方が恐らく足枷になってしまうと、痛いほどに理解した。そしてその足枷となる可能性が限りなく高いのが、ひとつ年下の彼女を愛し、求め、自分という人間を認めてもらえることに喜びを覚えて知らず知らずのうちに依存してしまっていた、僕であるということも。
 ふたりで溺れてしまうのならば、いっそ。
 終わりにしようか、と言ったのは彼女が先で、もう一人で歩こうね、と願ったのはきっと僕が先だった。四年間を共に過ごした、恋人、という名の関係性を解消した二月六日。辛くも楽しい恋をしていた。哀しくも幸せな愛を育んでいた。けれど、僕たちの未来が重なることはないのだと、諦めた。
 あの日を境に、僕たちの長い物語は既に完結している。
 二月七日から少しずつ彼女の持ち物が僕の部屋から消えていくのを寂しいと思いながらも引き止めることが間違いだと知っていたから何も告げず、夜ごとどちらともなく、至極当然のように手を繋いで眠るだけのその一週間の関係に、改めて名前を付けようとは思わなかった。金曜日に家族になって、そのまま彼女が引き取って行った小さな白い雪のような命。拭いきれない僅かな未練か、また似たデザインを選んで離れ離れになったマグカップ。そのふたつが、僕たちの最後の思い出だ。
『僕は君の傍にいるから、大丈夫』
 彼女の誕生日、僕が約束したことを、できるはずもないのに吐いてしまったたったひとつの嘘を、あの子猫が代わりに果たしてくれると信じている。気休めのつもりでも見栄を張ったつもりでもない。本当に、できるならばずっと、彼女の傍で生きていたかった。あの言葉は僕の今の精いっぱいの願いだ。幸せになってくれ、だなんて、まだ言えないから。今はまだ、彼女のために手を離したのにいつか他の男と結ばれるのだろうな、と考えると彼女の未来を喜べない、矛盾した小さい男でいい。
 僕が彼女に伝えたい言葉は百程度では到底足りなくて、けれど僕はそのいくつを彼女に伝えることができたのだろう。彼女の心に、どれだけの居場所を作ることができたのだろう。本人が居なくなってしまった今では、もう何もわからない。住所も、電話番号も、メールアドレスも知っている。写真だって全部残っている。それでも、二度と会うことはないだろう。声を聞くことはないだろう。アルバムを奥底にしまって、いつか、心の整理がついたら見返そうと。ふたりでそう、決めたのだから。彼女のように、ただ真っ直ぐに。振り返らずに、これからの道を歩いていくと。
 一週間後、きっと彼女の残り香がこの部屋から消える。
 薬指に約束されていたペアリング。彼女の所有していた片割れの行き先を僕が知ることはない。ただ、まだ外せずに僕の薬指で鈍い光を放っている指輪を捨てることのできる〝いつか〟の日を、僕はひとりで待っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?