「お伝えしたいことがございます。」

「○○様、○○様。お伝えしたいことがございます。お近くの窓口までお越しくださいませ。」
聞くたびに思う。どんなことをお伝えしたいのだろう。自分のことではないのにドキドキしてしまう。

心当たりがあろうが、無かろうが
「話したいことがある」と言われるとすごく身構えてしまう。

何故ならわざわざそんな前置きするなんてよっぽどのことだとしか思えないからだ。心当たりがあれば「何がバレたんだろう」と思うし、心当たりがなければ「何を話すつもりなんだろう」。
幸いあまり悪い話をされたことはないが痛いところを突かれると、反論することなかれと静かに頷くほかない。
緊張しながら連絡を待っていたのに大した内容でない場合、なんて思わせぶりな!と声を荒げてしまいそうになる。
どうしようもない小心者だから。

過ぎたことはしょうがないと思い、その後どうするかを考えることができるが、未来のこととなると、「分からない」から怯えてしまう。

分からないって、なんて怖いんだろう。

学生の頃はテスト返却が待ち遠しかった。
勉強したしてないに関わらず、点数が高い低いに関わらず、
何か試験を受けたのであれば早く結果を知りたいタチだ。

自分のことを知るにつれて、今まで分からなかった他人の行動の真意にも気付けるようになった。例えば今回のことであれば、せっかちな人は小心者。
早くことを済ませないと、手遅れになってしまうのではないかと思うのだろうな。だから早く早くというのだろう。
と予想し、理解し、大体のことは対処ができるようになってきた。

こう思えるようになったのは最近のこと。
というのも今まで、自分の感情を深堀りしてこなかったのだ。
あまり興味がなかったというか、向き合うという選択肢がなかったのだ。

向き合うことは怖くもあるが大事なことなので、自己分析を頻繁にしている。
例えば不安な気持ちになった時、起因するものを樹形図にして書き起こす

・何に対して不安になっているのだろう。
・何故、不安なのだろう。

誰に提出するわけでもない、自分だけのノートなので文字は汚くていいし
順番だってバラバラでいい。
人に言えない単語だって書いていい。
見るのは自分だけ。

書いた内容の量が多ければ多いほど
スッキリするし、何より自分が納得する解決策が出る。

自分しか見ない、自分のためのノートがあると少し心強くなる。
その点でいったら愚痴ノートだっていいのではないかと思う。

私の祖母も40年分の愚痴ノートがあったと言っていた。
40年分の愚痴ノートを書き溜め、それを捨てた後に笑いながら言う人物を見ると無理にポジティブになる必要はないなと思える。

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