僕の中の頑固ジジイが育ちつつある事にふと気づき,これはヤバいと慌てた件

僕は朝,とある音声サービスで配信されているニュース番組を聴いていた。
この番組は,日替わり担当の大学生を始めとした若者達が,その日知っておくべきニュースを読み上げていく,とても朝向きな番組で,もう2年近く聴いていた。
下手なワイドショーみたいに無用な解説などが入らず,淡々とニュース見出しと内容の要約を読んでくれるという番組は,実は有りそうで無い。

しかし先日,些細な,本当に些細なことが原因で,その番組の購読を止める事となった。
感覚的に受け付けられないと自分では思っていたが,良く良く考えると,単に僕が老化しているのではないか,そして僕が頑固ジジイへの一歩を踏み出しているだけではないか,そんな事を思うようになったので,少しそれについて書いてみる。

きっかけは,イントネーション。
もう10年以上経つだろうか,所謂抑揚のない,のっぺりな発音が市民権を得てから。
昨今「ギター」を「“ギ”ター」なんて発音する人は,僕を除いて誰もいないのではないか,と思わせる程だ。

僕は言葉については,結構なリベラルだと思っている。言葉なんてどんどん変わるものだし,変わらなければならないと思っている口だ。
ただそれを僕が使うかどうかは別の話で,恐らく僕は「ら抜き言葉」は使わないと思う。けれど,ら抜き言葉を使う人を否定するつもりもないし,むしろ「ら抜き」の方がパフォーマンスが良いと思っている。そりゃそうだ。「ら」を抜くだけで,可能表現である事が明確になり,更に一文字少なく発声できるのだから。
「真逆」も然り。僕は使わないけれど,「真反対」よりも一文字分高パフォーマンスなので,こう変化しても何もおかしくはない。
まぁだけれども,では何故「ほぼ」が「ほぼほぼ」に置き換わりつつあるのかは,全くのパラドックスだが,物事には例外が有るものだ。
という訳で,所謂昨今のギターを始めとする「のっぺり発音」も,恐らく自分では使っていないけれども,それを使われたところで,言葉なんてそんなもの,と笑って済ませてきた・・・つもりでいる。

しかし,だ。
先日冒頭のニュースを聴いていて,「トライアル」を、「ト”ラ“イアル」ではなく,「トライアル」と発音されたのを耳にした。
本来ならば,そんなものよ,と笑って流すべきシーン。僕は憮然とした。
その後「トライアル」は3回ほど使われ,全てのっぺり発音だった。僕は完全に固まっていた。
そして僕は,そののっぺり発音を許容できなかった。
許容できなかった僕は,そっと静かに,その番組の購読を解除した。

ひょっとすると番組へ,「その発音は間違っている!」というコメントを送る事も出来たのかもしれない(実際コメント欄がアプリに有るので可能だが)。
しかし,「言葉は変わるもの」という信念,僕の思っているものが本当に正しいのか,という疑念,そして無料で毎日配信して下さっている感謝,これらが僕がコメントを書く事から押し留めてくれた。
もしここで「発音がおかしい」なんてコメントしていたら,それは単なる老害だ。だからその一線を守れた自分は,まぁまぁ悪くなかったと思っている。
しかし,言葉にはリベラルを謳っている自分が,まさかたかが一言の発音にここまで拘る事になるとは。
きっと僕はこの先,自分の耳に心地良い言葉ばかりを容認し,自分基準の良し悪しを振りかざし,言葉のエコーチャンバーに埋もれていき,きっととてつもない頑固ジジイになってしまうのではないか。そんな言葉,ワシの若かった頃には無かったんじゃ,乱れておるの〜,なんてね。。。絶対拒否。

ジジイになるのは仕方ない。理屈っぽくて煩わしいジジイになるのも構わない。
けれど,頑固ジジイにはなりたくない。老害とは言われたくない。

わざわざ自分が流行りの言葉を発する必要はない。
これまでと同じように,言葉は変わるものと思い続け,言葉は変わる,に素直であれば良いのだと思う。
けれど,今そう思っていても,またいつか,気付かぬ内に僕の中で育ってしまった頑固ジジイが顔を出すかもしれない。
言葉に限らず,心を開放し続け,人は人さ,と,あっけらかんとしているのが,多分一番の薬なのだろう。

2022年2月8日記

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