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浜崎あゆみ『MY STORY』は、脱エイベックスのアルバム

2004年12月15日発売、浜崎あゆみの 6枚目のオリジナル・フルアルバム。私がはじめてリアルタイムで買った浜崎あゆみのアルバムである。もちろんその前から浜崎あゆみは知っていたし曲も聴いていたが、私は浜崎あゆみが嫌いだった。世の中も音楽も舐めてるような気がしたし、バカにされてるような気がしてくるというか。それでいて、浜崎あゆみをバカにしていた。バカにされてる気がしていながら、バカにしていた。

それが、たまたまテレビで彼女が歌っているところを見たとき、ぞくっときてしまい、気になって、いくつかの作品を聴いた。そして、本作『MY STORY』を発売とともに買ったのである。
そのころ、『スーパーテレビ情報最前線』(日本テレビ)で「浜崎あゆみ…光と影 25歳の絶望と決断」というドキュメンタリー番組が放送され、それを見た余韻が冷めないままこのアルバムを手にしたのをよく覚えている。

『MY STORY』は、浜崎あゆみがそれまでのエイベックスサウンドから脱し、ロックサウンドへと舵を切った最初のアルバムであり、宇多田ヒカルの『Distance』と同日発売(2001年3月28日)で話題となったベストアルバム『A BEST』に象徴されるような社会現象と言えるほどの嵐が吹き荒れたあとの最初の一歩(実際、この『MY STORY』ではその嵐はもう吹いてないように思う)、“祭りのあと” のアルバムだと思う。『MY STORY』は、その後の浜崎あゆみの基盤を作った、その後の浜崎あゆみに今でも影響している、重要なアルバムだと思う。

脱エイベックスサウンド

デビューして間もないころ、浜崎あゆみは「globe や華原朋美のパチもん」と言われていて、鈴木亜美と比較されたり、「小室系のフォロワー」というイメージがあった。それはエイベックスだから切り離せないところがあったと思うが、音楽的には Every Little Thing なんかと近い印象があった。リミックス作品が数多く、「トランス」とか「ユーロビート」の印象もあった。

それが何やら、そうじゃないらしいというか、浜崎あゆみがロックに近付いてきてるのを感じていた。「この人、本当はロック好きなんじゃ?」みたいな。しかし、それもまだ疑わしいというか、『ロッキング・オン・ジャパン』(2001年4月号)をはじめいくつかの雑誌でスマッシング・パンプキンズを聴いていると話していたが、確かに「Endless sorrow」(2001年)などその影響がモロに出ているものの、まだ表面的で上滑りに聞こえた。前述の『ロッキング・オン・ジャパン』で浜崎あゆみはこんなことを言っていた。

あんまりあゆ的な、歌謡曲というか、ポップス? ザ・エイベックス!みたいなものを壊しちゃいけないんだって。壊せない? その勇気もなかったし

少なからず欲は出てきて、音に対しての、あゆなりのね。欲が出てきたんだったら、それはやっても平気だって。それでもし、『ああ違うな、あゆはもっとこうデジデジしてくれなきゃ』とか(中略)シャカシャカいっててくんなきゃっていう子たちがいなくなっても、それをたぶん振り向かせる事に、自分は生きる喜びを見るんじゃないかなっていう

ロッキング・オン・ジャパン 2001年4月号

この言葉を借りるなら、ロックの影響は感じるものの、やはり浜崎あゆみの音楽は未だ「デジデジ」していたし「シャカシャカ」していた。

それがこの『MY STORY』からは違っていて、一番は生ドラムが入ったことだ。

このドラムは玉田豊夢(中村一義、100s)が叩いている。私はこの曲のドラムが鳴り響く瞬間こそ、「これから浜崎あゆみは変わる」という合図に聞こえる。

浜崎あゆみの曲に生ドラムが入るのは『MY STORY』がはじめてじゃないだろうか。いや、それまでも「girlish」や「Memorial address」など生ドラムが入ることはあったのだが、あくまでボーナストラック的な扱いだった。でも、そこに彼女のサウンド志向があって、ライブを重ねるうちにその志向が強くなっていったのかも知れない(ライブは生ドラム)。
とはいっても、『MY STORY』で生ドラムなのは 17曲中 4曲のみ(※1)なのだが、それがアルバム全体のサウンドに大きく影響していて、浜崎あゆみのサウンドを大きく変えたと思う。その 4曲に限らず、「シャカシャカ」していないのだ。
(※1=生ドラムは各曲違うドラマーで、玉田豊夢の他に、Masahiro Komatsu、Shojiro Konishi、星山哲也。Masahiro Komatsu って bloodthirsty butchers の人?)

「シャカシャカ」していないのに加えて、「小室哲哉のにおい」がしなくなったのもあると思う。もとより、浜崎あゆみは小室ファミリーではなかったが、前述のように「小室系からの流れ」で見られていたわけで、それがここにきて「小室哲哉のにおい」がしなくなった。それは「エイベックスサウンド」を脱したということかも知れない。それでも、浜崎あゆみ=エイベックスと言う人がいるならば、それは浜崎あゆみが「エイベックスサウンド」を更新したということではないだろうか。

ちなみに私は、前作『RAINBOW』(2002年)がレディオヘッド(ポストロック)で、今作『MY STORY』でスマッシング・パンプキンズ(グランジ)になったと思っている。

ここで余談になるかも知れないが、私は、浜崎あゆみを「エイベックスにレッド・ツェッペリンを持ち込んだ女」だと思っている。浜崎あゆみは松浦勝人に出会いエイベックスからデビューするわけだが、松浦と浜崎の音楽的嗜好は結構違うんじゃないかと。事実に基づくフィクションだという小説『M 愛すべき人がいて』(小松成美)において、松浦氏が「あゆ、歌えるじゃん」と言う決定的なシーンであゆが口ずさんだ曲は、レッド・ツェッペリンだったのだ。

音楽的にはもう一つ、このアルバムからバックボーカルに自身の名前がクレジットされるようになった。それまでもバックボーカルを自身でつとめることはあったかも知れないが、「B.G. Vocal: ayumi hamasaki」のクレジットにボーカルへの強い意識を感じる。主旋律だけでなく、ハモりやコーラスも歌うことによって表情豊かで多彩なボーカルへと。

露わになった古風(和風)な浜崎あゆみ

もう一つ、このアルバムから露わになった要素があると私は思っていて。それは、演歌や歌謡曲にも通じる、浜崎あゆみの古風(あるいは和風)な要素である。

どちらも作曲者が同じで、このアルバムで一番多い 6曲を作曲している湯汲哲也である。前年のミニアルバムから浜崎あゆみに提供している作曲家で、彼の作るメロディや曲調には彼の出身地である京都を思わせる和風な響きがある。

もちろんそれだけでなく、彼の作る曲に呼応するように、浜崎あゆみが書く詞にもまた、「花鳥風月」が出てきたり、「見上げた空 綺麗でした」というような古風な表現が出てくる。ただ、それは今にはじまった話ではない。実は、デビュー当時から「赤い糸」だの割と古風な表現はあったのだ。それが前述のエイベックスサウンドを脱したことによってか、湯汲哲也という作曲家に出会ったことでか、そのどちらもだと思うが、例えば、同じバラードでも「SEASONS」(2000年)と「Moments」では印象が違う。「SEASONS」は Every Little Thing「Time goes by」に代表されるような “エイベックスのバラード” という範疇なのに対して、「Moments」は歌謡曲や演歌に近いような。

これもまた脱・小室哲哉ということかも知れない。小室哲哉の音楽の特徴として「時の流れの速さ」があり、日々時間に追われている我々とその「速さ」が一致した…みたいな話を読んだことがあるが、ここでの浜崎あゆみの音楽は「ゆったり時間が流れている」ように思える。少なくとも、以前よりは。
また、浜崎あゆみはこの少し前にバラードベストを出していて、そこで荒井由実の「卒業写真」をカバーしている。その影響もあったのではないか。ユーミンが歌謡曲かどうかはおいておいて、浜崎あゆみが脱エイベックスの方向に(というか自分が思う音楽の方向に)吹っ切れるきっかけになったというか。

ここにきて露わになった、浜崎あゆみがもともと持っている古風であり和風な、土着性やドメスティックなところとは何なのか。それは演歌や歌謡曲に通じてるように思うが、では、演歌とは何か、歌謡曲とは何か――という大きな問いにぶつかってしまう。だけれども、浜崎あゆみを「演歌みたい」と感じてしまう心や身体を私は持ち合わせている。これが「日本人の心」なのか?
(しかし前述の『ロッキング・オン・ジャパン』で浜崎本人は「歌謡曲」を壊したいというように言っていたのが興味深い。つまり「歌謡曲」云々は本人の意図とは別にというところが・・・続ける!)

そしてそれは、当時(も今も)なかなか他のアーティストには感じられないものだった。椎名林檎も「日本人の心」を意識していたと思うが、次第に記号的なものへと回収されていくのに対し、浜崎あゆみの場合、意識の届かないところでそれが渦巻いてるみたいな。先ほど挙げた「Moments」や「walking proud」にも流れているような、自己犠牲や卑下の精神だろうか。卑下といっても、Syrup16g のようなものとはちょっと違う。浜崎あゆみには「敗者の美学」があるかも知れない。そして、ヤンキー性。要は、「ダサい」のである。反・近代? 反・西洋?

ここで浜崎あゆみは、

“カッコ悪い事なんかじゃない”

と大見得切って歌っているが、カッコ悪いのである。

このような “ダサさ” はそれまでの浜崎あゆみにはなかった。ここで浜崎あゆみは “ダサさ” を引き受けたのか?

しかしそれが、私にはとてつもなくカッコ良く映ったのである。

私小説から物語(ストーリー)へ

もう一つ、見逃せない変化がある。それまで浜崎あゆみといったら、自身が書く、自身の経験に基づいた “リアル” な歌詞が特徴だったはずだ。つまり、私小説である。歌詞の内容すべてが事実かどうかはともかく、歌の主人公=あゆであり、すべて「自分のことを歌っている」、それが揺らぐことはなかった。

しかし、『MY STORY』の曲を聴いていると、あれ?他人のことを歌ってるのかな?と思う瞬間がある。創作やフィクションを感じるのだ。

宇野維正は『1998年の宇多田ヒカル』(2016年)で、『A BEST』以降、浜崎あゆみは「「陽性」で「社交的」で「健康的」なポップ・アイコンとしての新しい仮面」を被ったと書いている。仮面を被ることを覚えた浜崎あゆみが、フィクションを描くようになったということか。

しかしここで重要なのは、浜崎あゆみが何を演じているのかということだ。仮面を被り、フィクションだとしても、浜崎あゆみが演じているのは自分自身、自分を演じているのだ。
浜崎あゆみは「自分語り」をやめたかも知れない。しかし、「自分語り」をやめたのではなく、「自分」が変化したのかも知れない。

今まで「等身大の自分」を歌ってきた浜崎あゆみが「浜崎あゆみ」を演じるようになった。その変化を察知して離れたファンもいるかも知れない。しかし、そこはサウンドの変化も大きかったのではないか。述べてきたように、大きな変化だったし、等身大云々言っているけれど、みんな「シャカシャカ」した浜崎あゆみサウンドが好きだったのでは? それか、これは “祭りのあと” のアルバム。みんな “祭り” が好きだったのか?

私は単純に、ロックが好きだから、ロック寄りになった彼女のサウンドを好ましく思っていた。しかし、それだけではない。なぜかそのころ、自分は「ロック」から捨てられてしまったような気がしていた。椎名林檎からも、くるりからも、捨てられた、あるいは、私が捨てた、もしくは、もともと持っていなかった。そんなとき、浜崎あゆみが鳴らすロックに希望を感じた。いつかの松浦氏のように、あゆが口ずさむレッド・ツェッペリンが私の中で鳴り響いたのかも知れない。

ユニセックスからセクシーへ

他にも、このアルバムにそれまでと違うところがある気がして、ぼーっとジャケットを眺めていたら、あった。ファーストアルバムから順番に見ていくとわかると思うが、『MY STORY』のジャケットには「色気」がある。それまでの浜崎あゆみはユニセックスだったと思うが、このジャケットは「セクシー」である。マドンナの『ベットタイム・ストーリーズ』(1994年)を思わせる。

もちろんジャケットだけではない。

この MV など明らかにセクシーだが、前作『RAINBOW』からその気配はあった。
2022年現在、浜崎あゆみを「フェミニズム」と絡めて語る人も出てきたが、「女性」を感じさせる表現はこの時期くらいからだった。それまではユニセックスだったし、これ以降も「女性」を意識したような歌はアルバムに 1~2曲の割合で、「女性賛歌」だけで浜崎あゆみを語ることはできない。上記の曲もよく聴くと、女性だけでなく男性にも向けられてるし、女性を鼓舞するだけでなく、女性を批判する視点も出てくる(ここでも「涙が武器」だなんていう古風な表現が出てくる。それを「いつの話」と言ってるわけだが)。重要なのは、「女性の解放」的な視点が出てきたということだ。

デビュー当時、永江朗は『音楽誌が書かない「Jポップ」批評』で浜崎あゆみの歌詞を「アンチ・フェミニズム」と指摘した。

<赤い糸>やら<じゃまする過去達に手を振ったよ>やら<長い夜もやがて明ける>やら、陳腐で紋切り型の言葉がちりばめられているが、この歌詞、アンチ・フェミニズムなんですね。運命は自分の手でつかむものと思っていた自立派の女が、現実世界の中で疲れ果てて、男から見られることで自信と誇りを回復するというストーリーである。
 浜崎あゆみの歌に私たちが感応してしまうのは、「グローバル・スタンダード」などといううさん臭い和製英語を合言葉に、優強劣弱の差別選別が進むなか、どうしたって蹴落とされる側でしかない自分を彼女の声に重ね合わせるからだ。不器用でけなげな浜崎、それは私自身だ。(永江朗)

音楽誌が書かない「Jポップ」批評

そんな浜崎あゆみに「フェミニズム」のような視点が出てくる。それは、「アンチ・フェミニズム」から「フェミニズム」に転向という単純な話ではない。どちらも内包した、その実どちらでもない、どちらの言葉でもつかまえられない複雑さがある。それが浜崎あゆみが抱えている矛盾であり、ユニセックスからセクシーへと足を踏み入れたことによって、矛盾したまま矛盾への突破力も増していくような説得力と力強さが。

まとめ

長々と語ってきたが、『MY STORY』は、「ロック」で、「歌謡曲」で、浜崎あゆみが「フィクション」という手法も手にし、この世の矛盾に生身で体当たりしていく・・・というアルバムということかな。って、無理やりまとめてみたけど。

挙げきれなかった MV を貼っておきます。

これも浜崎あゆみのロック好きが表れた曲ですかね。パンキッシュにも感じる。スター性がある人がロックやるの、やっぱ良いっすね。

これも生ドラムです。「しっろい~」って言葉の乗せ方がうまいですよね。オルゴールのようなレトロ感。

これ、アルバムの最後の曲なんですが、その前の「winding road」でキレイに終わればいいものを、こういう曲でちゃぶ台をひっくり返すあゆ、好きです。アレンジが久保田光太郎で、ギターが久保田光太郎、ベースが FIRE、ドラムが星山哲也。
で、これ、CREA(浜崎あゆみ)作曲なんです。こんなはっちゃけた曲をあゆが作るとは。ちなみにその前の「winding road」も CREA 作曲。このアルバムで CREA は、「WONDERLAND」というインストを作曲、編曲もしています。

浜崎あゆみ『MY STORY』、ぜひ聴いてみてください。

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